Trips with my RV.

RVでの小旅行。

誘惑から逃れるには・・・

2011-12-23 20:51:07 | Innocent joke
オスカー・ワイルドは、イギリスの詩人、小説家だ。彼の名言か、古代バビロニアからの名言なのかは判らないが・・・「誘惑から逃れる唯一の方法、それは誘惑に屈する事だ」なのだそうだ。

誘惑とは「心を迷わせて、誘い込む事。良くない事に誘(おび)き出す事。」と云う意味で、恐らく、これは「人」を誘惑する存在・・・例えば「神」に対する「悪魔」や、話者にとって好ましくない「他人」等の自分達ではない「何か」から誘惑を受ける事を前提にしている言葉・・・なのだろう。聖書の世界では、誘惑に打ち勝つ事を1つの美徳としている。

【愼みて目を覺しをれ、汝らの仇なる惡魔、ほゆる獅子のごとく歴迴りて呑むべきものを尋ぬ。】第一ペテロ5:8
(口語訳:身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。)

エデンの園で、悪魔に誘惑され神に背き禁断の木の実を食べたイブとアダム・・・、その背信に依って人は神の庇護を失い、肉の世界は悪魔の支配下に置かれる事になった。神の子イエスが悪魔の誘惑を退け、新たな神との契約を打ち立て、人は再びエデンの園に戻る許しを得たのだ。

肉の身体に産まれた人は、肉の体の欲望や願望に囚われて誘惑を受けてしまう様に創造されている。人は、自らの思考や努力で誘惑に打ち勝とうとするのだが、神は人自らが悪魔からの誘惑に立ち向かうべきだとは言っていない。

【我らは血肉と戰ふにあらず、政治・權威、この世の暗黒を掌どるもの、天の處にある惡の靈と戰ふなり。この故に神の武具を執れ、汝ら惡しき日に遭ひて仇に立ちむかひ、凡ての事を成就して立ち得んためなり。】エペソ6:12-13
(口語訳:私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。)

【神は更に大なる恩惠を賜ふ。されば言ふ『神は高ぶる者を拒ぎ、へりくだる者に恩惠を與へ給ふ』と。】ヤコブ4:6
(口語訳:神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。)

【主の前に己を卑うせよ、然らば主なんぢらを高うし給はん。】ヤコブ4:10
(口語訳:主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。)

【彼は嘲笑者をあざけり 謙る者に恩惠をあたへたまふ】箴言3:34
(口語訳:あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける)

人は悪魔からの誘惑に陥りやすい肉の身体として、神に依って創造されている。悪魔と戦うには神の武具たる「神の御言葉=聖書の文句」で戦うしかない。人の自らの力で悪魔の誘惑に立ち向かおうと云う「高ぶる者」は助けず、神を敬う者を助ける。神なんか居ないと嘲る者を神は嘲り、神を信じ敬う者に加護を与えるのだろう。

困った・・・、クリスチャンでは無い私は、聖書は大昔に書かれた超ロング&ベストセラーの古典文学・・・と云う認識でいた。何てったって・・・我が家にある聖書は「世界古典文学全集5・聖書(筑摩書房)」である。私は「御幼少の砌」にはミッション系の幼稚園に通っていたので・・・最初の聖書は絵本で読んだ人間だ。幼稚園年中組の頃に読んだ聖書の感想は・・・神様ってイジワル・・・だった。この幼稚園児の素直な感想を、シスター・グリーン(体のデカイ陽気なアメリカ人)には何度も誤りを訂正しようと試みて下さったが・・・駄目だった様だ。

余談1だが、シスター・グリーンに学んだ・・・今でも覚えている印象深い事は、曜日の英語での覚え方だ。月を屋根からのぞマンディ、火に水を掛けチューズディ、水田に苗をウエンズディ、木刀腰にサーズディ、金曜の料理はフライディ、土曜は来週までごぶサタディ、日曜は朝寝の父さん起こサンディ・・だった。学校教育法に定められた幼稚園としての正規教員の名前はスッカリ忘れてしまったが、生涯最初の宗教談義をして説得に悩んで(?)豊満な肉体でのし掛かられ家族以外との生涯初の濃厚接触を強要されたシスター・グリーンは(困った事に)私のアニマの原形である。幼稚園児だった私には全く認識は無かったモノの・・・エロチックな感情の芽生えだったカモ知れない。(だから、昔はガリガリに痩せていて、今ではスッカリとデブになった私だが・・・「デブは痩せ好き」と云う世の一般論に反して、デブの癖にデブ好きだ)

余談2だが、「世界古典文学全集(筑摩書房)」は亡父の蔵書であり、中学生時代の退屈な夏休みの気怠い午後に布教の為に巡回してきた「エホバの証人」の方に「あなたは神の本当の名前を知っていますか?」と訊ねられて「ヱホバ」と即答した時に・・・、(事実の確認はしていないが)「多くの聖書からは神の御名が消されています」と云われ、そんな事は無いと父の書棚から持ち出して、「エホバの証人」の人に見せてから暇潰しに読み始めた次第。(その際、エホバ自体が正しい発音では無いのではないか・・・ゑほば・・・ぅえほば・・・と読むのでなければヱホバと表記しない筈・・・と茶目っ気を発揮してみたのだが・・・。尚、その後は・・・頂いた小冊子を見せた母に止められたか、縁が無かったのか、再びエホバの証人の方とジックリと話をする機会は無い)更に余談だが、世界古典文学全集7には多くの仏典が掲載されているので、仏典も(聖書には負けるけど)超ロングセラーの古典小説なのだろう。プラトンもアリストテレスも、シェイクスピアも、コレが初見である。亡父のコレクションは全巻(50巻?)で、亡父が読んでいるのは見た事が無いが子供時代から愛読していたので結構草臥れている。

そんな訳でクリスチャンで無い人は、クリスチャンの神に依って跳梁跋扈が許された悪魔に対して、戦う武器も持たず放り出されている・・・訳だ。だから、誘惑を受け容れやすく創造された肉の身体を持つ我々クリスチャンで無い人々は、悪魔が次々と繰り出す誘惑に抗しきれず・・・、終(つい)には「誘惑から逃れる唯一の方法、それは誘惑に屈する事だ」となってしまうのだろう。

最近の・・・、特に最近の、マスコミ報道に於ける犯罪報道・・・で思うのだが、犯意の認識が軽すぎると思う。その報道される犯意は悲しいまでに御粗末だ。もし本当に、犯意の構成が報道されるような御粗末な論理で形成されているのなら、この世は・・・神の許しを得て跳梁跋扈する悪魔の支配下に在ると云わざるを得ない

犯意とは、辞書的な意味では「罪を犯そうとする意思」である。刑法38条は・・・

(故意)
第38条

1. 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2. 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3. 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。


そもそも不真面目な暇潰しブログなので、新聞の1面に載る様な大それた犯罪の犯意を分析にするには荷が重いのだが、地元でも度々逮捕者が出ている窃視を題材に挙げよう。窃視とは「他人が隠しているものを盗み見ること」だ。

大都会程では無いにしろ、地元岡山にも短いスカートを履いた女性が闊歩している。エスカレーターや、立体構造の街並みの性で、特段に工夫をしなくても短いスカートの中が見えてしまう事がある。田舎に住んでいるので日常の用は平面店舗の店で済ませてしまうので特に問題はないが、市街地に出たり大規模商業施設に行けば、そこは立体構造である。

窃視について、明確な規定は無い・・・と思う。只、刑法犯である窃視を補助しているのが補助刑法である軽犯罪法第1条23号「正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者 」を「左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。」とされている事だろう。

おいおい・・・、市街地の商業施設は「人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所」では無い筈だ。

それに、同じ軽犯罪法第1条20号「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」と云う条文もあり、これを犯せば「左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。」のだ。「尻(しり)や太股(ふともも)その他の身体の一部を」「公衆の目に触れるような場所で」「妄(みだ)りに露出」してはならない事になっている。問題は「公衆にけん悪の情を催させるような仕方」か否か・・・だろう。窃視をして眼福だと思える人にとっては「嫌(けん)悪の情を催さない」カモ知れないが、厳しい貞操倫理感を他者にも遍く知れ渡らせたい向き・・・(特に、同性の年配の女性には)嫌悪の情を催すカモ知れない。

冗談で書くのだが・・・、もし・・・、悪魔に唆されて、その誘惑に抗しきれなかった・・・とした場合は、その人は情状酌量に値するのだろうか?

偶然の「事故」として短いスカートの中の下着を見てしまう事は止むを得ないし、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」と明記してあるので大丈夫だろうが、2度見(2回目に見る)をしたなら・・・罪を犯す意思が在った・・・犯意を以て犯した犯罪となってしまうのだろうか?

笑い話のような報道だったが、上りエスカレーターに於いて早大の植草教授(元)が手鏡で女子高生のスカートの中を覗き見たとして・・・都迷惑防止条例で逮捕される事件(?)があった。その後も、各所各地で同様の事件(?)が相次いでいる。植草一秀氏は事件は冤罪だと主張していたが、日本の犯罪報道の在り方の常として、その後の刑法裁判の結末は報道されない事が多いので私は知らない(ググれば判るのカモ知れないが、本人側の「裁判で無罪」の発表しか見つからなかった)。

悪魔が実在したとして、悪魔が人を犯罪に向け誘惑をし続けているのだとしたら、日本の法権力は悪魔を逮捕し正当な法の裁きを受けさせるベキだろう。ま、悪魔の実在の証拠・・・は、私は知らないので、日本の法権力も存在を認定出来ずに居るのだろう。

各自治体の迷惑防止条例を具(つぶさ)に読んだ訳では無いが、覗かれる程に短いスカートを履いている女性には何の咎めも無いのだろうか?これが軽犯罪法違反か否かは大衆が判断する事だろうが、(申し訳無い程に暴力的な私見だが)危うい程に短いスカートを好んで履いている女性は・・・見せても良い異性には見せたいと思っていて、見せたくない異性が見る事は迷惑だと思っているのでは無いだろうか?それとも、危うい程に短いスカートを履いてはいるが、何人にもスカートの中を見せたくないと思っているのだろうか?

危うい程に短いスカートを履いては居るが、誰にもスカートの中を見せたくないと思っているなら、例え、その着衣が軽犯罪法第1条20号に抵触しようとも、窃視されたのなら迷惑防止条例で取り締まるべきだと云う本人側の主張は肯ける。根本論としての、何故に危うい程に短いスカートを履くのかを問いたくなるが、それは全く本人の自由だろう。だが、その本人の自由が、他人が犯罪を犯す事を誘発しているのだとしたら・・・、その彼女達は悪魔ではないが、悪魔と同じように人を誘惑して犯罪を犯させようと確信犯的に行っているのカモ知れない。(まぁ、悪魔が誘惑して犯させる罪は、現世的な「この世の暗黒を掌どるもの・政治・權威」に背く刑法犯では無いだろうが・・・)

【イエス言ひたまふ『「主なる汝の神を試むべからず」と、また録されたり』】マタイ4・7
(口語訳:イエスは言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」)

神を試す事は契約に反するのカモ知れないが、「この世の暗黒を掌どるもの・政治・權威」を試してはいけないとは法律には書かれていないので、窃視で逮捕された方々は「見せようと誘惑しているモノを見るのが窃視と成るのか?」と判事に聞いてみては如何だろうか?

・・・と、云うのが毎度の如くの長~い前置きだが・・・

幼児虐待や学童虐待・・・についてだが、私が子供の頃は、親が教育的配慮から今日的には虐待と認定されるだろう大罪を平気で犯していたと思うのだ。久し振りに先週末は日帰り温泉施設でノンビリと入浴を愉しんだのだが背中や臀部に「灸(やいと)」の瘢痕が明確に残る人を多く見た。大多数が私と同世代以上の人達だが、すこし若い人にも「灸」の瘢痕が醜く残っている人も居た。

私自身は、私の両親に「やいとを据える」と云われた事は無かったが、夏休みや冬休み等に長い期間泊まりがけで滞在していた母方の生家では母の長姉(叔母)や父(祖父)から・・・「そんな事を云っていると、やいとを据えるぞ」と脅された事が何度かある。手の付けられない悪ガキだったと云う認識は私には無いのだが、昔から大人を困らせる質問の多い「こましゃくれた(小生意気な)」一言居士だったので、ああ言えばこう云う憎たらしいガキだった自信はある。それに、母方の親戚一同の中では一番年長だった性で、同世代の(祖父から見た)孫達のイメージリーダーだったから、田舎風の味付けの料理にも、田舎風のイチジクジャムにも、重い布団にも、くみ取りトイレの臭さにも、白黒TVにも、不満が一杯だったのカモ知れない。今では誰にも言い返さない大人しい大人に育ったが、当時の私は、大人を言い負かす事に喜びを見出す扱いの難しいイヤなガキだった自覚はある。

ある時・・・、深夜から始まるアポロ計画の月面着陸(月の周回軌道投入)を報道する特別番組を見たいと駄々を捏ねた。当時7歳だった私に、子供は寝る時間だ、TVなんか明日観れば良い・・・と諭す祖父に「こんな人類の歴史的瞬間を見逃せと云うのは鬼だ!」と反抗し、従兄弟達は寝室に連れて行かれた後に、私だけ灸を据えられる事になった。子供ながら・・・単なる脅しに過ぎない・・・と思っていたが、着々と灸の準備が始められて俯せに押さえ付けられてパジャマの背中を剥かれてしまう。ここで7歳の論客は、最も憎んでいた子供的な恐怖に負けて泣いて許しを請う事になる。その後の人生では、あのシーンを何度も思い返したし、何度も夢に見たが、あの時、恐怖に負けずに7歳の論客は自分なりの正当な主張を繰り返していたら・・・、両親が居ない母の実家で実際に灸を据えられていたのだろうか?灸を据えられなくても、この事がトラウマになって身動きできない様に押さえ付けられる事は恐怖となってしまった。見たくない悪夢のバリエーションの1つである。

今日の児童虐待の防止等に関する法律(平成12年法律第82号)制定以前だったが、児童虐待防止法(昭和8年)や児童福祉法(昭和22年)は生きていて、身体への暴行や著しい心理的暴力を与える言動は禁止されていたのだが、当時は聞き分けない子供は灸を据えられるのが当たり前の世の中だったのだ。その灸未遂が、私の後の人生に良い影響を及ぼしたのか否かは判らない。(本当に灸を据えられていれば・・・、少なくとも一言居士は直っていたカモ?)


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