今年も、もう終わりですね。いろいろな事がありました。
今年の出来事と言うよりも、人生最大の出来事は大切な友人のMっつぁんが天国へと旅立った事です。
私にとって最も大事な友達でした。
バンドを組んだのは中学2年の始めだったと思います。Led zeppelin と Deep Purpleのコピーをやるのに、2年間の練習をつんで中学の文化祭に出ました。
キーボードとシンセとアンプを、近所の同級生の女の子の家からリヤカーを借りて2人で2年間、彼の家から僕の家に運びました。とてつもなく暑い日も、今日と同じくらいの寒い冬の夜、どしゃぶりの雨の日も。毎週土曜日の昼と日曜日の夜。
「高校を卒業したら、二人でロンドンへ渡ってミュージシャンになろうや!」
それが、中学生の頃の合言葉でした。
今、考えると僕は無理だったかもしれないけれど、彼は、やれたのではなかろうか?と思います。
その甘いルックスと、ひょうひょうとして気さくな人柄は、誰からも愛されました。
よくよく考えてみると、私が子供の頃から一番長い時間を過ごしたのは彼だったでしょう。
彼が大学生の頃、彼は無学な私に、いろいろな事を教えてくれました。
現在の私という人間は、彼から教わったことが基本みたいなものです。
性格が正反対の二人は、よく笑いながらお酒を飲みました。本当にたのしいお酒でした。
高校受験の頃、私は、彼のおじいさんの塾で英語と国語を習いました。
おじいさんは、退職された高校の先生でした。
2時間の勉強が終わると、彼のお母さんかおばあちゃんから、入れたてのコーヒーとお菓子が出されます。
貧乏で家族が多い私の家では、インスタントのコーヒーしか飲んだ事はなく、レギュラーコーヒーを飲んだのは、それが初めてだったと思います。
美味しいコーヒーでした。忘れられません。
年をとってきたのか?コーヒーを飲むたびに、彼の人生を振り返ってしまいます。
あの、素敵な友達がもういない。笑いながら酒を飲む事もないのか?
私にとってもつらいけれど、家族はもっとつらいんだから。
私は、一生懸命生きて、彼がどんなに素晴らしい男であったのかを伝えていけたら良いと思っています。
一つ大事なエピソードを忘れていました。
2,3年前だったと思います。
彼が、ひょっこり家にきて、
「スマトラ沖地震で、親と別れてしまった子供たちが人身売買で売られていってるらしい。」
「どげんかせなーいかん。」
と、無口な彼が、突然話し出しました。
私は、
「うん、何かニュースでありよったねー、ばってんが、日本も不況で現状は厳しいし、俺なんかは、自分の事も自分の子供達の事も、よー出来んけん。どーもしきらんばい。」
彼は、現地の子供たちがどーなっているのかを、私に説明しました。
悲惨な現状でした。
彼が私に、あんなに熱心に話したのは、今、考えると生涯1度きりだったと思います。
彼が、亡くなってから友達から聞きました。
「Mっつぁんなー、スマトラ沖地震でな、寄付ばしとんしゃったごたぁばい。」
私、
「うん、そーいやー、俺んとこでも話なったよ。」
「自分もやおいかんとに、寄付しとんしゃったったいねー。」
私が、彼の追悼ライブの収益金をユニセフに寄付したのは、この出来事があったからです。出演バンドと the cocktails のメンバーには事情を説明しました。
彼は、自分も大変なのに子供の人身売買の現状を聞いて、インターネットで寄付をしていたのでした。
私は、彼の意思を、少しでも形にしてやりたかったのです。
それが、私にいろんな事を教えてくれたMっつぁんへのせめてもの恩返しだと思ったからです。
最後まで、誠実で優しい人でした。
自分の事より、子供たちの事を考える人でした。
「高校を卒業したら、一緒にロンドンに渡ろう!」
満点の冬の星空の下で、白い息を吐きながら重いリヤカーを二人で引っ張った思い出は、ずーっと私の胸の中でキラキラと輝いています。
長い文になっちゃいましたが、今年の出来事です。
今年の出来事と言うよりも、人生最大の出来事は大切な友人のMっつぁんが天国へと旅立った事です。
私にとって最も大事な友達でした。
バンドを組んだのは中学2年の始めだったと思います。Led zeppelin と Deep Purpleのコピーをやるのに、2年間の練習をつんで中学の文化祭に出ました。
キーボードとシンセとアンプを、近所の同級生の女の子の家からリヤカーを借りて2人で2年間、彼の家から僕の家に運びました。とてつもなく暑い日も、今日と同じくらいの寒い冬の夜、どしゃぶりの雨の日も。毎週土曜日の昼と日曜日の夜。
「高校を卒業したら、二人でロンドンへ渡ってミュージシャンになろうや!」
それが、中学生の頃の合言葉でした。
今、考えると僕は無理だったかもしれないけれど、彼は、やれたのではなかろうか?と思います。
その甘いルックスと、ひょうひょうとして気さくな人柄は、誰からも愛されました。
よくよく考えてみると、私が子供の頃から一番長い時間を過ごしたのは彼だったでしょう。
彼が大学生の頃、彼は無学な私に、いろいろな事を教えてくれました。
現在の私という人間は、彼から教わったことが基本みたいなものです。
性格が正反対の二人は、よく笑いながらお酒を飲みました。本当にたのしいお酒でした。
高校受験の頃、私は、彼のおじいさんの塾で英語と国語を習いました。
おじいさんは、退職された高校の先生でした。
2時間の勉強が終わると、彼のお母さんかおばあちゃんから、入れたてのコーヒーとお菓子が出されます。
貧乏で家族が多い私の家では、インスタントのコーヒーしか飲んだ事はなく、レギュラーコーヒーを飲んだのは、それが初めてだったと思います。
美味しいコーヒーでした。忘れられません。
年をとってきたのか?コーヒーを飲むたびに、彼の人生を振り返ってしまいます。
あの、素敵な友達がもういない。笑いながら酒を飲む事もないのか?
私にとってもつらいけれど、家族はもっとつらいんだから。
私は、一生懸命生きて、彼がどんなに素晴らしい男であったのかを伝えていけたら良いと思っています。
一つ大事なエピソードを忘れていました。
2,3年前だったと思います。
彼が、ひょっこり家にきて、
「スマトラ沖地震で、親と別れてしまった子供たちが人身売買で売られていってるらしい。」
「どげんかせなーいかん。」
と、無口な彼が、突然話し出しました。
私は、
「うん、何かニュースでありよったねー、ばってんが、日本も不況で現状は厳しいし、俺なんかは、自分の事も自分の子供達の事も、よー出来んけん。どーもしきらんばい。」
彼は、現地の子供たちがどーなっているのかを、私に説明しました。
悲惨な現状でした。
彼が私に、あんなに熱心に話したのは、今、考えると生涯1度きりだったと思います。
彼が、亡くなってから友達から聞きました。
「Mっつぁんなー、スマトラ沖地震でな、寄付ばしとんしゃったごたぁばい。」
私、
「うん、そーいやー、俺んとこでも話なったよ。」
「自分もやおいかんとに、寄付しとんしゃったったいねー。」
私が、彼の追悼ライブの収益金をユニセフに寄付したのは、この出来事があったからです。出演バンドと the cocktails のメンバーには事情を説明しました。
彼は、自分も大変なのに子供の人身売買の現状を聞いて、インターネットで寄付をしていたのでした。
私は、彼の意思を、少しでも形にしてやりたかったのです。
それが、私にいろんな事を教えてくれたMっつぁんへのせめてもの恩返しだと思ったからです。
最後まで、誠実で優しい人でした。
自分の事より、子供たちの事を考える人でした。
「高校を卒業したら、一緒にロンドンに渡ろう!」
満点の冬の星空の下で、白い息を吐きながら重いリヤカーを二人で引っ張った思い出は、ずーっと私の胸の中でキラキラと輝いています。
長い文になっちゃいましたが、今年の出来事です。