「博士」
「はいはい」
「今日はまた、随分と腰が低いですね」
「うむ――自由業者だからな。あの人もこの人も読者候補なのだと思い始めると、誰にどういう態度をとればいいのかわからなくなる」
「こっちがわからなくなります。ま、お互いいつも通りで」
「また悩んでいるようだね」
「ええ。左の小指がうまく動かないんです」
「ははは、僕なんか全ての指が動かないよ」
「それはそれでバランスがとれているのでは。僕は小指に限って異様に動かないんですよ」
「薬指と小指が思いきり連動する人というのがたまにいるね。君もそれでは」
「そんな風な気もします。博士は連動しないんですか?」
「子供の頃からサバラやグワシをやり慣れているせいか、わりと連動しないね。そんな僕でも薬指を単独で動かすのは、さすがに難しい」
「それ、ギター弾くとき困るでしょう」
「僕は人生そのものに困っているから、特定の時に困ったという感覚を得たことがない」
「そういう益体もない達観を求めてるんじゃない訳です、僕も読者も」
「実際の話、ジャンゴ・ラインハルトに入れ込むがあまり、人差指と中指だけ、たまに薬指を補助に使う程度でフレージングしようとしていた時期が長かったので、僕は自分でも不思議なほど小指を使わないんだ」
「不可能なフレーズも出てくるでしょう?」
「理論的には、ポジション移動さえ素早ければ不可能は無い。ただ、Amならここ、といった固定ポジションの感覚で弾いている人には訳がわからなくなるかもしれない。僕もコードによっては跳びまわる余裕が無くて、いわゆるコード崩しでフレージングする事が多い。あ、そういう場合は小指が出るか」
「やっぱり小指は必要なんですね」
「使えるに越したことはない。ついにこれを教える時が来たか。指の動き易さは物理的、心理的に、ネックの形状に左右される。極めておおまかに云うと、古いギターには丸太っぽい物、新しめのギターには断面が台形っぽい物が多い。後者は拇指をネックの裏に置くクラシカル・フォームに有利と云われるが、そういうギターで拇指をネックの上に出している人もいっぱい居るので、あまり知識を先行させないほうが宜しい。僕はコントラバスをやっていたので丸太っぽいほうが得意だとずっと思っていたが、平べったいギターで指が動いてしまう自分に驚いた事がある。またネック断面が相似でもナット、ブリッジにおける絃間はギターによって様々で、人間の感覚はこの比率を巧みに察知して、指が楽になったり萎縮したりする。この箸だと正しく持てる、なんて事がよくあるじゃないか」
「つまりは僕は、自分に合ったネックを探せば――」
「練習で解決するというのが最も金がかからないが、どうにも煮詰まってしまった時、楽器を変えてしまうのは有効な手段だ。日本の教育は基本が根性論だから、こういう発想は決して歓迎されないが。取り敢えずここには沢山の楽器がある。君には弾きたいフレーズがちゃんとあるわけだから、取っ替え引っ替え、それを弾いてみたまえ。なんらかの結論は出るだろうよ。どのギターでも同じくらい弾きにくいとしたら、それはそれで一つの見識だ。新しい練習法を考えればいい。今は色んな情報が無料で手に入る。よって我々は体験せずして物事を知った気になれてしまう。この時代、体験せずしての思い込みこそ、我々の最大の敵なんだ」
「博士、顔が劇画です」
「こういう話題ではシリアスにもなるよ。僕は小説家という仕事に就いてみるまで、それが如何なる仕事なのかわからなかった。ただ文章が得意だというのでぽつりぽつりとアルバイトを貰えるようになり、結果として今の状態がある。かつまた、僕は小説を書いている場面を他人に見せる事は滅多にない。むかしうちで飲んでた早見裕司さんが、居眠りから這い上がった僕が『続きの数行』を書き始めたのを見て驚いていたが、そういう目撃は稀有な例外、ラヂオデパートの面々だって、僕がいつどう小説を書いているかなんて知らないよ。なのに、何一つ体験した事も見た事もない癖に、小説家とは云々と語りたがる人達は多い。かつて古いマーティンのD-45を弾いた事がある。それはもう素晴しいギターだった。しかし弾いた事もない癖に『ヴィンテージに高い金を出すなんて』と嗤う人達がいる。弾いたうえで金額に見合わないと判断するのはいい。弾かずに決めつけるのは如何か。逆も云える。安価なギターにも傑作はある。面白い話がある。以前楽器店でストラトのジェフ・ベック・モデルを試奏していた時だ。別の接客で離れていた店員が、ほらね良い音でしょう、それはピックアップが――などと云いながら近づいてきた。でも僕がそのとき弾いていたのは、比較のために持参していた、アメリカン・スタンダード・ストラトキャスターのボディに国産テレキャスターのネックを無理矢理ねじ込んだ、なんの価値もないギターだったんだ。そこにある赤い奴だよ」
「これですね。あ、本当に無理矢理ねじ込んである」
「ちょっと合わなかったから足で踏んでね、そのままネジ留めしてしまった」
「ナイスな音色です。ストラトじゃないと駄目だと云う人達の気持ちがちょっとわかりました。こっちのグレッチも弾いていいですか」
「どうぞどうぞ。古いギブソン、テスコ、丸太ネックのテレキャスター、変わり種だとテレキャスター・デラックスや、Ovationのエレキなんてのもあるよ」
「――やや、博士。このギターは!」
「良い引きになっているので『つづく』としよう。そうそう、せんの屋根裏でのセットリストをアップし忘れていたんで、後で置いておくよ。ちなみに1/31のフリーフローランチは40分×2ステージだ。オリジナル曲はぜんぶ演るくらいの勢いになるね。考えてみたら初のワンマンか。店の雰囲気もいいんで、石黒くんも是非来てくれたまえ」
「はいはい」
「今日はまた、随分と腰が低いですね」
「うむ――自由業者だからな。あの人もこの人も読者候補なのだと思い始めると、誰にどういう態度をとればいいのかわからなくなる」
「こっちがわからなくなります。ま、お互いいつも通りで」
「また悩んでいるようだね」
「ええ。左の小指がうまく動かないんです」
「ははは、僕なんか全ての指が動かないよ」
「それはそれでバランスがとれているのでは。僕は小指に限って異様に動かないんですよ」
「薬指と小指が思いきり連動する人というのがたまにいるね。君もそれでは」
「そんな風な気もします。博士は連動しないんですか?」
「子供の頃からサバラやグワシをやり慣れているせいか、わりと連動しないね。そんな僕でも薬指を単独で動かすのは、さすがに難しい」
「それ、ギター弾くとき困るでしょう」
「僕は人生そのものに困っているから、特定の時に困ったという感覚を得たことがない」
「そういう益体もない達観を求めてるんじゃない訳です、僕も読者も」
「実際の話、ジャンゴ・ラインハルトに入れ込むがあまり、人差指と中指だけ、たまに薬指を補助に使う程度でフレージングしようとしていた時期が長かったので、僕は自分でも不思議なほど小指を使わないんだ」
「不可能なフレーズも出てくるでしょう?」
「理論的には、ポジション移動さえ素早ければ不可能は無い。ただ、Amならここ、といった固定ポジションの感覚で弾いている人には訳がわからなくなるかもしれない。僕もコードによっては跳びまわる余裕が無くて、いわゆるコード崩しでフレージングする事が多い。あ、そういう場合は小指が出るか」
「やっぱり小指は必要なんですね」
「使えるに越したことはない。ついにこれを教える時が来たか。指の動き易さは物理的、心理的に、ネックの形状に左右される。極めておおまかに云うと、古いギターには丸太っぽい物、新しめのギターには断面が台形っぽい物が多い。後者は拇指をネックの裏に置くクラシカル・フォームに有利と云われるが、そういうギターで拇指をネックの上に出している人もいっぱい居るので、あまり知識を先行させないほうが宜しい。僕はコントラバスをやっていたので丸太っぽいほうが得意だとずっと思っていたが、平べったいギターで指が動いてしまう自分に驚いた事がある。またネック断面が相似でもナット、ブリッジにおける絃間はギターによって様々で、人間の感覚はこの比率を巧みに察知して、指が楽になったり萎縮したりする。この箸だと正しく持てる、なんて事がよくあるじゃないか」
「つまりは僕は、自分に合ったネックを探せば――」
「練習で解決するというのが最も金がかからないが、どうにも煮詰まってしまった時、楽器を変えてしまうのは有効な手段だ。日本の教育は基本が根性論だから、こういう発想は決して歓迎されないが。取り敢えずここには沢山の楽器がある。君には弾きたいフレーズがちゃんとあるわけだから、取っ替え引っ替え、それを弾いてみたまえ。なんらかの結論は出るだろうよ。どのギターでも同じくらい弾きにくいとしたら、それはそれで一つの見識だ。新しい練習法を考えればいい。今は色んな情報が無料で手に入る。よって我々は体験せずして物事を知った気になれてしまう。この時代、体験せずしての思い込みこそ、我々の最大の敵なんだ」
「博士、顔が劇画です」
「こういう話題ではシリアスにもなるよ。僕は小説家という仕事に就いてみるまで、それが如何なる仕事なのかわからなかった。ただ文章が得意だというのでぽつりぽつりとアルバイトを貰えるようになり、結果として今の状態がある。かつまた、僕は小説を書いている場面を他人に見せる事は滅多にない。むかしうちで飲んでた早見裕司さんが、居眠りから這い上がった僕が『続きの数行』を書き始めたのを見て驚いていたが、そういう目撃は稀有な例外、ラヂオデパートの面々だって、僕がいつどう小説を書いているかなんて知らないよ。なのに、何一つ体験した事も見た事もない癖に、小説家とは云々と語りたがる人達は多い。かつて古いマーティンのD-45を弾いた事がある。それはもう素晴しいギターだった。しかし弾いた事もない癖に『ヴィンテージに高い金を出すなんて』と嗤う人達がいる。弾いたうえで金額に見合わないと判断するのはいい。弾かずに決めつけるのは如何か。逆も云える。安価なギターにも傑作はある。面白い話がある。以前楽器店でストラトのジェフ・ベック・モデルを試奏していた時だ。別の接客で離れていた店員が、ほらね良い音でしょう、それはピックアップが――などと云いながら近づいてきた。でも僕がそのとき弾いていたのは、比較のために持参していた、アメリカン・スタンダード・ストラトキャスターのボディに国産テレキャスターのネックを無理矢理ねじ込んだ、なんの価値もないギターだったんだ。そこにある赤い奴だよ」
「これですね。あ、本当に無理矢理ねじ込んである」
「ちょっと合わなかったから足で踏んでね、そのままネジ留めしてしまった」
「ナイスな音色です。ストラトじゃないと駄目だと云う人達の気持ちがちょっとわかりました。こっちのグレッチも弾いていいですか」
「どうぞどうぞ。古いギブソン、テスコ、丸太ネックのテレキャスター、変わり種だとテレキャスター・デラックスや、Ovationのエレキなんてのもあるよ」
「――やや、博士。このギターは!」
「良い引きになっているので『つづく』としよう。そうそう、せんの屋根裏でのセットリストをアップし忘れていたんで、後で置いておくよ。ちなみに1/31のフリーフローランチは40分×2ステージだ。オリジナル曲はぜんぶ演るくらいの勢いになるね。考えてみたら初のワンマンか。店の雰囲気もいいんで、石黒くんも是非来てくれたまえ」
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