まこっちゃんのリフォームまでの軌跡

1人暮らしの我が家のリフォームといろんな事のブログ

音楽とは!53

2009-05-30 16:09:00 | ノンジャンル
あー、今週も終わってしまった・・・無意味な一週間やった。ヤバイよマジで。
頑張らなきゃ!・・・
車の中で、私は、

「母ちゃん、急いで仕事ば探すけん。博多の方に現場があるってやけん。そこに行ってみるよ。」

母、

「そうね、大丈夫やろうか?」

私、

「わからん、ばってんが働かなー、子供もおるし。」

母、

「そうたいねー。」

私は、当時派遣会社の技術社員でした。派遣会社から、博多区の現場があるからとオファーをもらっていたのでした。

家につき、母といろんな事を話しました。

私、

「母ちゃんとヨーロッパに旅行に行っとって良かったよ。もう一緒には行ききらんめーね。」

「とにかく働く事が先決やけん、派遣会社の紹介しよう現場に行ってみるよ。」

「多分、大変やろうばってんが。」

母、

「今は、何でも大変よ・・・」

私、

「日曜日には、子供と公園で遊ぶけん。」

私は、また子供と遊ぶことが出来るのが嬉しくてたまりませんでした。

週末になり、駅に子供達を迎えに行くと別れたカミさんが子供達を連れてきてくれました。

私、

「手術が無事に成功したよ。」

彼女、

「大丈夫とね?体の方は?」

私、

「うん、別段問題はないらしいよ。心配せんでいいけんね。」
「子供は6時には連れて帰ってくるけんが。」

彼女、

「無理ばせんごとね。」

私、

「うん、なら夕方に電話するけん。」

彼女

「わかった。」

彼女は別れた私の体を、心配していました。優しい女性です。今でもそうです。
私は、彼女に会うといつも、すまないという気持ちになります。


子供たちは、公園でおもいっきり駆けづり回って遊びました。
夕方には、ラーメンを食べにいって、いっぱい話ました。

夕方、駅に送りに行くと、別れたカミさんが来ていました。

私は、

「俺の病気の心配はせんでいいけん、子供達を頼んどくよ。」

彼女は、

「うん。」

と言葉少なくうなづきました。

彼女も、何て言っていいのか解らなかったのでしょう。ただ、私の事を心配しているようでした。

私は、退院してからすぐに、博多の現場で働く事になりました。

現場事務所で、部長から業務内容などのいろんな説明を受けました。

現場のメンバーの紹介で、

「私は、小○です。よろしく御願い致します。」

私は、名刺を受け取ると、

「小○君って、もしかして志○町かいな?」

小○君は、

「○本さんて、○○さんの兄ちゃんですか?」

私、

「うん、そうばい。」

小○君、

「僕は、小○ヒ○○キの弟です。」

私、

「えーーーっ!マジ?」
「○○君の弟?すごい偶然やねー!」

私は、博多の現場で同じ町の同級生の弟さんと一緒に仕事をするようになりました。

                   ・・・・・つづく








音楽とは!52

2009-05-29 13:20:00 | 音楽
気持ち的には、すっかりまいっていますが・・・書く!最後まで書いてみる。






病室で、ベッドに横になりずーっと考えていました。先生の言った事がかなりのショックでした。

(後悔しないように生きる・・・?)

(簡単なようで難しい生き方だ。俺にできるとや?)
(今まで、後悔の連続やったよ。)
(土木屋の息子っていうだけで、理不尽な要求をされたり・・・)
(罵られたり・・・)

(ずーっと、後悔しながら生きている。)

(今でもそうだ。そんなにタフに生きているんじゃないのに・・・)

(見た目はかなりタフに見えるんだろうが?)



数時間、考えた後、とにかく自分がやらなければいけない事を簡単に実行できる事から始める事にしようと思うようになりました。

考えていても、時間は同じように進んで行くんだし、もし、本当に3年間で同じように心臓に異変でもあったとしたら、もたもたしていた時間がまったく無駄になってしまうじゃないか?と結論づけました。

・まず、働く事、

・そして、今まで通り子供の養育費を払う事、

・ちょこっとでも貯金して、アメリカに友人に会いに行く事。

この、3つを実行する事をベッドの中で決めました。私の出来るシンプルな事柄です。他人にとっては、くだらない事ですが、私にとっては重大な決心だったのです。

私は、決心し眠りにつきました。


翌朝、朝食をすませた後、母は10時前には退院の為、迎えにきてくれました。

母は、

「どえんね?調子は?」

私、

「うん大丈夫、早うラーメンば食べたいよ。」
「荷物は、もう全部片付けたけん。挨拶だけして行こう。」

私たち親子は、ナースステーションと先生のところに挨拶をしに行きましたが、先生も診察でいなくて、看護師の江○さんもいませんでした。いろいろとお世話になったのをよろしくお伝えくださいと伝言しました。

病室には、明るいコンビニ経営者の方がおられました。

私、

「今日で退院です。いろいろとお世話になりました。」

コンビニ経営者さん、

「うん、良かったねー!先にモツ鍋ば食うてきない!」(笑)

私、

「とりあえず、長浜に行ってきます。」(笑)

コンビニ経営者さん、

「おっ!良かねー。なら大事にね。」

私、

「○○さんにも、よろしくお伝え下さい。」

コンビニ経営者さん、

「うん、わかった言うとこー。」

私は、病室にいない長老の事をコンビニ経営者さんに伝言し病室を、母と二人で出ました。

支払いをすませて、病院を出るとものすごくいい天気でした。

私は母に、

「車のキーば。」

と言うと、母は、

「大丈夫ね、あんたが運転して?」

私、

「病気で手術したっちゃー、俺の方がまだ母ちゃんよか運転は上手かろーもん。早うキーばやんない。」

母は、キーをだし、私が運転しました。

私、

「やっぱー、外はいいばい。今日は天気もいいし。なら、長浜ラーメンば食べに行こうかね。」

母、

「そうやね。」

私たちは、『元祖 長浜屋』に行きました。

まだ、その頃は本店(今は本店は無くなっちゃいましたけど、支店の方はあります。)の方は食券を買うのではなく、注文でした。

「カタと普通。」

と注文すると、すぐにラーメンが出てきました。食べていると母が、

「私、ここのラーメン屋は初めて来たよ。」

私、

「そうね?連れて来た事なかったかいな?俺は高校の頃からよー来よったよ。ほら、ラグビーが終わってからバイトで魚市場に行きよったろーが。」

母、

「そうやったねー。」

私、

「大体、母ちゃんはラーメンあんまり好きやなかったやん。」

母、

「うん、ばってんここのラーメンは好いとうよ。見た目よかあっさりしとう。」
「美味しか。」

私、

「そうね、そらー良かったたい。」

母は、満足そうでした。
私たちは楽しくラーメンを食べ、家に帰りました。

                          ・・・つづく

                     









音楽とは!51

2009-05-27 21:55:00 | 音楽
今日も1日無駄やったようです。ふぃー・・・
診察室を出た私は、ショックで落ち込んでいました。

何でや?3年間30分圏内って?
ストレスの無い仕事って、あるや?仕事はストレスだらけやないや?
治ってないとかいな?
もしかして、3年間に死ぬ可能性があるとかいな?・・・

など、考えていました。

病室には、母が待っていました。

母は、

「どえんやったとね?」

私、

「うん、明日退院って。」

母、

「そうね!良かったねー。」

私、

「うん、・・・・ただね。」

しばらく、沈黙の後、

「ストレスの無い仕事ばせれって。」


・・・

「そしてね、・・・・この病院から30分圏内で仕事をせれって。」

・・・

母、

「どういう事ね?」

・・・

私は、

「わからん、・・・ただ、3年間は30分圏内におらなーいかん。1年に一度検診にこなーいかんげな。」

「ストレスの無い仕事ってあるとかいな?」

母は、黙っていました。

私は、

「それとね・・・母ちゃん。・・・・・後悔せんごと生きて行けって・・・・・。」

母は、絶句してしまいました。

しばらくして、私は、

「とにかく、その後の事は退院してから考えるけんが。」

私もショックでしたので、母に何か言う事が思い浮かびませんでした。

「明日の10時に向かえに来てくれんね。もう渋滞に巻き込まれるけん、早う帰っとき。そえん心配せんで良かくさ、手術は成功やし、酒もタバコも飲んでいいってやけん。」

「もしも、死ぬごと危険やったら、酒もタバコも飲んだらダメって言いなーよ。」

「ね。だけんが心配せんで事故ば起こさんごと帰っとき。」

「明日は、ラーメンば食べに行こう。」

私は、そう母に言いました。

母は、それを聞くと元気を取り戻し帰って行きました。

                         ・・・・・つづく






音楽とは!50

2009-05-26 23:11:00 | 音楽
私の生活状況は、悪くなってきています。ネットの世界から消えるかもしれなくなってきました。早く書き上げてしまわなくてはいけない状況です。

でも心配しないで下さい。体の方は元気なので、ブログの中の経験は2001年の冬の事です。
福岡の某○立病院で手術の後、検査を終え、最終的な診断をされたのは退院の2日前でした。

循環器科の○村先生から、診察室に呼ばれてお話を聞くことになりました。
この同世代の先生は、私が、

「率直にすべてを話してください。」

と話していたので、入院中よく内容を話してくれました。
検査中も冗談ばかり話していたので、不真面目と思われていたかもしれませんが、私は、この先生の言う事は、静かに聞きました。

○村先生、

「○本さん、手術は成功です。発作はもう起こる事はありません。」

私、明るくなり、

「ありがとうございます。これも、○村先生と○生先生のおかげです!」
「看護師さん達も本当によくしてくれました。」

○村先生は、うなづいていました。

私、

「これからは、酒やタバコは辞めたほうがいいのでしょうか?」

先生、

「いえ、いままで通りで大丈夫です。」

私、

「えっ、そうなんですか?」(ハテ?)

先生、

「ええ、大丈夫です。ただ、激しい運動は控えてくだい。」

私、

「ええ、もうラグビーも引退しましたし、激しい運動はしませんよ。」

「先生、WPW症候群のほうも手術でなおったんですか?」

先生、

「・・・・・無言。」

ほんのちょっと時間をとって、先生はこう言いました。

「○本さん、これからはストレスを感じないような仕事についてください。」

私、

「えっ!それって治っていないって事ですか?」

先生、

「いえ、そうじゃないです。発作は絶対にもう起こりません。」
「手術は成功です。安心して下さい。」

私、

「先生、無理ですよ。今の私達世代でストレスを感じない仕事なんてないですよ。それに私の仕事は特に・・・」

先生、

「とにかくストレスを感じないように・・・」

また、しばしの沈黙の後、先生が、

「それと、3年間は○立病院から30分圏内の場所で仕事をして、一年に一度は検診にくるように御願いします。」


私は、

「30分圏内?それは救急車でって事ですか?」

「先生、はっきり言って下さい!治っていないんですか?」

先生、

「○本さん、落ち着いて!お酒も飲んでいいし、タバコも吸っていいです。今まで通りで構いません。発作も絶対に起きません・・・それしか言えないんです!」

先生は、そう言うと涙目になり、黙ってしまいました。

沈黙の後、私は、

「わかりました。」

とポツリと言いました。

(この先生は真剣に私の事を考えているのだ、しかし、医者の立場としてこの先は言えないのだ。)と察しました。

(こんな大きな病院の権威ある医者でさえ、私の心臓の未来ははっきりと言う事は出来ないんだ。)と・・・

私は、もう一度、

「わかりました。」

とつぶやきました。同世代の先生は、涙目で私を見つめ、こう言いました。

「○本さん・・・これから先・・・後悔、・・・・・後悔しないように・・生きて・・下さ・・い・。」

と、とぎれとぎれに私に言い、回転椅子を壁の方に回し、肩を震わせていました。泣いていたと思います。

私は、

「先生、わかりました。本当にありがとうございました。」

私は診察室を出ました。

私は、先生は真剣に私の事を考えてくれたんだ。でも、これから先の事なんて分かるもんじゃないんだ。先生は本当によくしてくれたんだ。手術室の音楽も、ひょっとしたら先生達が、私の為にプレゼントしてくれたのかもしれない。福井で血を5時間も吐き続け発作をおこした私の為に。

入院して、すぐの頃、ナースステーションの看護師さん達の、まるでバケモノでも見るような顔。

いや、ひょっとして・・・検査中も、大きな待合室でも、廊下でも同じ町内の人達に何人か出会った。町内の人は22で父親を亡くし兄弟で苦労して来た事は知ってるはずだ。なにがしらか話をした人がいるのかもしれない・・・

そんな、私の為に素晴らしいプレゼントじゃないか?音楽が好きな私の為に・・・

私は、そう思いました。



私は、○村先生のメガネ越しに涙を浮かべ

「○本さん・・・後悔、・・・・・後悔しないように・・生きて下さ・・い・。」

と、とぎれとぎれ言った顔を忘れた事はありません。

                      ・・・・・つづく













音楽とは!49

2009-05-22 23:51:00 | 音楽
アクセス少なくても、元気が無くても、どんなにつらくても書かなきゃね。子供達が大人になった時に読んでもらえるようにね。
病室に戻った私は、和やかに他の人たちと話たり、本を読んだりしていました。

この時、読んだ本は『淡谷のり子自叙伝』でした。
戦後の音楽シーンの事が書かれていました。福岡の進駐軍でのフライドチキンの事とかも書かれていました。

手術の後、検査が待っていました。いろいろと検査して、退院の前に長老の手術が待っていました。

気さくな長老も、手術の前にはナーバスになっていました。

コンビニの店長さんも、病室に戻ってきて二人で励ましました。店長さんは、手術の後、安心したようでまたまた明るくなっていました。

「○○さん、大丈夫!モツ鍋ば食べらるうよ。」

と店長、すると長老は、

「俺は、モツ鍋より焼き鳥の方が好いとうばい。」(笑)

長老も明るさを取り戻しました。

私が、この時、感じたのは70歳を越えて達観した老人でも、自分の開胸手術ではこんなにも、子供の様にナーバスになるのか?何回も胸を開いたのに・・・

私たちは、長老を一生懸命励ましました。この経験は私にとって最も貴重な経験の一つでした。

見ず知らずの人間が、同じ病室で手術の前に死を意識しないように、励まし合い、冗談で笑い合い、人生を話したり。多分もう会う事もないだろう人間が、家族の様に心配し励ましあっている。

以前の私では、考えもしないような経験でした。それは、ラグビーの選手が自分たちの仲間を励ましているようでもありました。

私は、退院の前に長老に会う事はありませんでした。長老は開胸手術の後、4,5日間、一人部屋だったので会えなかったのです。

                        ・・・つづく