まこっちゃんのリフォームまでの軌跡

1人暮らしの我が家のリフォームといろんな事のブログ

音楽とは!15

2007-10-31 21:22:54 | 音楽
この「音楽とは!」シリーズは私にとって「音楽とは何か?」というテーマです。
読んでいる人たちが、ちっとも面白くも何ともないかもしれませんが、私にとっては大事なテーマなのです。

多分、私の人生と音楽みたいな感じです。長いシリーズになるかもしれませんが、お付き合い下さい!             それでは、どうぞ!



深夜の1時半くらいから酸素の供給量は70%を切って最低で65%くらいまでなっていたと思います。
発作が始まって、出血し、もうどのくらい血を吐いたでしょうか?
泡状になって出てくる血を見ても、私は何も感じなくなっていました。

(娘に会いたい!)

という強い心が、何故か明確に胸の中でダイヤモンドの結晶のように感じられました。
会いたいという、曖昧な表現よりも、絶対に会う。と断定に近い意思です。会うまでは絶対に死なん!と言った方が良いでしょう。

ドンドンと1分間に200近い動悸が、胸を襲い。それにともなって、胸が苦しくなり咳をしながら血を吐く。これの繰り返しで。先生の妙な質問にはもう答えなくてよくなりましたが、胸の苦しみは相変わらずでした。

私は、深夜の3時まで、ずーっとこの状態でした。よく思い出してみると、この1時半から3時までが一番苦しかったのです。かなりの血を吐いたでしょう。しかし、私は意識を失う事はありませんでした。前にも書きましたが意識を失わずにいると、とても苦しいのです。

表現すると、たとえば、ズブの素人がいきなりフルマラソンを走ってしまっている。
心臓と肺はそのような状態です。息が出来ない苦しみです。肉体は横になっているので筋肉の疲労は感じませんでした。

私の心臓と肺は、病院に来た9時過ぎから、深夜の3時までそのような状態でした。

出血も発作も深夜の3時にはピタリと止まりました。不思議なくらいピタリと止まったのです。
私は、ホッとしました。先生と看護婦さんに丁寧にお礼を言いました。先生は、

「発作が治まったようです。」

と簡単にポツリと言いました。
わたしは、

「はーっ、死ぬかと思ったー!」

と笑いながら、言いました。             ・・・・・つづく


音楽とは!14

2007-10-29 21:54:32 | 音楽
昨日は、息子とラグビーのTOP REAGUE の試合を見に博多の森の競技場に行きました。

いいゲームでした。選手の皆さん、関係者のみなさん!お疲れ様でした。息子も本物のゲームを見て感動していました。息子にとって、いい思い出になったと思います。プレーヤーの皆さん、子供にいい影響を与えるゲームをお願いします。頑張れ!九州のラグビー!




話を戻します。まだ、市立敦賀病院の集中治療室です。
私の体には、いろいろな医療器具がいっぱいつけてあります。
1時を回ったくらいから、先生は私に対してキチンと対応してくれるようになりました。
ただ、私の酸素供給率は68%くらいになっていました。先生と看護婦さんは、

「意識はありますか?大丈夫ですか?」

と数分ごとに聞いていました。私の意識ははっきりしていました。先生もこの事には、ビックリしているみたいでした。福岡の医者からは、2時間を越えると、心臓のほうがマヒして死に至ると聞いていました。私は、その事よりも、意識を失い適当に治療をされるのではないか?この事のほうが恐怖でした。

胸は苦しく、血も吐き続けていました。眠気はなかった。頭は冷やしてもらっていました。
意識ははっきりしていました。先生の方も、もう聞く質問がなくなったみたいで、看護婦さんに点滴の指示などをテキパキとやってくれました。

おそらく、酸素の供給率が下がっているのは、肺からの出血で酸素が供給されていないのだと思っていました。出血さえ抑えられれば、大丈夫だ。と思っていました。幸いな事に血圧は低かったので、点滴で出血が止まる事を思っていました。

頻脈は、自分でも抑えられません。どこかの神経がいかれているのです。自分の力ではどうにも出来ないのです。今、発作が始まって4時間を越えたくらいです。点滴の薬に頼るしかありません。私は、意識を失わないように、気持ちをはぐらかすように、明るく振舞いました。

子供の頃から、きつい時、嫌な目にあった時は、明るく振舞っていた癖みたいなものです。

(不必要な明るさって言われます。)(でも、私にとっては大事な事です。)

苦しい時、きつい時、嫌な時は冗談でも言って、少しでも暗くなった自分の気分を軽くしようとしてしまうのです。
                    ・・・・・つづく

音楽とは!13

2007-10-27 22:07:46 | 音楽
いやー、明日はやっと休みです。明日は息子とラグビー観戦にいきます。頑張れ!九州のラグビー!



19歳の事故の事は、あまり書いたりできませんが、もう時間もかなり経っているので簡単なとこだけ書いておきます。

当時、私はスポーツはしてはいませんでした。バンドで親父の借金を返してやろうなどと思い上がっていました。(単純やねー!)(この時、私の父は病気で半身不随でした。)

退院して、友達達からは、

(不死身の肉体!)
(エクスターミネーター!)(映画の題名ね。これ。)

なんて言われていました。私が住んでいる所は田舎なので、すぐに噂が広まってしまって、子供をラグビーにいれる親御さんも、若干増えたらしいのです。私の弟も、柔道が強かったのですが、私に影響されたというより、この事故での軽傷での生還に影響されたというほうが、弟にとっては大きいでしょう。

今は、福井での発症から帰ってきてからは、友達は、
(死なない男)
(もしくは、死ねない男)(ちょっと失礼やね。)
と、呼ばれています。(笑)

決して良い経験ではないのですが、自分の死に面した時、私の場合は2度ですが、そのどちらも意識ははっきりしていました。これが、不思議な事なのです。

その時に思う事は、

かけがえのない家族の事です。

一度目は、中学生と高校生の弟と妹、

二度目は、福岡に残してきた、まだ話した事のない娘、海水浴にもいっていなかった子供たち。

強烈に脳裏に浮かびました。

私が言いたい事、それは、「死を軽んじてはいけない。」

これは、人の死でも自分の死でもです。肉親の死や親友の死は悲しくつらい事です。
自分の死もこれと同じくらいものなのです。
たとえ、自分の体力がつきる寸前でも、生を最後まで諦めてはいけない!という事です。

私は、自暴自棄になっていました。

「いつ死んでもいい。」

なんて事を言っていました。いざ、自分が死ぬ目に会うとそんな事は、本当に格好つけしーの言葉なのです。軽い言葉なのです。今、思うと自分が恥ずかしいくらいです。

もし、病気と闘っている人が読まれる事があったら、自分の死も軽んじてはいけません。
最後の最後まで諦めないで下さい。

それと、私は、やはり人に助けられて命はあるのです。二度ともです。宮○君ありがとうね!

        ・・・・・まだまだ、つづくよ!
・・・・・・福岡に帰ってきてからと、アメリカ一人旅まで


音楽とは!12

2007-10-26 23:01:22 | ノンジャンル
いやー、もう大変!ってくらいキツイですね。


何度も書いて申し訳ないのですが、このブログは単に私の記憶を留めていようとしているだけです。苦労を自慢しようとか、格好つけようとしているのではありません。もし、誰か病気の人とかが読んで勇気が少しでも沸いてくれれば幸いです。また、いつか私の娘が読んでくれるかもしれません。そういう理由で書いています。

自分が死ぬ目に会うっていうのは、実はこれで、2度目です。19歳の頃、仕事の作業中にとんでもない事故にあっていました。多分この事故で命があるのは、おおげさかもしれませんが日本でも私だけかもしれません。この事故の時も、意識があったのです。詳しい事は書けませんが、医者の答えは、

「肋骨が2本ヒビが入っているくらいですんだのは、米○さんが、ラグビーで体を鍛えていたからです。」

という答えでした。

まー、事故の時に意識があると言うのは、痛みがダイレクトに伝わるという事で、相当、痛かったのです。その時も、

「こえんが所で、死なるーかー!」

「俺には、妹と弟がおるったーい。」

と、やはり家族の事が一番で、他の事は考えつかなかったのです。
私は、信じられない力で機械の圧力を跳ね返していました。

場所を、敦賀に戻します。
心臓の動きは、まだ早く脈拍は200近くでしたでしょう。

(もう、本当にダメかもしれん。)

そう、思った時に娘の事を思い出し、福岡に絶対に生きて帰ろうと決意しました。
これは、間違いありません。
こんなにも、人に会いたい衝動にかられた事は過去にありませんでした。

先生は、

「子供さんがいらっしゃったんですか?」

と質問しました。
不思議そうに、

「何で、もっと早く言ってくれなかったんですか?」

と言われました。その後の先生の態度は急変しました。
私は、

「いま、別れてしまって一緒にすんでいませんし、言うべき事じゃないと思いました。」

と答えたと思います。私は、

「心不全の処置は、開胸とかするのですか?外科手術とかは?」

と質問しました。
先生は、

「いえ、点滴で頻脈と肺からの出血を止めるのです。」

私は、

「じゃ、止まるまでこのままの状態なんですね。」

先生、

「そうです。」

子供がいると知った先生は以後、私の質問にキチンと答えてくれました。
(何やったとやー?今までの態度は?)
                  ・・・・・つづく


音楽とは!11

2007-10-25 21:38:43 | 音楽
いやー、疲れまくりです。途中で寝るかもしれんです。



治療室はシーンとしてました。看護婦さんは、

「大丈夫ですか?」

数分ごとに聞いてきました。私も、

「大丈夫です!」

「ゴフッ、ゴフッ。」

と咳と血は止まりませんでした。もう一度、

「俺、死ぬとですか?」

と聞き返しました。先生は、

「それは、解りませんが、危険な状態です。」

「そうですか。」
「そうかー!死ぬのかー?」
「何でやー?」

そんな事を言っていました。体にはいっぱい機械が装着され、まるで、ロボットみたいになっていました。この一年前、親友はこの状態になっていました。その時は、意識がなくて眠ったままの状態でした。

(○田、俺もお前ん所に逝くかもしれんぜ!)


その時、看護婦さんが、

「他に、誰か電話したい人とかはいませんか?」

と、聞いてきました。私は、

「そうだ、看護婦さん、またバッグを取って下さい。」

私は、バッグから一枚の写真を取り出しました。子供達の写真です。海にいっている写真です。海水浴の写真です。

(離婚した時は、まだ下の娘は0歳児で、まともにお話をした事もなかった。)
(電話で話しても、恥ずかしいみたいで、あまりしゃべっていませんでした。)

娘に会いたい。もう一度生きて娘に会いたい。ちゃんとお話がしたい。私は、強く思いました。

(もう一度、娘に会おう。)
(こえんが、所で死なるーか!アホみたいな目に会うて。)

(早くに死んだ父親も、一年前に死んだ親友も意識をなくし、ただ、機械を装着するだけで眠ったまま死んでいった。こんな目にあって、死んでいったのか?人の命ってこんなものなのか?)

(俺は死なん!絶対にここで死なん!こんくらいで死なるーかー!福岡に帰って、もう一度、娘に会うまでは絶対に死なんぞー!)

強い意志で静かに決意しました。
黙っていると、先生が、

「米○さんは、お子さんがいるんですか?」

(なんか、いかんとや?子供がおったら?俺に子供がおったら問題でもあるとや?)

「えー、います。2人。上が男の子で下が女の子です。」

と、答えると先生は驚いていたようでした。       ・・・・・つづく