日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

西郷隆盛 「遺教」 死生の説

2020-01-16 17:09:20 | 西郷隆盛

遺教

西郷隆盛
 

     死生の説

 

孟子曰ク。
(ヨウ)壽不レ貳(ウタガハ)
レ身以俟レ之
所ニ以立ツル一レ命也。(盡心上)

 

殀壽は命の短きと、
命の長きと云ふことなり。

是が學者工夫(くふう)上の肝要なる處。

生死の間落着(おちつき)出來ずしては、
天性と云ふこと相分らず。

生きてあるもの、
一度は是非死なでは叶(かな)はず、
とりわけ合點(がてん)の出來さうなものなれども、
凡そ人、生を惜み死を惡む、
是皆思慮分別を離れぬからのことなり。
 

故に慾心と云ふもの仰山(ぎようさん)起り來て、
天理と云ふことを覺(さと)ることなし。

 天理と云ふことが慥(たしか)に譯(わか)ったらば、
壽殀何ぞ念(ねん)とすることあらんや。

 只今生れたりと云ふことを知て來たものでないから、
いつ死ぬと云ふことを知らう樣がない、
それぢやに因つて生と死と云ふ譯(わけ)がないぞ。

 さすれば生きてあるものでないから、
思慮分別に渉ることがない。
 

 そこで生死の二つあるものでないと合點(がてん)の心が疑はぬと云ふものなり。

 この合點が出來れば、
これが天理の在り處にて、
爲すことも言ふことも一つとして天理にはづることはなし。

 一身が直ぐに天理になりきるなれば、
是が身修ると云ふものなり。

 そこで死ぬと云ふことがない故、
天命の儘(まゝ)にして、
天より授かりしまゝで復(かへ)すのぢや、
少しもかはることがない。

 ちやうど、天と人と一體と云ふものにて、
天命を全(まつた)うし終(を)へたと云ふ譯なればなり。

(按)右は文久二年冬、
  沖永良部島牢居中、
  孟子の一節を講じて島人操坦勁に與へたるものにて、
  今尚ほ同家に藏す。

 

     一家親睦の箴(いましめ) 
 

 翁、遠島中、常に村童を集め、
讀書を教へ、
或は問を設けて訓育する所あり。

 一日問をかけて曰ふ、
「汝等一家睦(むつ)まじく暮らす方法は如何にせば宜しと思ふか」と。

 群童對(こた)へに苦しむ。
其中尤も年長たけたる者に操(みさを)坦勁と云ふものあり。
年十六なりき。

 進んで答ふらく、
「其の方法は五倫五常の道を守るに在ります」と。
翁は頭を振ふって曰ふ、
否々(いな/\)、そは金看板(きんかんばん)なり、
表面(うはべ)の飾(かざり)に過ぎずと。

 因って、左の訓言を綴(つゞり)て與へられたりと。

 此の説き樣は、
只當(あた)り前の看板のみにて、
今日の用に益なく、
怠惰(たいだ)に落ち易し。

 早速(さつそく)手を下すには、
慾を離るゝ處第一なり。

 一つの美味あれば、
一家擧げて共にし、
衣服を製(つくる)にも、
必ず善きものは年長者に譲(ゆづ)り、
自分勝手を構(かま)へず、互に誠を盡すべし。

 只慾(よく)の一字より、
親戚の親(したしみ)も離るゝものなれば、
根據(こんきよ)する處を絶た專(せん)要なり。

さすれば慈愛自然に離れぬなり。

 

     書物の蠧(むし)と活學問(くわつがくもん) 
 

明治二年、翁は青年五人を選び、
京都の陽明學者春日潜庵(かすがせんあん)の門に遊學せしむ。

五人とは伊瀬知(いせぢ)好成(後の陸軍中將)
吉田清一(同上)
西郷小兵衞(翁の弟)
和田正苗、
安藤直五郎なり。

其時翁は吉田に告げて曰ふ。

貴樣(きさま)等は書物の蠧(むし)に成つてはならぬぞ。
春日は至つて直(ちよく)な人で、
從つて平生も嚴(げん)な人である。
貴樣等修業に丁度(ちやうど)宜しい。
と、又伊瀬知に告げて曰ふ。

此からは、
武術許ばかりでは行けぬ、學問が必要だ。
學問は活(いき)た學問でなくてはならぬ。
其れには京都に春日と云ふ陽明學者がある、
其處に行つて活きた實用の學問をせよと。

 

     私學校綱領 

一 道を同(おなじう)し義相協(かな)ふを以て暗(あん)に集合せり、
   故に此理を益研究して、
   道義に於ては一身を不レ顧ミ、
   必ず踏(ふみ)行ふべき事。

一 王を尊び民を憐(あはれ)むは學問の本旨。
   然らば此天理を極め、
   人民の義務にのぞみては一向(ひたすら)難に當り、
   一同の義を可事。

  (按)翁の鹿兒島に歸るや、
  自分の賞典祿を費用に當てゝ學校を城山の麓(ふもと)なる舊廐(うまや)跡に建て、
  分校を各所に設け專ら士氣振興を謀れり、
  右綱領は此時學校に與へたるものなり。
 

 



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