ブリヂストンA工場で働いて、私が見たもの、私がしたこと、私に起きたことを発信します。

賢明な判断基準

2021-02-20 | 日記

ピアノを弾いて誰かに喜んでもらうのが、一番嬉しい。

私が子どもの頃にさせてもらった体験を、子ども達にさせてあげたいと思っている。

子どもの頃にした体験は一生ものになったりする。

子どもは千倍感じてる    フジコ・ヘミングに似たおばさん   

秋の夜の玄関②    エジプトの間

そして、あの時芳醇なピアノの音を聴かせてくれた先生たちに再会して、もう1度

聴かせてもらいたいようにも思うし、再会しない方がいいという気もする。

  

        

 

*  **   ***  **  *  ***  **  **** *

 

逆流をさせないようにする②   ピアノを弾く場所  の続き。


身体の感覚、内なる小さな声に依るべきなのに、人は思考によって間違った選択を

してしまう。思考による判断に慣れ過ぎて、それが間違っていることにさえ気づかずに

間違った選択を繰り返して生きていることも多いかも知れない。


**  ***  * *  ***  * * *** **  *  *

人間関係において、建前の逃げ道が万全に確保された、目に見えにくい陰湿な攻撃である

モラハラや、隠された悪意、攻撃性:カバードアグレッションなどがあるが、浅い思慮や

まだ純粋過ぎるものの見方だと、その正体をつきとめることができずに、攻撃者(バタラー)の

完璧な建前の理屈に負けてハラスメントをハラスメントとして認識できずに、それに自分を

晒し続けてしまう。モラハラは職場や学校だけでなく家でも起こっていて、多くの人達が

悩んでいる。殴ったり蹴ったり罵詈雑言を浴びせたりしない陰湿狡猾なモラハラは、常に

周到な逃げ道が確保されて、目に見えにくく、それに晒されている人の苦しみは殴られる

よりも精神的に辛くないとは言えない。時にそれは明瞭なハラスメント以上にターゲットの

心を蝕むものである。バタラーの完璧風な建前の言い分や、被害者自身の真面目な道徳観、

倫理観、良心などから、バタラーをバタラーとして認識できずにい続けることも多い。

思考が、本当のことを覆い隠してしまう。身体の感覚ではわかっているのに。

思考による論理ではわからないけど 私にとって信頼できる判断基準がある。

判断基準と言うと四角くて固い言葉でそぐわないけれど…。


それは、ピアノを弾く時にその人がそこにいていいか、いて欲しくないかというものだ。

実際弾いてみなくても、その人の前で弾くことを想像した時点で判断可能である。

その人(バタラー)には、ピアノを弾く時にそこにいて欲しくない。いくら理性がその人を

疑ったり好きになれないことを「良識的」でないと咎めても、いていいかを分ける感性は

物言わぬ忠告者。いかなる思考よりも、賢明な判断基準である。

 


  

    

 


またパートナー選びなども、条件やスペックなど、思考で選んで、悲惨な結婚生活になっている

例はそこらじゅうに溢れているが、こういう判断基準は随分と信頼できると思うが。

自分にとって大事な場所に、その人を連れて行くことを想像するというものである。

そこは、自分の感性の琴線に触れる場所とか、とても哀しい思い出のある場所とか

そこにいると穏やかに落ち着いた自分に帰れる場所とか、自分にとって大きな意味をもつ場所

である。そこにその人がいることに、すんなりストンとなったらその相手は間違っていなくて、

足が浮いた感じや ブチっと切れてる感じや 逆撫でする感じがしたり そこにいて欲しくない

と思ってしまったら、間違っていると判断していいと思う。


思考による正当化は饒舌で強力な故、その人にとってそれが間違った選択であるにも関わらず、

どんどん押し進めてしまう。最終決定までに5つぐらいの関門があっても、それらを強引に

通ってしまう。そして最後決定直前に、身体が激しい抵抗を作動させることがある。

例えば病気になったりしてそれができない状態にさせたりである。



  

 


追記:パートナーにも入って来て欲しくない場所も、あるかも知れない。

 

 


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