no music no lifeかもしれない日々

素人による音楽的感想を目的とするRAG FAIR中心ブログ

再論・作り手と聴き手の期待 その4

2006-04-17 17:22:32 | RAG FAIRその他考察
~ファンはどのように受け止めているのか~

「期待」というものが楽曲が出る前の段階の感情であるのに対し、これは既に世に出された楽曲に対してファンがどういう態度をとるのか、という話です。

「彼らは「変わらない」とはひとことも言っていません。むしろ変わり続けていこうとしているのかもしれません。
それならファンもそんな彼らを信じて『あ、今彼らがやりたいのはこういうものなんだ』と受け入れてあげればいいのではないでしょうか。」

「メンバーがイイと思った楽曲を否定するなんて思いもよりません。」

「どの曲もそれぞれメンバーがいろいろ話をして作り上げてきたものですよね?もちろん主観的な感想はたくさん出てきますけど(笑)
だからどんな曲が出てこようとその時彼らのベストでやったことだから何にも異論とかは無いですよ。」

「私はその過程を見守り続けて、意見を彼らにぶつけ続けていきたいと思っています。」

「RAGさんファンの方々の中には、RAGさんの音楽と同じ位、RAGさんの人間性が好きだという方が居ると思います。アタシもそのうちの一人です。だから、自分の苦手な音楽をRAGさんが発表したとしてもきっと…というか確実に聴くと思います。」

「楽曲としての好き嫌いと、彼らのこだわりを理解したいという気持ちは、一緒にはできない。」

「RAGが好きだから、彼らの作る曲はすべて受け入れます。私はハモネプからのファンですが、彼らが試行錯誤してきた過程をしっかりみてきたつもりです。楽器をいれることは否定しませんが、あくまで私の個人的な想いはアカペラでやってほしいということです。」

ファンの受け止め方について類型を分けるとすれば、
・そのアーティストの出す音楽は全て肯定する、アーティスト単位のファン
・その中でも否定的な楽曲もある、楽曲単位のファン
・アーティストの出す音楽を基本的には全部受け止めつつ、それとは別に主観的な楽曲への感想を持つ、中間的なタイプのファン
という主に3つの類型があることはpoorbassistさんがまとめておられるとおりですが、そのどの類型に位置するかは他人が一概に言えることではありませんし、この中でどういった態度が適切であると言えるものでもないと思います。
音楽の受け止め方なんて、他人から押し付けられるような性質のものではありません。
それぞれが、すべて大切な尊重されるべき想いだと私は思います。

しかしその中でも私の目を引いたのは、それぞれの楽曲に対して思うところがありつつも受け入れて見守っていく、という意見の多さです。
その一因としては、何人かの人が挙げておられた「キャラ>曲」というファン感情が確かにあると思います。
他方。

「今までのラグのチャレンジも、「ホントにそれでいいの…?」ってハラハラすることけっこうありましたもん(笑)。でも、次のステップに行くころには、必ずそこで得たモノ見せてくれるんですよねぇ、無駄じゃなかったんだって思わされる。」

ファンの目に映るものは、その時に世に出た1曲でしかなく、長い目で見るということは困難です。
しかし、結果的にすべての活動を自分のものにしてみせてくれるから、たとえ1つの楽曲に疑問があったとしても彼らを信じていられる。
結局、ファン感情というものはアーティスト自身に支えられているんだなぁと感じました。



最後にもう一度、ファンがRAG FAIRに何を期待しているのかという点に戻ります。



「『アカペラに囚われる』というよりも『ジャンルに拘らない』彼らであればいい。歌を歌うことを身体中で喜び楽しみながら歌う彼らが居れば、楽器があろうがなかろうがどうでもいい。」

「彼らが納得して歌っていなければ、それはもはやRAG FAIRの曲ではないと思います」

「RAG FAIRが好きだから、たとえ彼らが迷走していようと、彼らが私たちに全力の音楽を届けてくれる限り応援するしついていきます。」

「私が一番、怖いと思うのは、彼らがアカペラをただの手法とだけしかとらえなくなってしまって、「アカペラで歌えばいいのね」と思ってしまうような曲を発表する存在になることです。そういう意味では、いろいろ寄り道(楽器)をしながらも、自分たちの音楽を高めていって欲しいと切に願っています。」

「メンバーは現時点でファンやみんなに聴いて欲しい、伝えたい自分達の音楽を妥協しないで出してくれていると思っています。であって欲しいという希望を持っています。アーティストが自分達のしたい音楽が出来ないのは、1番の不幸だと思いますので。」


最後の最後に、私の友人の言葉に私自身がとても納得したので、引用させてもらいます。


RAG FAIRが、好きならば。
考えて悩んで、好きという気持ちを忘れず、音楽の素晴らしさを感じ、RAG FAIRの音楽を信じてどんと構えて。
彼らが、ああこのファンに自分達の音楽を聞かせたい、と思えるような、そんな暖かさを準備して待っていたい。
RAG FAIRが期待を裏切ったことはないから。


私の予定をはるかに超えて長くなりすぎましたが、以上でこの話を終わりとさせていただきます。
こんなふうにファンのみなさんと音楽に関して意見を交換するのははじめてのことだったのでいろいろな発見があり、非常に有意義でした。
意見をくださったみなさん、こんな長文に最後までおつきあいいただいたみなさん、本当にありがとうございました。


・・・あと洋輔さん、トラックバックでブログを荒らしてすみません。(深々と礼)

再論・作り手と聴き手の期待 その3

2006-04-17 00:30:32 | RAG FAIRその他考察

前回、アーティストが楽曲を発表する際に何を考えているのか、それをファンはどう見ているのかについてまとめました。

~では今のRAG FAIRは?~

その2で、ファンの期待をそのまま実現してほしいわけじゃないしRAG FAIRのアーティストとしての判断を尊重して受け入れたい、という意見が多かった。
にもかかわらず、ファンの抱える疑問や不安があります。

・「RAGとして新曲が出る以上、建前上彼らが最終的に決定したことになる訳ですが、気になることは、自発的だったのか? それとも(何らかの事情で)納得させられたのか? ということです。
最終的には(しぶしぶだろうが)全員同意しての結果でしょうが、出来れば自発的であって欲しい。」

・「武道館であれだけ「声だけ」にこだわっていたので、てっきりそれは今後のRAG FAIRのコンセプトになると思っていた。
それなのに、あれ?と。不安になるんです。
あの人たちが本当にあの人たちのやりたいことをやれているのか。方向性に迷っているんじゃないのか。納得して世に曲を出しているのか。一番は、楽しんで音楽しているのか。
今回楽器が入ることについて、少々疑問を感じている私を含めたファンの方々は、一様に「不安」ってのを感じたんでしょう。」

一番初めにも書きましたが、アーティスト自身が選び取った結果であると信じきれない、というのは、ファンにとっては巨大な不安要素です。
そういった不安を持つファンがいるということは否定できない。

この点に対し、「ファンの不安」というものは不可避なものであるという側面が一方ではあります。

「アーティストの変化に、聴き手が追いついていないんでしょう。聴き手が、そのアーティストを好きになったときの感性・価値観って、そうそう変わらないと思うんですよ。でもアーティストはどんどん「自身にとってより良いもの」を目指して変化していく。そうして価値観の差が広がっていくから、信じにくくなるし不安になるんだと思います。ラグなんて増してあっち行ったりこっち行ったりいっぱい回り道して模索して来てるから、(あれ?私の好きなラグと違う…。)ってことも多いですよね。」

これはRAG FAIRに限定したことではありません。
アーティストの音楽性が変わるということはある意味自然なことで、それにファンがみんなついて行くわけではない。
だから、ファンがアーティストの音楽性に対して疑問や不安を抱くことは自然なことだ、という見方です。

他方、この不安にはファンの側の問題点もあるのではないかという指摘があります。

「楽器入り=第三者その他様々な理由からの不可抗力では?=納得していないのでは?」という図式がファンの間で無意識のうちにできてしまっているから、不安が生まれて、そしてそれが楽器を入れることへの抵抗感に繋がるのかもしれません。

「オリジナリティー」で勝負するといった時に、「アカペラ」という武器を持ってデビューしているので、自らその武器が棘のようにメンバーにからみついてがんじがらめになっている気がしました。それはファンも同じで、「楽器バンドなら他のグループでもいい。私はアカペラの彼らが好きなんだ!」と、「アカペラで歌わないとダメだ!」と却下の刻印を押してしまっているのではないでしょうか?

ファンが「アカペラ」もしくは「ラグらしさ」という価値観にしばられているのではないかという指摘です。
これは、特にRAG FAIRで大きい問題だと思います。
活動の芯が動き続けてきて、リアルに「RAG FAIRの危機」だった時期があった。
それを経て「RAG FAIRらしさ」というものを見出して出てきた楽曲が、久々のアカペラ曲のハレルヤだった。
あの時、メンバーが全員心底納得してこの曲を出したんだ、ということをファンは感じたはずです。
そしてその方向性をわかりやすくあらわした曲であることを前提に、ハレルヤという曲はファンに受け入れられたのだと思います。
そしてそれ以来、既存の曲のアカペラリアレンジを含め、ライブは常にアカペラでした。
そのことによって「RAG FAIRの魅力」とは、6人の声「だけ」でどこまでのことができるか、とファンが限定して思い込んでしまったのではないか。
「メンバー自身が価値を置けるRAG FAIRの楽曲」は、「RAG FAIRらしさ」と関係していなければならない、と思い込んでしまったのではないか。
その思い込みは、RAG FAIRの活動の幅を極端に狭めます。
極論すれば、ファンは彼らにワンパターンの活動を求めているのか、ということにもなりかねません。


この点と関連して、RAG FAIRの側に問題点があるという指摘があります。

「アーティストとしてのモノの考え方、音楽に対する姿勢がRAGからはあまり伝わってこないと感じています。
ぶっちゃけ何を考えているのか分からない。
なぜその歌詞なのか、なぜそのアレンジなのか、なぜその音なのか、アーティストとして音楽についてとことん話せる場がないのではないでしょうか?
だから、どこを見ているのか伝わってこないのではないかと思います。」

「説明するという事は、方向転換しまくるラグにとって絶対必要なのだと思いました。方向変えても、どうしてそうしたのか、そこで何を頑張ったのかとかきちんと話す、そう言った誠実さが見えないと着いていけないだろうな、と。説明なかったらファンも迷子になっちゃいますて。」

メンバーからの説明がなかったら伝わってこない。
無条件で彼らについていくことはできないという人は少なくはありません。
今の段階では、新曲がどういうものなのか、今どういう方向性でどんな活動をしているのか、という説明は一切ありません。
新曲を断片的に関東でちょこっと聴けるだけ、という状態。
つまるところ、今回の論点「今のRAG FAIRは?」という点は、わからない、という結論です。

もうちょい続きます。


再論・作り手と聴き手の期待 その2

2006-04-16 12:45:30 | RAG FAIRその他考察
みなさんからいただいたコメントをまとめて作り手の意図と聴き手の期待について論じよう、その2。

今、ミュージシャンが世に送り出す際の意図とファンの受け止め方の関係性について論じているわけですが、この点の一般論につき、poorbassistさんが非常に簡潔に客観的にまとめてくださっています。
こちらの記事をぜひご覧ください。
poorbassistさんのまとめに添って、RAG FAIRに特化してみなさんのコメントを紹介していきます。
当然のことながら、これらの要素がファンの目にどう映っているのか、という話になります。


~作り手は何を意図しているのか?~


<ミュージシャンが作りたいもの>

・「私はRAGにはRAGにしかできない音楽があると信じています。だから‘アカペラなんだからこうあるべき’という枠は作らず、そのときメンバーが作りたい作品を作ってくれればいいと思っています。
DVDで洋輔さんが言っていたように、RAGは他の人ができないような数々の貴重な経験をしてきています。それを吸収・消化して自分たちなりの音楽をみつけてくれることを私は頼もしく思いますし、それこそが‘オリジナル’だと思います。
私はラグピーで見せてくれたセッションも大好きでしたし、武道館のように6人の声にこだわった構成も素晴らしいと思います。どちらもRAGにしかできないことだと思いますから。」

・「私は、楽器を入れることにそこまで否定的ではないです。もちろん、6人だけの声で作られた曲が良いと思いますけどね。でも、言ってしまえば、声だけで作られているものだってほとんどの楽曲は重ね録りで完全6声ではないですよね。私に言わせれば、それも楽器を入れることと同じなんじゃないかと思います。だって、確かに6人の声だけど「せーの」でCDのまんま歌える訳じゃないんですから。
どちらも同じ、作った曲をよりよくしようとした結果だと思うんです。アーティストとして、良い曲を作り上げようとしただけだと。」

・「RAGさんに「ファンのための音楽」を作れとは言いたくないのです。それが必ずしもRAGさんの「自分達がやりたい音楽」と一致するとは限りませんから。本当に「自分達がやりたい音楽」をしているアーティストさんがどれだけ居るのかは定かではありませんが、「音楽」に対する強い思いを必ず持っていると思うので。」

RAG FAIRがやりたい音楽はなんなのか、ということを、みなさんが強く意識して彼らの活動を見ているんだな、ということがよくわかります。


<大衆の求めるもの>

・「楽器を入れた楽曲。「君なけ」などですね。ファンには不評でも、ファンでない人々には「良い曲だ」となかなか好評だったりします。
ファンに「良い」と認められる音楽と、ファンではない一般の人に「良い」と認められる音楽。
アーティストにとってはどちらも同じくらい価値があるのではないでしょうか。」

・「今までタイアップになった曲を考えて下さい。楽器が入った曲が多いですよね。つまり。『一般受けするもの』なんですよね。
『アカペラ』というのはまだまだ敷居は高いですし、『アカペラの魅力』というのもまだまだ認知されていません。楽器が入れば圧倒的に世界観が変わります。
そしたら一般の人に聞いてもらおう、幅広い人達が聞いてイイ曲って思ってもらうようにって思えば楽器を入れますよね。」

一般受けするためには楽器が入っていなければならない、と結論付けるとすれば性急にすぎると思います。
でも、一般受けしやすくなるための一つの要素であるとは言えると思います。
この根底にあるのは、大衆が求めるものを出す=オリジナリティを緩めて大衆の価値観に近づける、という発想ですよね。


<ファンの求めるもの>
 
・「でも、だからと言って、ファンの期待や要望を無視してもいいのか。
勿論コレは否、です。
メンバーがファンを大事に思っていてくれていることは、ファンである私達が一番わかっているはずです。」



これらは全て、無視できない要素であることは言うまでもありません。


・「アーティストとからしたら自分たちに興味のない人たちに聴いてもらいたいという欲は絶対にあるはずで、ファンが望む曲作りと一般受けするように曲を作る狭間で仕上げていくのだと思います。」

・「作り手と聞き手の思いが一致する事は、なかなか難しいと思います。
聞き手の思いを知りながらも、作り手としてはチャレンジしたい事があったり、聞き手の思いに答えようとしても、うまくいかなかったり・・・。」



みなさん、ものすごくバランス感覚のあるご意見をくださいました。

すみません、まだまだ続きます。

再論・作り手と聴き手の期待 その1

2006-04-15 03:43:24 | RAG FAIRその他考察

みなさんからいただいたコメントを整理していきます。

~ファンはRAG FAIRに何を期待しているのか?~

抽象論はとりあえずさておいて、具体例から先に論じます。
RAG FAIRが楽器を入れることに関して、ファンはどう思っているのか。


<楽器に対する抵抗がある立場から>

「楽器が入るということは、多かれ少なかれ、知らない第三者がラグに紛れこんでるという印象を与えます。だから(なんかちょっと邪魔だな~、ラグメンの声だけ聴きたいのに)ってな感じでマイナスイメージになるんじゃないかしらん。一部分は。」
RAG FAIRというバンド、6人の人間が好きだから、楽器はそれを邪魔する結果になる、という完全な「RAG FAIRのファン」の立場からの理由ですね。

「RAGさんにハマったきっかけが「音楽会」でした。
楽器なしでこんなに素敵な音楽ができるんだ!という感動があったのです。
もちろん、楽器を取り入れて音楽の可能性を広げるのも良いと思います。
ただ、RAGさんは楽器がなくても十分素敵な音楽が出来るのに…
という思いが心の中にあるのです。」
「やはり、声にこだわってほしい。彼らの声が、好き。絡まりあう複雑な声を楽しみたい。実力派コーラスグループはたくさんあって、そことの違いを明確にするには声のみでの特徴を前面に出してほしい。」
これは同じ「ファンの立場」からの理由でも、ファン以外にも該当する可能性のある理由です。
楽器なしでやるということそのものに魅力がある、という見方。

「CDを聴く時、私は必ず6人が歌う姿を思い浮べます。それはイメージしようと思ってするのではなく、自然と頭に浮かんでくるものです。楽しそうな6人をイメージする中で、楽器の音が聴こえてきた時、それは自然には頭の中に入ってはこない。自分の頭の中で行き場がない状態になる。それが抵抗感になっているんだと思います。」



<楽器に関して抵抗がない立場から>

楽器に対して抵抗がないことの理由は、みなさん割と一致しています。

・「楽しそうに歌っている彼ら」が好きなファンなので、曲自体の好き嫌いが出ることは格別、楽器が入ることに対してさほどの抵抗感はありません。
勿論、それを「その時点で彼らが自信を持って選んだ」と信じていられる限りにおいて、ですが。
楽しそうに歌ってくれればそれで十分です。」

・「私は「OFLS」からファンになりました。つまり楽器が入っている曲からです。
でも初めて聴いた時、楽器は全く耳に入りませんでした。彼らのハーモニーに惹かれたんです。
だから楽器が入っていようがいまいが、彼らの声が素晴らしければ関係無いような気がします。」

・「何だかんだ言って楽しそうに歌っているメンバーが見れて良かった。
皆、思っているんじゃないでしょうか?」

メンバーが楽しそうに歌っていればいい、楽器があっても「声の魅力」というものが前提にある限り。
そういう意見で一致しているように思えます。



これらの意見は、みなさんがRAG FAIRを好きな理由と直結しています。

彼らの「人間」が好き。
彼らの「声」が好き
「楽しそうに歌っている姿」が好き。

ただ論理必然な結論ではなく、同じ「声の魅力が好き」という理由からでも、だからこそ「声のみでやってほしい」という立場と「声の魅力が出ていれば楽器が入っていても大丈夫」という立場に分かれます。


ではこれをふまえて、ファンが期待しているものは何か、という点について。

ここではっきりさせておきたいことは、「期待」というものの段階です。
ファンが何かしらの期待を持っているからといって、それが「作り手の音楽制作をコントロールしようとしている」ということにはならないと思います。
極論すればそうなるのかもしれませんし、解釈の仕方やファンからの意見の伝え方によって、そう見えてしまう危険性は否定できません。

でも、ファンの期待にあわせて自分たちが納得できないものでも出して欲しいなんて思っている人は、いるでしょうか・・・?

「ファンのアーティストに対する期待」と「ファンによる制作のコントロール」は次元が違います。
この点ははっきりさせておくべきことだと思います。


とすれば、みなさんの意見はそんなに食い違いません。

一旦ここで切ります。


こんなふうにファンが音楽について論じる機会は、そうそうない貴重なものだと思います。
ので、メンバーのブログにトラックバックさせていただきます。
ブログの趣旨に照らして、こういった内容のトラックバックはあまりふさわしくないような気もするんですが・・・、せっかくの機会ですのでご容赦いただきたく思います。

みなさんからいただいた熱いコメントですが、ここには抜粋しか載せておりません。
ぜひ全文をお読みいただければと思います。

・「作り手の意図と聴き手の期待
・「論点整理


論点整理

2006-04-14 02:02:14 | RAG FAIRその他考察
いろいろな意見をいただいています。ありがとうございます。
とりあえず、論点を整理します。

この議論のテーマは、
「作り手の意図と聴き手の期待について」
です。

次に、論点を分けます。

1、ファンは何を期待しているのか。
(楽器を入れることがどうなのか、はこの論点に含まれますが、これはあくまでも一つの具体例であって、作り手と聴き手のずれを論じる上では傍論です。ですが、問題を具体的にイメージするためにこれを論じることはある程度有意義だと思います)

2、RAG FAIRが作りたい音楽はどのようなものか。

3、1と2は一致しているのか一致していないのか。

4、一致していないとすれば、どう対応するのが良いのか。


以上4つの論点に分けて、みなさんの意見をまとめていきたいと思います。
これは私がみなさんの意見をまとめる上での便宜のために設定した論点ですので、あまり気にしないでください。
引き続きご意見お待ちしております。


それから、ズボンドズボンの歴史を振り返る その1の記事についてですが、アルバム『ズボンドズボン』の詳細を教えていただきましたので加筆・訂正しました。

作り手の意図と聴き手の期待

2006-04-13 02:53:14 | RAG FAIRその他考察
ズボのことを考えていると、どうしても作り手の意図とファンの期待のずれを考えないわけにはいきません。

例えば、ラグファンの「楽器」に対する拒否反応。
6人の声だけでやってほしいという期待が前提にあることによって、新曲に楽器が入っているとそれだけでも大きなマイナス要素になる。
Do It!に関しても、「え、楽器入ってるの・・・?」という反応をたくさん見ました。
武道館DVDで洋輔さんが「次はわかんない」と言っていましたが、次のツアーを楽器サポートを入れてやられたら、確実にがっかりするでしょうね、ファンは。
洋輔さんがインタビューではっきり「名曲」と言い切る君でなければにも、価値をおいていないファンは多い。
Summer Smileがオールナイトニッポンで宇宙初オンエアになった時、サックスが大きく聴こえた瞬間に頭から血が引いたのをはっきりと覚えています。そして自分の「アカペラ」というものに対する期待の大きさに驚愕しました。
それだけ、RAG FAIRはアカペラでやってなんぼ、というファンの期待が大きいことは間違いないでしょう。
今までこれだけ楽器を入れた曲を出してきてもこの現状であるということは、「楽器を入れたほうがいい」という点に関してRAG FAIRがファンを説得できていないということにもなります。
なぜファンが「アカペラ」にそこまで固執するのかはまた別問題ですので触れません。

じゃあ、作り手に楽器を入れることに対する明確な意図があった場合でも、ファンの期待にあわせるべきなのか。
そんな問題が出てくるということは、その人の音楽において何に価値を置いているか、ということについて、作り手とファンが一致していないということが当然の前提にあるからです。

ずれはずれとして事実を認識した上で、作り手の意図を優先させるのか、聴き手を優先させるのか。
言い換えれば、作り手の「音楽を作る」ということに対する動機付けが、「自分たちがいいと思ったものを聴き手にもいいと思ってもらいたい」ということなのか、それとも「聴き手を楽しませる」ということなのか、ということです。

その点がはっきりしないから、聴き手は作り手が何をやりたいのかわからなくなって、不安を覚える。



RAG FAIRもズボンドズボンも、抱えている問題は本質的には同じです。





もう一つ付け加え。
作り手がやりたい音楽をやってくれることは本来ならばファンが望むところであると考えるのが自然だと思います。
にもかかわらず「楽器」に対してこれだけの拒否反応が出るということは、ファンが、楽器を入れるという判断がメンバーが本当に望んだものだと思っていないからじゃないかという気がします。
ほんとにこれでいいの・・・?と。
メンバーの判断を信じられないということは、それだけで巨大な不安要素です。
今までRAG FAIRの活動の芯が動き続けてきたから、それを信用していいのかわからない、新曲についてメンバーの説明がほしい。
RAG FAIRとファンの関係の特殊性(つまりヲタがキモいとかダメ出しが多いとかライトファンが少ないとか)は、このへんに起源があるような気がします。

・・・という邪推


これ洋輔さんとこにトラバしたら怒られますかね?



※追記
いただいたご意見を整理して、もう一本記事を上げます。
ご意見のある方はぜひともお聞かせください。
疑問でも反論でもなんでもかまいません。

ズボンドズボンの歴史を振り返る その3

2006-04-12 14:47:37 | ズボンドズボン

・『ロングスカート』(2004年12月)
メンバーは、今の4人とベースの渉さん。
礼央さん本人が「リアルにコンセプトなし」と言うように、ベスト盤的な内容。
ポップでスウィングジャズっぽい音で、ストリングスや管楽器を多用した、ゴージャスな音作りになっています。
楽曲においても音作りにおいても、それまでのアクの強さが取っ払われた印象があります。
礼央さんの声と楽器隊がやっとケンカしなくなって耳に引っかからずに聴けるので、比較的聴きやすいのではないかと思います。
だからこそ、スカートのころのズボンドズボンが好きだった人たちがロングスカートに対してどう思ったのかが知りたいところですけれども。
これといった特徴のない曲と、ぱーっとテンションを上げる曲が混在しているので、人によっては捨て曲が多いアルバムになる可能性もあります。

ズボンドズボンから扉までの5枚のうち、ツインボーカルという形態が最も活かされたアルバムだと思います。
「束縛しないカップル風バンド」とか言いますが、それぞれが誰かに扮して寸劇を演じている印象があります。

だからこそ、ズボンドズボンはライブ向きのバンドであるということが如実にあらわれたアルバムでもあります。
何かを演じようとする時、そこに視覚的効果が伴えばより効果的になるということは明白です。
のみならず、CDで聴く分には少しくどいという可能性もあります。
見たことがないミュージカルのサントラを聴くときのように、曲のテンションに聴く側がついていけない。
単純にCDよりも生のほうがいいという話ではなくて、ライブ仕様でつくられている。
ライブ向きとはそういうことです。


結論:ズボンドズボンのエンターテインメント性=舞台上でカップルが演じるショーを、その横顔や舞台裏を交えてお見せします!



と、結論づけたばかりですが・・・

・『扉』(2005年10月)
このアルバムで一気に方向転換がはかられます。
きっかけはよくわかりませんが、渉さんの脱退。
メンバーの言によると、彼の脱退により音楽的な中心を失ったようですね。
何も出来なくなった。という発言を聞いたことがあります。
つまり今までのエンターテインメント性を維持するのが無理になったということだと解釈する以外にないでしょう。
なぜ無理になったのかはちょっと疑問なんですけど。

今までのポジティブをつきとおす路線ではなく、弱いところもさらけ出す内面の表現ということに、ズボンドズボンとして初めて足を踏み入れた。
音作りは一気にシンプルになります。
これによって、ズボンドズボンは根本的な方針の転換をはかり、このアルバムは新しいズボンドズボンへの「扉」という位置付けになります。

アルバム『扉』の「扉」としての価値については、発売日翌日に書いたレビューがあるので詳しくはこちらからどうぞ。


結論:ズボンドズボン=エンターテインメント、じゃないんです。



そしてズボンドズボンは扉を開けて、その外へと足を踏み出しました。(と本人たちは言っています)


<完>




・・・なんですが。


いきなり次回予告!(何)
扉を開けたズボンドズボン。
本人たちにとっての価値はともかく、ファンにはこの現状はどう映っているのか?
「土屋礼央」にとってズボンドズボンとはどのようなバンドなのか?
そしてズボンドズボンの今後は?
ファンでも専門家でもましてや関係者でもない管理人が、独断と偏見に基づいてばっさり分析します。

新シリーズ「ズボンドズボンの今を考える」

乞うご期待!


新曲

2006-04-11 02:17:52 | RAG FAIR的雑談

えーとうんまぁ流れてましたね。
録画ボタンを押してみましたが、再生の仕方がわからなかったので(素)まだ1回しか聴いてません。
ヘッドホンで聴くんだった。
そんな頼りにならない状況で思ったことは3つだけ。

↓一応反転
・リードが洋輔さんだ。へぇ。
・楽器が入ってる。ほんとに「アカペラ」ってことにはこだわらないんですね。
・HANA系?

んー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どこかでまともにオンエアされる&メンバーからの説明を待ちましょう。


予習は出来てませんが、ここで無理しても仕方ないので寝ます。
先週末に体調を崩した分は、絶対に絶対に後から取り返します。


ズボンドズボンの歴史を振り返る その2

2006-04-09 22:16:33 | ズボンドズボン

『ズボンドズボン』から『扉』まで順番に聴いて、ズボンドズボンの歴史と音楽性の変遷を無駄に分析しようという試みの第二弾です。

・『ローライズ』(2003年9月)
メンバーはこの時5人。ベースが鈴木渉さんになり、キーボードの唐沢さんが一部演奏に参加していますがメンバーじゃなくなります。

スカートの混沌っぷりに比べ、明らかに各メンバーの役割が曲ごとにはっきりと分かれはじめます。
「OPYJ」や「ローライズ」のようなインスト曲が入ったり、「いつでもそばに」のように純子さんが全編リードを取って礼央さんは一切目立たないコーラスに徹する、といった、それまでは見られなかった曲がでてきます。
逆に言えば、それ以外の曲は基本的に礼央さんがリードを取り、純子さんや楽器隊は礼央さんの伴奏に徹するという傾向が顕著にあらわれるのもローライズ。
スカートまでは、「なんかいろいろつめこまれた曲」というイメージが1曲でできあがっているのに対し、ローライズ以降は「なんかいろんな曲が入ったアルバム」という、同じ混沌でも単位が違う、この絶対的なイメージの差異があります。

スカートと比べると、楽器隊の印象の違いは歴然としています。
何よりもキーボードの印象がなくなったこと。
唐沢さんの存在感はやはり絶大で、彼が演奏に参加しているtea time loverやローライズではキーボードのラインがはっきり頭に残ります。それでもかなり抑えて演奏しているんだろうな、ということは容易にわかりますけども。
そして、ホーンセクションやパーカッション、ピアノといったサポートメンバーが演奏に数多く加わっていることによって、楽器の音の幅は広がっているといえます。それは同時に、楽器一人一人が目立たなくなっているということと同義でもあります。

リードを引き立てるためのコーラスを多用するようになったというのも、大きな変化だと思います。
例えば、『ローライズ』では印象的な「foolish man」の"Dress up for the night"なんていうコーラスも、『ズボンドズボン』収録の「foolish man」では入っていません。
それまではハモるとしても礼央さんと純子さんの字ハモだけだったのが、バックコーラスという形で楽器隊もコーラスに加わり始める。そして、純子さんの曲への参加が、このバックコーラス中心になっていく。
ローライズの中で純子さんが礼央さんの字ハモという形で参加しているのはtea time loverのサビですが、はっきりと不協和音になってしまっています。
私の身内では「よくこれにゴーサインが出たな」とまで評される不協和音っぷり。
要は、純子さんと礼央さんの声の相性の悪さが、マイナス要因として働き始めてしまいます。

もう一つ大きいのが、楽曲の変化です。
メロを聴いただけでもそれと解る、いわゆる「土屋礼央曲」が少なくなります。
ローライズで推し曲になっていた「陽」や「追い風」も土屋礼央作曲ですが、以前の曲と比べてかなり「一般的」なメロディになっていると思います。一般人に理解されやすいメロディ。
確かに多くの人の耳に馴染みやすいメロディではありますが、その分、印象に残りにくいという重大な欠点もあります。
そして、以前からあった曲や他の人が作曲した曲をのぞけば、礼央さんがローライズで新しく書いた曲はこの「陽」と「追い風」の2曲。
また、その両方の作詞に純子さんが関わっている。
それは、礼央さんがそれまでの「土屋礼央曲」だけでやっていくことに限界を感じたということがあったのか、礼央さんの作曲活動に引き出しが増えたというプラスの要因なのか、それとも純子さんが「曲作り」に目覚め始めて、それをズボンドズボンにも取り入れていこうとただそれだけの単純な判断だったのか。

いずれにせよ、スカートの発売が2001年11月ですから、この間で礼央さんはRAG FAIRのデビューということを経験しています。
それが多かれ少なかれ、また様々な意味において彼の作曲活動に影響したことは想像に難くないと思われます。


結論:「ズボンドズボン=土屋礼央バンド」・・・なの?


続く。


ズボンドズボンの歴史を振り返る その1

2006-04-08 14:13:35 | ズボンドズボン

ズボンドズボンの『ズボンドズボン』の音源を隠密裏に入手(は)(いや普通の手段でですけど)したので、『ズボンドズボン』から『扉』まで順番に聴いて、ズボンドズボンの歴史と音楽性の変遷を無駄に分析しようという試みです。


・『ズボンドズボン』

2000年録音、2001年1月よりライブ会場で発売開始。
メンバーは土屋礼央、黒崎純子、斎藤真哉、ボーカルの植村伸、キーボードの唐沢寧、ベース、ドラムの計7人。
礼央さんの一人二役おしゃべりに始まり、バランス、メロディ(歌詞違いver、作詞は純子さん)、夜散歩、上品なマスター、とどかない少女(作詞作曲植村伸)、foolish man、そして罰当たりなアホきわまりないネタ曲で終わる。
特筆した以外は作詞作曲は礼央さんです。

(以上、詳細情報をいただいたので加筆・訂正しました。がっちゃんはこの時いなかったんですね!へー!)


・・・一言で言うと、土屋礼央と唐沢寧。以上。

楽器演奏の稚拙さや楽曲のありえない唐突な展開などを差し引いても、土屋礼央の作る曲を題材に、唐沢さんのキーボードが楽曲をすべて構成している、としか言いようがない。
礼央化ラジオをカツカレーなんて言ってましたけど、言うなれば納豆カレー。(素)
くせのある納豆と、がつんと味の印象が強いカレーの組み合わせ。
それは、美味しいと思う人もいればダメな人もいるでしょうな、という話です。
礼央さんの声と唐沢さんのキーボードもまた合ってないんですが。
とにかく礼央さんの独特なメロディと、キーボードの印象がすべてです。

純子さんは、いつ歌ってた?と思ってしまうくらい存在感がありません。
バランスなんかでハモってはいるんですが、明らかに礼央さんに合わせて控えめにおとなしーく歌っています。
foolish manで純子さんのソロパートがあるんですが、覚醒前の声。いかにも歌いこまれていないことがよくわかる声です。
ただ礼央さんと比較すると、当時と今を比較して礼央さんの声は基本から変化したのに対し、純子さんの基本は今と同じです。そのまま歌いこんで現在に至る。

いかにも大学のジャズ研出身の人が作りそうな音楽で、影響を受けた音楽をそのまま踏襲しているかんじがします。
とどかない少女は礼央さんじゃなくて植村伸さんが歌ってるんですが、友人はオリジナルラブの歌い方そのまんまだって言ってました。オリジナルラブを一瞬たりとも聴いたことがないので比較できませんが、私はこの曲は昔の山下達郎の影響ばりばりだと思いました。メロディや、楽器と歌の距離感が。

余計なことを一切考えていなかったんでしょうね。
歌い方、演奏の仕方、メロディ、詞、構成、すべてにおいて素直です。
本能的です。


結論:インディーズの人が自主制作したCDだな。



・『スカート』

この時メンバーは6人になります。今の4人、キーボード、ベース。
楽器演奏が格段に洗練されて、音質も全然違います。当たり前ですけど。

特筆すべきは、純子さんの存在感です。
純子さんの声がはっきり聴こえない曲はない。
礼央さんと半々とまではいきませんが、かなりのパートを歌っているしソロパートもとても多い。
「すずしげなハーモニー」で間延びするほど純子さんが長く歌っていることからもわかるように、意識して純子さんパートを作ったんだと思います。
まぁその分、礼央さんとの声の相性の悪さも際立つんですけども。

音楽的に支配しているのはやはり唐沢さんのキーボード。
というより、キーボードを軸に楽器隊を作っているイメージだと思います。
『ズボンドズボン』ではギターがとにかく弾きまくったりとかして、楽器隊合わせる気なかっただろ、というくらいバンドとしての一貫性はありませんでしたが、ここではキーボードを中心に楽器隊がまとまっている。
相変わらず礼央さんの声とキーボードも合っていないんですが、楽器が出張るところは出張って礼央さんは引いて、といったメリハリがつくようになって、多少洗練されたイメージになりますね。

逆に考えると、そのミスマッチが売りだったのかな、というふうに考えることも出来ると思います。
礼央さんと純子さんの声や、礼央さんの声とキーボード、そういうミスマッチが合わさって、さらに演奏するメロディがあの摩訶不思議な耳につくメロディ、日本語かどうかもあやしい歌詞、すべてが合わさると、混沌とした独自の世界が出来上がる。
それがズボンドズボンらしさであり売りであったと思えます。

結論:礼央さんと純子さんの声質が合わないのって、それが味だったんですねー。


このあたりで一旦切ります。