俳句まがいの川柳 Ⅱ
「柳俳一如」「俳柳一如」について
一如とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。「俳句と川柳は絶対的に同一である」と言うことだろう。
川柳塔 昭和52年9月1日発行通巻604号に、尼緑之助氏の「柳俳一如小感」の一文がある。
「柳俳が俳諧から分派以来二百数十年、若干の変遷を重ねつつ、激動の現代に継承されたが、依然変化流動の問題を抱えている。同じ十七音字を基本とするこの双生児には、性格の差があるとしても、人間が産む詩である限り、同じ結果が生ずることは当然と言えよう。(略)柳俳共に人間の詩であっても、現況では『のれん』が邪魔し、統一にはほど遠い、しかし長い間には離合集散の変化も起こりかねない。或は別の名称による短詩型誕生というようなことがあるかも知れない。(略)」
尼氏によると、およそ50年前、には「柳俳無差別論」があり、その後「柳俳一如」となり「柳主俳従」まで現れたと書かれている。おそらく大正から昭和初期頃には「柳俳一如」の理念は存在していて、これが、往時の川柳家の願望だったのかもしれない。
俳句と川柳は双生児なのか
奥の細道が刊行されたのは1702年、柄井川柳が「前句付け」の興行を始めたのは1757年頃、誹風柳樽第一編が刊行されたのは1765年である。俳諧連歌が源流にあるにしても、生まれた時期、性格は相違している。 別々の人に17音字という同じサイズの服を着せて、似ているから双生児と言っているだけではなかろうか。 復本一郎氏は、俳柳一如、柳俳一如などと声高に叫ぶ俳人や、川柳作家がいるとすれば、それは、俳人、川柳作家を放棄した人々である。と述べている。
「俳句まがいの川柳」の正体
番傘川柳本社編 「川柳 その作り方・味わい方」に次の一文がある。
『近時、女性作家の目ざましい進出によって、繊細な目で季節や自然を、そしてそれにかかわる人間を詠むようになったのが隣接文芸(川柳、俳句、短歌)の垣根を取りはずして重なり合う部分より多くしているということでもある。』
また、時実新子は現代川柳の到達点について、次のようにのべている。
『自分の心の中を、あるいは自分の眼で捉えた事を自分のことばで発表しようとするとき、三要素からはみ出すのは自然の成り行きでした世の中が複雑化されるにしただって、川柳も究極は「にんげんのうた」という括り方をするほかはなくなったのです。喜怒哀楽のすべて、思いのすべて、事象のすべて・・・を個の(私の)内側で心で捉えて表現する・・・現代川柳の到達した地点です』
川柳も俳句も時代と共に大きく変わってきた。今後も変わり続けていくだろう。「俳句まがいの川柳」と見做されている句もその過程で生まれたものである。川柳家が自分の心情や感動を句にしたためたとき、それは正真正銘の川柳作品である。だから、「俳句まがいの川柳」というものは存在しないのである。
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