さて、唐もの、高麗もの、和もの、このみっつの中でどれが最も高座に位置するかといえば、なんとヘタウマの高麗ものである。なぜそんな粗っぽい陶芸が、他のふたつの考え抜かれ、つくりこまれた作風のものをしのいで最高位に君臨するのかというと、そこがお茶文化なのである。そうとしか言いようがない。奇妙な世界なのだ。高麗ものの価値を裏打ちする理由を強いて挙げれば、「そう生まれついたから」ということになる。王は、王たる星のもとに生まれ落ちたから王なのだ。経験よりも、資質を尊ぶのだ。他のふたりが王位にあこがれ、どれだけ努力し、着かざり、追いすがったところで、その品格のおよぶところではない。
歴史をひもといてみると、昔々わが国でお茶をはじめたひとたちは、容姿のととのった唐ものを至上のものとしていた。洗練されたたたずまい、輝かんばかりの釉調。大陸を支配する唐人は、土くれから玉(ぎょく=翡翠)を生みだそうと苦心し、肉迫した。それがわが国に渡り、位の高い人々はこの美しすぎる器を好んで「使った」。しかし美人には飽きがくるもので、やがてお茶の文化が身分の低い階層にまで浸透しはじめると、貴族趣味な唐ものよりも、放埒な高麗ものがウケるようになる。朝鮮半島産の高麗ものは、もともと抹茶碗としてつくられたものではない。多くはメシ碗や汁碗、菜鉢のように使われていた大量生産品だ。高価な唐ものを手に入れられない市井のお茶人たちは「器なんてなんでもえーやん」的考えで、器量は悪いが気だてのいい高麗ものを「用い」だしたのだ。
それには、当時発生したわびの思想が深くかかわっている。高麗ものは、唐もののように国家権力が大枚を積んで国内最高レベルの職人につくらせたものでも、和もののように思想家や芸術家が歴史を動かそうと創始したものでもない。高麗ものはいわば最下層の、百姓仕事の合間をみて片手間に器を挽くような素人陶工がつくったものだ。しかも手早くいいかげんに、ただし人々の使い勝手を考えて。そんな素朴さは、力強さ、また用の美と言いかえることもできる。それが当時の日本の質実剛健な侍文化とマッチしたのだった。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
歴史をひもといてみると、昔々わが国でお茶をはじめたひとたちは、容姿のととのった唐ものを至上のものとしていた。洗練されたたたずまい、輝かんばかりの釉調。大陸を支配する唐人は、土くれから玉(ぎょく=翡翠)を生みだそうと苦心し、肉迫した。それがわが国に渡り、位の高い人々はこの美しすぎる器を好んで「使った」。しかし美人には飽きがくるもので、やがてお茶の文化が身分の低い階層にまで浸透しはじめると、貴族趣味な唐ものよりも、放埒な高麗ものがウケるようになる。朝鮮半島産の高麗ものは、もともと抹茶碗としてつくられたものではない。多くはメシ碗や汁碗、菜鉢のように使われていた大量生産品だ。高価な唐ものを手に入れられない市井のお茶人たちは「器なんてなんでもえーやん」的考えで、器量は悪いが気だてのいい高麗ものを「用い」だしたのだ。
それには、当時発生したわびの思想が深くかかわっている。高麗ものは、唐もののように国家権力が大枚を積んで国内最高レベルの職人につくらせたものでも、和もののように思想家や芸術家が歴史を動かそうと創始したものでもない。高麗ものはいわば最下層の、百姓仕事の合間をみて片手間に器を挽くような素人陶工がつくったものだ。しかも手早くいいかげんに、ただし人々の使い勝手を考えて。そんな素朴さは、力強さ、また用の美と言いかえることもできる。それが当時の日本の質実剛健な侍文化とマッチしたのだった。
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