日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 一 宮本武蔵の剣

2017-11-07 22:56:34 | 大川周明

第五 剣の人宮本武蔵

 

一 宮本武藏の剣 

 『兵法の遭、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物に書き顕はさんと思ふ。時に寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地、巖殿山に上り、天を拝し観音を礼し、佛前に向ひ、生国播磨の武士新免藤原玄信、年つもりて六十。我若年のむかしより兵法の道に心かけ、十三歳にして初て勝負を為す。その相手新當流の有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝ち、廿一歳にして都に上り、天下の兵法者に蓬ひて数度勝負を決すといへども、勝利を得ずといふごとなし。

 その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ六十余度まで勝負すといへども、一度も其利を失はす。その程年十三より二十八、九までのことなり。三十を越えて跡をおもひ見るに、兵法至極して勝つにば非す、おのづから道の器用ありて天理を離れざるが故か、叉は他流の兵法不足なる所にや。

 その後猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見ればおのづから兵法の道にあふこと、我五十歳のころなり、それより以來は尋ね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば、萬事に於て我に師匠なし。今この書を作るといへども、仏法儒道の古語をも借らず、軍紀軍法の古きことをも用ゐず、この一流の見立、実の心を現わすこと、天道と観世音とを鏡として、十月十日の夜、寅の一点に筆を把りて書を初むるものなり。』

 

 何といふ荘厳偉烈な文章であらう。物凄い底力が言々句々に漲って、卵の毛ほどの間隙もない。一点苟もせぬ謹厳がある。盤石不動なるべき自信がある。粛然たる敬虔の念が言外に溢れて居る――宮本武蔵が其の『五輪書』に序したる此の一文は、如何に彼の面目を露呈して餘薀する所がない。

 

 小河権太夫露心といふは、壮年の時より武蔵に随身し、命を捨てることを物の屑ともせざりし剛の者であった。その小河権太夫でさへ、獪且晩年に述懐すらく『武蔵と立合ひ、打太刀をいたす。己は太刀打つべしとと思ひ儲けて儲けて木刀おつとり立向ふに、武藏二刀を取り、大太刀を杖につき、肩をくわつと寛げげらるる時は、肝にこたへて踏掛けたる足を一足は必す引きたり。
 これ我等のみに限らざりしたり』と。げに夫れは彼のみ仁限ることでない、予もまた叙上の一文を読む毎に、未た曾て一足引かずと云ふことなく、軟蕩弱心に襲はれたる時たどは、立向ふことさへ恐ろしい。予は先づ此の希代の一文に註釈しつつ、森嚴無比なる彼れの面目に鬚眉を附して行く。

 

 彼は若年の頃より兵法の道に心をかたといふ。其の兵法の道と云ふは、太刀取りて戦ひ勝の道である。弓を能く射る者は射手と呼ばれ、鐵砲を能くするは鐵砲打と呼ばれ、長刀を用ゐる者は長刀遣と呼ばれる。然るに剣を揮ふ者に限つて、古へより単に兵法者と呼び、太刀遣とも脇差遣とも言わない。弓矢も鐵砲も皆な武家の遣具であり、従って之を修めることは、紛れもなく兵法の道である。それにも拘らす何故に剣道のみが兵法の名を専らんして来たか。

 

 予は之に答えるために、先づ畏友鹿子木員信兄が、其の著『戦闘的人生観』の中に、日本刀に就いて述べたる一節を籍る。彼は言ふ。――『我が工匠の手に作られしもののうち、何れかよく果たして日本刀の如く「日本的」なるものが有ろう。古今独歩の名匠運慶――その作品に飽迄彼自らの生命、彼自らの魂を吹き込むまずしては描かざりし運慶――、従ってその作品に、一種の日本的色彩を付与せずしては止まざりし運慶にありて、尚その象る形に至っては、依然として我等の眼に奇怪と映る支那印度異邦の異形に外ならなかった。
 然るに独り我が日本刀に至りては、独り其の峻烈なる刀身に輝く一種の気魄に止まらず、またその形に於て実に独歩――徹頭徹尾日本的である。宣也我等が祖先、独り之に其生を託せるのみならず、また其の死を託し、独り之れに依りて、その誉れを守りて「刃に伏し」たりし事や』と。


 洵に吾に吾友の言の如く、大刀こそは一切の日本的なるもののうち、最も日本的なるものである。これこそは日本精神の絶倫無双なる象徴である。かくして花と言へば櫻花意味するが如く、兵法と言へば剣道を意味するに至れることに何の不思議もない。


 いま平和主義の切りに喧伝せらるる時、予は独り濃かに剣の福音を味ふ。
天っ神々が諾冊二神に向って、『漂へる国を修理(つくり)固(かため)成(な)せ』と命じたる時、此の使命を成就せしむべく二神に賜りしものは、他なし実に天の瓊(ね)矛(ほこ)であった。吾等の国家は、実に天の瓊(ね)矛(ほこ)の滴瀝にとって成り、また其の存在の根柢にある鋭き叢雲の剣横はる。

 剣とは武蔵が所謂『何事に於ても人にすぐるる心』--登高優越の意志の象徴であり、また『必ず勝ことを得るこころ』--善戦克服の意志の象徴である。この金剛不壊の意志によって、吾等の祖先は能く漂へる国、換言すれば放〇(注:一文字、?)自然なる原始の社会に厳然たる秩序と正義とを與へて一個比類なき国家の礎を築き、また此の意志を以て国家を護り、国運を旺んならしめて来た。

 而も此の剣、此の意志は決して粗豪強梁の暴力、貧婪専恣の我欲に非ず、実に正しく其の反対に立つ。そは却つって此等の暴力我欲を克服して道義的優越を目指して止まざる心、竟に至善を実現せずば止まざる心、天国其の蔭に潜む心である。

 故に剣は必ず鏡に待つ。叢雲は、天照らす鏡を離れて存在し得べく無い。鏡は世界の実相、現象の奥に潜む理法、天地を支配する法則をそっくり其儘に映出し善悪邪正真偽をして断じて蔽ふ所なからしむる聖智である。かくして真に其剣を揮はんとする者は、同時に其の鏡を曇りなきものとせねばならぬ。
 剣は鏡に映る處のものを実現する力なるが故に其の意義と価値とを自ずと鏡裡の影に伴ふ。さればこそ武蔵は天を拝し、観音を礼し、仏前に向かった。而して天道と観世音とを鏡とした。彼の剣、光芒千古に冴えわたる所以である。かくして彼は言ふ。『大刀は道法の終る所なり』と。其深意は正しく王陽明の根本精神を要約せる下の一句と毫厘の相違だもない――『知は行の始、行は知の成るなり。』

 

 さて若年のむかしより兵法の道に心をかけたたる武蔵は十三歳にして初めて勝負をなし、爾来諸国を遍歴して諸流の兵法者に逢ひ、六十余度まで勝負するといへどもその利を失わなかったと言ふ。此の勝負と云うふことは、当今の撃剣仕合の如く考えては、武蔵の鍛錬の真相を掴みえない。
 当時の勝負は実に命がけの仕合であり、負くれば一命を失ふかさもなくば五体不具となることは覚悟の前であった。


 見よ、彼が十三歳の年少を以て新當流の名人有馬喜兵衛と試合した時も、彼は六七尺ばかりの棒を以て立向ひ、喜兵衛は真剣を以て応じて居る。二十一歳の時吉岡清十郎と洛外蓮臺野に於て勝負の際も、相手は真剣武蔵は木刀であった。

 其弟吉岡伝七郎と仕合の時は、相手の大刀を奪ひ取って打殺した。吉岡家の門弟数十人が、清十郎の子又七郎を押立てて恨みの仕合を申込んだ時は、流石に武蔵も真剣を以て相手をした。伊賀国において宍戸某といふくさり鎌の名人と仕合をした時は、短刀を揮つて相手を斃した。
 又名高き巌流島佐々木小次郎との仕合に於ては、小次郎は備前長光三尺一寸の大刀を振ひ、武蔵は艫を削りて自ら作れる木刀を以て戦ひ、見事に相手の脇腹横骨を打挫いた。


 三尺の秋水、抜けば玉散る。ただ打見るだに一身怱ら引締り端然として凝視すれば心の奥まで澄み渡る。如何に況んや宮本武蔵は一撃直ちに死生を決する真剣の勝負を試むこと、前後六十余回に及んだ。何といふ深刻な鍛錬であらう。天禀彼の如くにして此の鍛錬を経た。その魂が赫灼として希有の光輝を放つのは当然のことである。



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