陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その159・没入

2010-06-20 11:23:15 | 日記
 何度挽いてもあざとさコテコテ、企て見え見えのものが挽きあがる。自分の俗物っぷりに愛想を尽かしたくなる。いい仕事は、不必要なもの一切をそぎ捨て、純度の高い美意識だけを残す。それに似たものをこしらえようという邪念は、美意識ふうの形をした虚飾だ。そんなものはすぐに見透かされてしまう。
「作意を見せてはならん。作意を消すのじゃ」
 太陽センセーは説くが、「作意を見せまい」と考えた時点で、作意を見せまいとする作意が開始されるのだから、永遠のジレンマだ。要は、無念無想で挽け、ということだが、技術と姿かたちばかりを追い求めているうちは、とてもそんな高尚な作陶は無理だ。
 高麗の陶工の無欲な仕事が圧倒的なものを生む意味が、ここに至ってようやく飲みこめた。それはいつもセンセーが口をすっぱくして講釈してくださる、お茶の精神性にむすびつく。頭ではわかっているつもりだ。なのに、なかなか器の中に実現できない。技術の上すべりほどみっともないものはない。本質的な美しさとは、造作の達者さなどではない。
 太陽センセーに挽き方をたずねにいっては、家に帰ってろくろを回し、おぼつかないままに実験をくり返し、解答を得ないままに学校でまた回し・・・ためしては迷った。覚えては吐き出した。一心不乱にろくろに向かった。それは「精神集中」とも「一生懸命」とも別の、「没入」と表現したい制作態度だった。のめりこむ、というやつだ。なにもかも忘れて、手のひらに形をあずける。迷ったり納得したりするのは、形が立ち現われたあとだ。そうしてもがくうちに、あるとき突然に壁をぴょんと飛び越えられることがある。はっと顔を上げると、また壁がある。悩んで悩んで、またぴょんと越える。またぶつかる・・・。迷ったり悩んだりはしても、立ち止まったり思いつめたりはしないオレは、壁を越えながらまっすぐに突き進んだ。そんな調子で、茶碗から建水、花入れ、水指と、無鉄砲に前進していった。
 やがて土は手になじみだし、感覚は回転に追いつきはじめ、精神性が高まったかどうかはなんともいえないけれど、じょじょに器の形というものがわかるようになっていった。
 稲が刈り取られてすっかり茶ばんだ風景に、ついに風花がちらつきはじめた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園