陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その155・和もの茶碗

2010-06-15 08:43:01 | 日記
 無名の陶工が無意識に生み落としたのが高麗茶碗だとすると、和もの茶碗ははっきりと意識してつくりあげられた、いわば造形作品だ。多くはお殿様や、数寄者と呼ばれる風流人からオーダーを受けて、好みどおりの作行きに仕立てられる。器に制作者の個人名が冠されるのも、和ものだけだ。唐ものや高麗ものの名前には、窯元の所在地や、時代や形状の名称があてられる。高麗の陶工などは、名前はおろか、器に自分の個性を盛りこもうなどと考えることさえなかっただろう。美術的なアプローチなどなしにひたすら用途へと向かい、結果、見どころを持ちえたのが高麗ものだった。一方、和ものは打ってかわり、見どころを作意によって盛りこもうとする。自然の風景を人工的に再現しようと試みる枯山水に似ているかもしれない。用の美にとどまらず、さらに個人的な美意識をつめこんだともいえる。そういった意味で、和もの茶碗は「芸術作品」なのだ。
 ただお茶人からみると、美をこしらえられた分だけ高麗ものに上座をゆずる、ということになる。なにしろ高麗ものの美は、運命によってたずさえられたもの、なのだから。まあ理屈はわからなくもないが、そんな順列づけにたいした意味はない。好みの問題だと思う。
 オレが大好きなのは、なんといっても和ものだ。なにしろ、かっこいい(この考え方がさっそく茶の道から外れているのだが)。高麗ものはシブくて無口だが、和ものはおおらかで雄弁だ。静謐なものもあるが、たいがいはタタミの上で大暴れしているように見える。和もの茶陶を表すのには、豪快、雄渾、破格などという言葉がつかわれる。表情が豊かで、動きがあり、360度どの角度から見ても別の物語が展開し、だけどそれが完全に統一されて全体がある。まさに個人的宇宙だ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園