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BLOG TOSHIBOUZ

大阪発全国向け。世の中を俺なりに分析させていただきます。同感するも良し反論するも良し。

所詮人の考えはそれぞれなり

2012-06-26 15:36:06 | コラム・批評
先週は屋良ライブへお越しいただきありがとうございました。今週は土日ともに珍しくフリーです。大事なことなのでもう一度言います。土日フリーです!テニスやお食事、デート等のお誘いお待ちしております。ども、TOSHIBOUZです!


消費税増税法案、衆院可決しちゃいましたね。前から違和感があるんだけど、それはいわゆる「党議拘束」ってやつ。そもそも「政党って何やねん?」という話に行き着くんだろうけど、人はそれぞれに考え方が違う訳だから「同じ政党」だとしてもディティールでは考え方が違ってて当然、っと言うかすべて考え方が一緒だったら別に国会議員が何人も必要ないし。要するに「政党」ってのは「大きな部分での考え方が一致してる人の集まり」て事なんだとすれば、逆に言えば細かな分野では反対とかあっても別にいいんじゃないかと思う。ってかそうでなければおかしい。国会議員ももちろんすべての事象に精通してるわけじゃないだろうから、自分の不得手な分野は「右へ倣え」で党議拘束に従うのはありだと思うけど、自分の専門のジャンルでは普通引けないだろ?「党内の結束力」なんてそんなに必要なのか?

今の民主党の方針はマニュフェスト違反だと言う人もいる。もちろん選挙前の公約とは大分違う話になってきているから、その通りだと思う。だけど時代はどんどん変わっていくから、そんな何年か前の話なんて現実的でない場合もそりゃあると思う。だから個人的にはそれなりに主張は変化していってもかまわないと思う。ただしそれは「政権政党としては」の話であって、一議員としての行動は「それを受けて反応しなければならない」んじゃないかと思う。集団としての意見はそもそもが「大枠で似てる」程度の連携なのでそこそこぶれるのは仕方がないとしても個人の意見はそんなに変わらないだろうし、もしドラスティックに変わるのであればそれこそ選んでくれた人(後援者)に説明すべきだと思う。「私は元々は○○という考えだったが、いろいろ勉強した結果それではダメだと理解した」と言って理解を求めるべきだろう。小選挙区制度だから不可能ではないと思うし、本当はそこで理解を得る事が出来なければ「議員辞職」すればいい。「自分にとっての重要な課題に対する考え方が大幅に変わり、それを支持してくれた有権者の理解が得れなかったので、議員を続ける資格がないから辞職する」だなんてめっちゃ格好いいじゃないか!

で、ひとつ提案があるのだけど、選挙の際に候補者はいろいろな政策について持論を展開するよね?あの時に「持論の優先順位」を前もって語ってはどうかと思う。自身のレゾンデートルにかかわる政策もあれば、後援者から期待されている政策、なんとなく世間の雰囲気で考えている政策とかいろいろあると思う。なので「異論があれば離党覚悟」「ある程度妥協も含めて一応賛成」「あんまり詳しくないから納得さえできたら政党の考えに賛同」とか事前に優先順位をつけておけばいいんじゃないかと思う。自身のレゾンデートルにかかわる議題でおかしくなってるのに「党議拘束」で白票とか除籍処分とかなんだかバカらしい。しかもそれを政党側にも伝えておけばいい。いちいち「造反」「日和った」とかの話になるのは見てて正直つらい。政党側もその議員にとっては重要な法案でも、全体的にはそれほどでない議案であれば、造反しても「まぁ、あなたにとってはこれは重要な議案だからね!」とお目こぼしすれば良い。


今日の国会の中継見てたら「小学校の学級委員会よりしょぼい」気がしてきた。。。

ミニマルな音楽

2012-06-22 11:33:56 | コラム・批評
「原子力規制委員会設置法案」のコソコソっとした国会通過が問題になっていますが、その報道で昨晩の「報道ステーション」での古舘さんの締め言葉、「政府のこの動きを見守って行きたいと思います」に思わず「見守ってどないすんね~ん!」と突っ込んでしまった。ども、TOSHIBOUZです!


一昨日、珍しく知り合いのピアニストからメール、「8/11て空いてない?」というライブの依頼。このピアニストのお話はなかなかナイスな音楽が多くて、即答したかったのだがスケジュールを見るとすでに別のやつが入ってしまってた(泣)。きっとギャラも良かったハズなのに…(汗)。今回はコンボ編成のファンクジャズだったらしく(←人数が少なければギャラ分配も良w)、めっちゃやりたかったなぁ。。。(後の祭り)

そんな訳で、最近ハマッている曲が、ハービー・ハンコックが色んなアーティストと競演してるアルバム「Possibilities」の1曲目「Stitched Up」。ロックミュージシャンのジョン・メイヤーとのコラボなんだが、ホント格好良い。それにしてもハービーの多彩さというか、他のジャンルとのコラボのセンスにはいつも脱帽する。A Tribe Called Questへの参加含め、単独のジャズピアニストとしての能力以上にプロデューサー能力が高いよな。この曲ベース弾きたいわ~、3秒でコピーできるくらい簡単だけどこういうのが好きw。

こう見えて意外とHipHopやらHouseなんかも結構好きなんですが理由は結構ハッキリしてて、「スカスカな音楽」であること。ベースという楽器の特性かもしれないけど、基本的に「詰め込んだ」音楽は飽きる。編成が少なくてスカスカであればあるほど、リズムセクションは「タイミングの妙」とか「休符の妙」が際立つ訳で、緊張感とかハンパない。(後、やってるプレイのオシャレ加減がわかり易い)キャマ受けするのはどちらかというと「ゴージャス」な感じの曲が多いので、そういう意味では「変わり者」の部類なのかもしれない。

音符や音色の詰め込み具合もさることながら、「音圧」という点でも同じことが感じられる。特に最近の音楽は極限までデジベル上げて録音しちゃってて、聞いてて余裕がなくて暑苦しいんだよね。東京事変の楽曲は好きなんだけど聞きづらく感じるのはおそらくこのせい。ま、これはアーティストというより制作者サイドの都合(特にCMや主題歌に使われる場合は顕著)が強いんだろうけど、きっと今時のレコーディングエンジニアはそれに慣れちゃってるから、ルーティンでコンプかけて音圧ギリまで上げてしまうんだろうなぁ。

そんな訳で、明日はOtussyではなく屋良朝友ライブ@ペーニャ(長堀橋)のサポートベースであります。最近Otussyでパーカッションばっかやってるんで本業が分からんくなってきたけど、こっちが本命(笑)。ベーシストTOSHIBOUZを見たことない人は来てみてね、プレイ中の「余裕度」が違うからw!あ、もちろんゲイバレしてるハコですので…っつかそもそも屋良っぺがゲイバレしてるかw。

今更触れられたくない過去を葬り去るの巻

2012-06-06 17:27:19 | コラム・批評
フリッパーズギターの「カメラ!カメラ!カメラ!」な感じで、「ノリピー!ノリピー!ノリピー!」と言ってみました。特に他意はありません。ども、TOSHIBOUZです!


このブログを復活させるきっかけにもなったのだが、あまりにもmixi離れが酷すぎる上に、Twitterは少々文章を書くには向いてない。橋下市長みたいにTLが埋め尽くされるのもどうかと思うし。Facebookなるツールもあるのだがこれも比較的長文には向かないし、なによりあけっぴろげすぎる。日本人にはmixiくらいの「ややアングラ」くらいの方が向いてると思うのですがね。

そう、そのFacebook。基本的にアカウントをノンケとして登録していますので高校とか大学とか職歴とかそんなもんが載っとります。ほぼ「音楽系統」で固めていてそっち方面にしか開放してないんですが、なまじ高校とか載っているもんで「同窓生」とかが友達申請してきまくるんですよ。最初のうちは「あぁ、久しぶり~」みたいな感じでホイホイ友達にしてたのですが、変に盛り上がってきて「同窓会をやろう!」だなんて企画も持ち上がってきて正直ウザイ。その上勝手に「コミュニティ」みたいな機能で入れられちまうんですね~。超迷惑w。

そもそもアメリカでFacebookが席巻してるのは、「意外に人の流動性が低い」からなんだと思うんですね。国土がバカみたいに広いし、日本みたいに揃いに揃って東京に就職なんて事も少ないし、数少ないエリートは特別な大学に進学して国際的な企業に就職って事もありますけど、大半は州立大学に進学して(もしくは大学にも行かず)地元の会社に就職したりって感じで、意外と「田舎」なんだと思う。一生国外に出ない人も多いわけだし。だからこそ「過去を隠す必要もないし、そもそもすぐにバレる」前提になってると思うんです。

翻って日本て意外と進学や就職を機に「再デビュー」するじゃない?子供の頃に付けられたあだ名とかイメージを、所属するコミュニティごと変える事でリセットする的な。そういうときこのあけっぴろげなFacebookってちょっと邪魔なんですよね。就職活動に有利だとかマーケティングツールに使えるなんざ言うけど、最早自分で「名簿」を公開してるみたいなもんやもんね。(名簿屋て仕事減ったんだろうか?)誰しも知られたくない過去や思い出したくない思い出もある訳で、正直おせっかいだと思う。Google+てツールが何気に「公開範囲グループを指定」できたりするみたいで、ちょこっと興味あってアカウント取ってみたけど「まぁ別にいいか!」みたいなもんでした。

先日朝の情報番組(多分モーニングバード)でコメンテーターが素晴らしいコメントをしていた。

「私は比較的古くからネットを使ったコミュニケーションを利用しているんですが、今のSNSに共通するのはコミュニケーションツールからマーケティングツールに変化してしまったという事。昔はユーザーが受益者負担として利用料や会員費を支払っていた(Niftyとかの時代ね)けど、いつの間にかユーザーは無料にして参加者を増やして『それを二次活用する企業から料金徴収する』モデルに変化した。そのあたりからネットコミュニケーションの質が希薄化し、ユーザーの意識も低下した。」

そうそう、必要なものには「対価を支払う」、これが正当だと思うのです。



と、無料のブログで書いてしまった(汗)。

情けは人の為ならず

2012-05-29 12:25:18 | コラム・批評
先週の金曜に「通風発作」が出まして、土曜日は自宅でウンウンうなっておりました。でも日曜のライブの打ち上げではビールも飲んだし魚卵も食ったもんね~(→そうじゃねーだろw)。ども、TOSHIBOUZです!


少し親族にゴタゴタがありまして、当事者じゃないけれども何気に結構巻き込まれており、被害を被っております。そんな最中、Twitterでも話題になっておりました某お笑い芸人の母君の生活保護受給問題…少し考えさせられる問題でした。彼曰く「芸人なんて水商売で不安定だから…」みたいな言い方をされてましたが、確かに一般の会社員よりは浮き沈みは激しいとは言え、今時収入が不安定なんて話はいくらでもあります。それより気になったのは「扶養義務」ってどこまであるの?って話です。

法的解釈では「扶養義務>生活保護法」となっているらしく、制度的には一応生活保護を支給する市町村側に扶養義務のある親族に請求する権利もあって「一応」論旨は成立しています。要は生活保護を申請しても、支給する側が扶養義務のある親族に「まずはお前が何とかしろ!」という事ができるという話ですな。ただ残念ながら、この制度を実効させる為には裁判で支給額を調停する必要があるらしく、実務上機能してないし面倒だから「支給しちゃえ!」てなるって話です。

件のお笑い芸人さんの場合は、生活保護受給に関して母君と相談した上で「今(当時)の収入ではとても扶養できない」という話の中で申請しそのまま今までズルズル行ってた(要は甘えてた&サボってた)訳ですが、例えば法的には扶養義務のある親族だとしても絶縁状態になってたりしたらどうなるんだろうか、と。「絶対的扶養義務」というのはおじいちゃんおばあちゃんと兄弟(要は二親等)に存在するんだけど、グレて十数年前に飛び出した弟とか、お前なんて勘当だと言われて放擲された息子とか、呑んだくれで暴力振るう親父から逃げ出した場合とかどないなるんやろ?やっとこさ酷い家庭環境から離れて新しい家庭生活を築いてたのに、これが発端で「また関係を持たざるを得なくなる」とか結構残念な気がする(しかも経済的な問題も絡んでるし)。

結局のところ「養う」なんて感覚は本質的には「気持ち」の問題なので、親族であろうがなかろうが「支援してあげたい」人もいればそうでない人も居る。一般的な場合、さすがに親子は「産まれてこのかた肉親の世話になった事はない」人は少ないだろうから一親等の扶養義務は分かるけど、兄弟や孫・祖父母になってしまうと結構「日ごろの関係性」に影響されるような気がする。同居していたり近しい間柄なら「気持ち」も芽生えるけど、ずいぶんとご無沙汰だったりすれば経済的な負担に関わるだけに、むしろ「お互いに遠慮する」んじゃないだろうか?


ちなみに以下の場合どうなんの?教えてエロい人!

(おばあちゃんからの問合せ)
数十年前に勘当した息子が、その後結婚し子供を作りました(戸籍上はそのまま)。夫婦はやがて離婚し親権は息子が持ったらしい。孫も成人年齢に達した頃、息子は不慮の事故に遭い死去。そんな折、夫が病気を患い生活に困窮するようになったのですが、私たちは孫を頼って良いのでしょうか?ちなみに孫は現在IT企業を立ち上げてかなり羽振りが良いと聞くのですが、一度ハガキで誕生の知らせを受けただけで実際には会ったことはありません。さらに離婚した元嫁とは一切連絡を取った事がありません。

教育とはあなおそろしや

2012-05-21 13:20:14 | コラム・批評
週末はOtussy in 博多でござりました。帰りの飛行機の手荷物検査で打楽器類が「工具」と見なされ機内持ち込みに引っかかったのはご愛嬌(シンバルがNC旋盤にでも見えたかwww?)。ども、TOSHIBOUZです!


先ほど、近所のカレー屋で昼飯を食う時に少々古い号の「サンデー毎日」を読んだ。特集は「福島の後始末」(3月の号だったので)。巻頭記事は「菅直人前首相をはじめその他の面々は刑事告発されないのか?」みたいな内容。つらつらと読んでいて、あまりにも単純すぎる政府批判記事に気分が悪くなった。確かに責任の所在をハッキリさせる事は重要だとは思うが、これでは「後だしジャンケン」みたいなもん。メディアとしてどうなのかな、と思った。その点、意外にも「週刊現代」とかは「自己反省」も含めて書くので多少なりとも同調できるのだが。

福島原発事故についてはいろんな見方もあるだろうし、それについては俺ごときじゃなくてもっと深く考察した人も多くいるだろうけど、なんとなくスッキリ「批判側・脱原発側」に回れないのは、自身が「今まで電力確保の事なんか何の心配もせずに暮らしてきた」負い目があるからだろう。現に昔から一貫して「反原発」を唱えていた人たちもいる訳で、今更何も考えてなかった庶民の俺が声高に「脱原発」だなんて言えないのです。

そんな気分の悪い「サンデー毎日」の次の記事が田口ランディ氏の寄稿。これが俺の今の「モヤモヤ」を代弁してくれていて非常に小気味が良かった。論旨としては以下の通り。

1)核爆弾により被災した戦後日本を大きく経済成長させた安定電力供給は「核の平和利用」という考え方によるもの
2)経済大国にのし上がる過程で「核の平和利用=民主主義」「反核=社会主義」のイデオロギー転換
3)原発推進・原子力研究は資本主義社会&民主主義を掲げる国家事業として旗印のようなもの→利権化の温床
4)問題は既に国内に原発が数多く存在し、縮小させていく過程でも処理期間があるのだが、その産業自体が不人気となる

そうなんだよなぁ、小さい頃「原子力発電って方法があってね、今までの火力や水力と違って再利用できたりしてスゴイ方法なんだ!」と教えられ、素直に「すげー!それめっちゃええやん!格好良い!」なんて思っていた事を思い出す。キュリー夫人の伝記を読むきっかけになったのも恐らくその教育のせい(残念ながら物理学は全く理解できずその道に進むことはなかったが)。被爆国だからこそ「核を平和利用する」事に関する執念が働いていたとも言える。

残念ながら人間には数十年という単位で予測できる力は持っていない。だからこそ「その瞬間にどれだけ正しいジャッジができるか?」が重要なのだけど、それも後から考えれば「もうちょっとこうしとけば良かった」と反省する事ばかり。だから「前首相を刑事罪に問う」だなんて、一介のメディアがおいそれと言うべき事ではないと思う。本当は「原子力を平和利用することで経済発展を遂げよう」と考えた当時の情勢が問題だろうし、それが果たして間違いかというとその恩恵を十二分に受けている現在となっては批判する資格もないと思う。

「原子力発電」というフィジビリティが困難になったという事は、その分野の研究開発市場が廃れたという事。それでも処理するにもその研究の継続は必要。ここには十分に国家予算を割いて責任を持って処理していく事が重要なんだろう。ゴミ処理や汚水リサイクル同様、その実際の業務内容以上に「崇高な仕事」と位置づけられなければいけないのだと思う。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々

2012-05-16 14:58:01 | コラム・批評
最近はmixiも廃れ気味で、かといってfacebookはあまりにもあからさま過ぎるし、Twitterは文字量少なすぎで長文投稿には向いてない。ブログを新たに作り直そうかと思ったけど、ログインIDをいくつか叩いたら「運よく」ログインできたのでせっかくだから使い続けようかと。最近お知り合いになった方は、俺の別側面を知っていただく機会にちょうどいいかな…なんてね。


久々のブログのテーマは「クラブで深夜に踊るのは文化か、それとも犯罪か?」です。

ご存知のように、ここ数年クラブの摘発が活発化してきています。俺らゲイにとっては「ゲイナイト」というのは比較的身近なイベントだし、出演したりする側としては「出演機会の減少」は重要な出来事です。ノンケのクラブでは割と数年前から摘発が頻出してて、有名なクラブが次々と営業停止に追い込まれていたのですが、ついにこの「過剰な摘発ムード」がわが身に近しいところで起きだしたのは大問題ですね。

では考察開始!


(考察1)深夜に営業するのは悪か?

そもそも俺が小学生くらいの頃は街にはコンビニなんてなかったし、「24時間営業」なんて業態は特殊な職業を除いて存在しなかった。つまり「夜になればおうちに帰って寝る」のが普通であり、夜中に活動する生活そのものが「不良」だった。「午前様でお詫びに寿司折りを買って帰る」という表現通り、午前0時を過ぎて帰宅するのは家庭にとって悪であり、お寿司屋が開いてる時間帯にお土産を購入できるのが「一般的に最も深い時間帯」であって、それ以降は「帰宅して寝る」のがデフォルトの生活。だからこそ風営法でも「0時以降の営業はNG」となっており(一部は特区で午前1時)、「朝まで夜通しで遊ぶ」なんて文化自体の存在が認識されていないし、当時は朝まで時間を潰す事が可能な施設も存在しなかった。その法律をそのまま運用しちゃうと「善良な国民は夜は寝ましょう」てなる訳で、今の深夜営業の業態はそれがクラブだろうがなんだろうがそもそも存在自体が否定されている。

(考察2)法律的にクラブの営業は何が違法?

クラブはいわゆる風営法上の3号営業(ナイトクラブ)になるのですが、法律制定当初の「ナイトクラブ」は「大人の男女が社交ダンスで親交を深める場所」を想定していて、その意味では今のクラブも見た目は違えども目的は結構似通ってる(要はナンパ目的でダンスに興じる)とも言える。ちなみに「クラブ」と認識されている業態もこの3号営業だけではなく、深夜酒類提供飲食店(要は居酒屋と同じカテゴリー)として営業したり、風営法ではなく興行法管轄として「ライブハウス」として営業しているパターンが存在する。見た目は同じでも個々に規制範囲があり、そこがクラブ経営者側に「迷い」を生じさせている原因となっている。夜中躍らせていて即座に営業停止くらうのは3号営業許可、指導が入って「躍らせなければ良い」のが深夜酒類提供飲食店、「客同士がコミュニケーションを取れない」状態ならライブハウスと言えるけれど実際は曖昧な業態も多くある訳で、結局は「夜中に客が踊り狂ってる店」は何かにつけて摘発してしまう…というのが今の情勢です。

(考察3)深夜に踊って何が悪い?

今回のテーマの主題はここ。そもそも「何故踊る事に規制がかけられるのか?」です。個人的には「クラブで踊り狂う人種」というのは、阿波踊りやよさこいでトランス状態に入るのと同人種だと思う。人間には心の安定を得る際に「踊ったり運動したりし興奮させる事でストレスを解消する」タイプと、「読書やマッサージなどで沈静させる事でストレスを解消する」タイプが居る。その意味で「時間を忘れて踊り狂う」のはストレス解消法として古くから認知されている訳だけど、一方で「それを好まない=不快に感じる人種」も居る事になる。ここからは暴論かもしれないが、前者は多分に勢いがあってノリが良いタイプ=経営者や営業職などであり、後者は冷静で思慮深いタイプ=官僚や企画職に大別できるのではないかと思う。法律を作るのは当然後者のタイプが多いと考えられるので、前者の「踊ったり運動してストレス解消する」のはまさしく「阿呆」なのである。だから「深夜に踊る奴らなんて低俗な人種だ」とカテゴライズされているのではないかと思う。


上記から考えると、今後法改正が議論されたとしても(考察1)(考察2)部分はある程度現状に見合う改正は行われる可能性はあるだろうが、(考察3)部分はどうしようもない。なぜなら「そもそもそんな感覚を持ち合わせない」人たちが主導して法改正するのだから。簡単に言うと賑やかな喧騒の街に行きたがる人とリゾートや温泉にのんびりしたがる人の違い、お互い相容れない。個人間では「嗜好の違い」で片付けられても、「法」というルールに乗せれば「善悪」が付いてしまうという不条理。後者が「タイプの違う人種も存在する」事を認めない限りはすれ違いの議論なんだろうと思う。

ちなみに、俺自身は↑こんな事をまじめに考察するくらいだから、確実に後者なのだろうと思う。だって、人ごみ嫌いだしゲイナイトも苦手。でも、それが好きな人種を否定するつもりは無いし、それが「他人と付き合う」上で重要な要素だと思っている。

卵と鶏はどちらが先か?

2007-12-04 00:06:41 | コラム・批評
エリア88にハマッております。キム・アバになりたい。 ども、TOSHIBOUZです!


さて、本日会社で「卵が先か、鶏が先か、ていう話やな」というような話題がございました。これは言わずと知れた「どちらが先とは決められない」といった場合に使用される有名な格言ではありますが、俺的には実は回答が出ております。

俺は「卵が先」ですw。
でも人によっては「鶏が先」の人も居ると思います。

俺の理解としては前者はロマンチストで後者は刹那主義者です。

そもそもこの議論は「食糧」として卵もしくは鶏を見ているという前提から始まります。つまりいずれにせよ最終的には「食べる」という話。この観点から考えた場合、どちらもその場で食べてしまってはその場限りになってしまいますので、成長性が無い。つまり、卵の場合は「孵化させて鶏になるのを待つ」必要があり、後者の場合は「鶏が卵を産むまで待つ」必要があると思う訳です。

これは一見同じように思えるかもしれませんが、その実は大きく異なります。卵を選ぶ人は「まず最初に育つまで待ち、さらにその鶏が卵を産むまで待つ」という2段階の工程が必要です。なぜなら卵から孵化して親鳥に育ってそのまま食べてしまったらやはりその場で終了してしまうからです。つまり継続的に食糧を得る為には「親鳥が自分の個体数以上に卵を産む」まで決して食べてはいけないのです。

となると、先に鶏を選んだ方が得なのでは?という事になります。つまりプロセスを1回飛ばしているからです。ですが、ここに落とし穴があります。初めに鶏を選ぶ人は「待てない」人なのです。つまり狩猟民族型な訳です。つまり産んだ卵を親鳥になるまで育てる忍耐力に欠ける。そもそも「こっちの方が得!」という打算的な考え方をしている時点で、育てられない、待ちきれないw。多分、卵を食って親鳥も食ってしまう。そういう人種。

もちろん、先に卵を選ぶと、もしかすると育つまでに死んでしまうかもしれない。でも愛でながら育てて、より大きな利潤を得ようとする…農耕民族の極みです。


なので、スローライフな俺は、卵が先w!

プロアマ論議

2007-11-27 18:20:05 | コラム・批評
ミク日記書き始めたらこっちがおろそかとか言われたらヤなので、更新!どもTOSHIBOUZです!


さて、実はとあるマイミクさんの日記コメントでちょこっと火を付けてしまって(汗)、エキサイトしてしまったのですが、今回は「プロとアマの境界はどこにあるか?」です。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、俺は音楽をやっていたりしてまして、割と「ギャラをいただいて」演奏してる事が多いです。逆に「チケットは自分で売ってそれをギャラ代わりにしてください」的なイベントは参加を見合わせています。別に自分を高く売るつもりでもないですしそんなに大した奴でもないんですけど、そこに自分で甘えを出さないようにという部分もあります。

さて、今回のプロアマ論議なんですが、自分の価値観で言うと「お金を1円でもいただいたらプロ」だと思ってます。もちろん芸(この場合演奏技術など)を磨くのにもステージを企画するのにも費用は発生するし、帳尻が合わなければ出演者側の持ち出しになることだって多い。これはテレビで端役をやってる役者でも、リアクション芸をやってるお笑いでも同じで、実はコンビニでアルバイトしてたりする場合もある訳だ。だからメディアに出てたらプロという境界なんて存在しない。音楽でもインディーズバンドはアマチュアかというとそうではない。すべては本人が「プロ」と自認しているかどうかにかかっているんだと思う。あえて境界を定めるなら「その芸でお金をもらったか?」しかないかと思う。

「お金をもらう=対価を求めた人が居る」という図式な訳だと思うので、受益者に応分の楽しみを披露する「義務」がどこかに存在する…というのが俺の理屈で、その楽しませ方は不問やと思う。恐らく超有名なアーティストなら、その存在を見る事自体が楽しみになるだろうし、そうでなければ演奏技術だったり世界観であったり歌詞の内容や歌声の素晴らしさだったりする。それで足りなければ楽しいMCだったり派手な演出だったりそういうもので補うのかもしれない。とにかく支払ったお金に見合う価値を見出していただかないことには、「次回に繋がらない」。そして次回も楽しんでいただくために「偶然性」を排除する必要が出てくる。つまり、アベレージを残すための努力が必要なのがプロなのだと思う。

アマチュアはお金をいただいてないので、楽しめたとしてもそれは「やってる本人が楽しんでる事がたまたま受益者にハマった」だけで意識的である必要はないのだと思う。だからクオリティを維持させる必要もないし、たまにピタッときた時にはプロをしのぐようなこともあるかもしれない。でも、稀にホームランを打つことはあっても打率1割のバッターはそのうち解雇だ。でも、対価をもらってないから偶然でぜんぜんかまわないし、観衆を不快にさせても責任はない。だからアマチュアなんだと思う。

そういう意味で自己の表現活動でお金をいただくというのは、金額の多少にかかわらずプロなんだと思う。

テレビ放送が終わる日

2007-11-18 10:17:54 | コラム・批評
「楽器を弾いてるときのTOSHIBOUZは別人みたいに格好良いね」…そのコメントはもう要りません。その評価が欲しいたった一人の方からは全く評価点がありません(笑)。ども、TOSHIBOUZです!

さて、どうも1ヶ月に1回の更新になりつつあるこのブログですが(自己嫌悪)、今回の話題は「テレビ放送が終わる日」です。これまで大学の卒論に書いた「インターネットが社会に与える影響と課題点」により今日のインターネット社会を予見し(大袈裟)、7年前に会社で提唱した「ダウンロードによる音楽パッケージ商法の崩壊」によってデジタルオーディオプレーヤーの出現を予見してきた(またまた大袈裟)私ですが、今回は「テレビ放送が終わる日」を予見したいと思います。

この問題を考えるきっかけとなったのは「地デジ化に伴い、自宅のテレビの買い替えを検討した」という実体験に始まります。「テレビ放送が終わるだなんてとんでもない、HDレコーダーもでき、多チャンネル放送が始まるんだから、見たい番組が増えてもっと活況を成すに違いない。テレビ局の業績だって伸びているぢゃないか!」という反論がすぐにでもやってきそうですが、この活況自体が崩壊の始まりと見ている訳です。

ご存知のように現在の民放は「広告主のコマーシャル放送収入」によってまかなわれています。一部のPPVメディアを除き基本はこのスキームです。つまりテレビが広告媒体としての魅力を失うと自動的に収益は悪化し、番組制作に使える予算が減り番組のクオリティが落ちる、それがさらに視聴率の悪化を招きさらに広告媒体価値を落とすことになる訳です。もちろん低予算で面白い番組もあるとは思いますが、一番簡単に視聴率を稼ぐ方法はやはりお金を使うことです。実際問題「このキャスティングでドラマを作れば…」とか言われる訳ですからこの通りなのでしょう。

さて、本題に戻ります。それではなぜ広告媒体価値が落ちるのかという問題です。テレビにおける広告媒体価値は主に「視聴率」という杓子で測ります。つまり視聴率を稼ぐ事がテレビ局の収入源のリソースになっている訳です。予算の問題はありますがそれは2次的な事で、地デジ普及による多チャンネル化とデジタル録画技術の進歩はそれ自体「自動的に視聴率を落とす効果」を持っていると考えます。簡単な算数の問題です。

例えばここに100人が住んでいる村があるとしてテレビの普及率が100%だったとして、さらにある特定な時間帯は皆がテレビを見る時間と義務付けられていたとします。テレビ放送が始まった当初はNHK1局でしたので、視聴率は100%です。民放が1社できて放送開始したら50%になります。ここで広告主がテレビに投下する理屈は「50人の村民に一気にPRできる効率性」です。これが全部で5局になると20人になり寡占率はどんどん悪化する事になります。現在いわゆる地上波はTX系を入れて6局ぐらいですから、視聴率20%と言うのは「仮に全員が同時に見ていたとして最高の均衡状態」な訳です。なので20%越えの番組はすばらしく出来が良いという事になります。なので多チャンネル化は1局あたりの視聴率を落とす効果を潜在的に持っている訳です。

さらにこの上「100人が全員見ている」状態を減らす要素もあります。昔は娯楽が少なかったこともあり「テレビを見る」事が結構家族団らんの手法の一つでしたが、実際今はそうでもない。つまり全局合計視聴率がどんどん落ちてきているのです。HDRもその一つの要素です。カウントされない視聴ですので、視聴率には影響をもたらしません。自ずと視聴率はどんどん落ちていく。これを実感できるのが歴代の最高視聴率番組の視聴率の変遷です。紅白の視聴率も論議されてますが、そもそも30%を超える番組など今や「夢のまた夢」になっている訳です。

そんな訳で、効率が良い広告媒体という特性はどんどん落ちて行き、予算が集まりにくくなり、それがさらに視聴率低下を及ぼします。「チャンネル全部集めれば視聴率はむしろ増えて合計投下予算も増えるのでは?」という論議もありますが、間違いです。基本的に「独占力が強いほどコスト効果が産まれやすい」ですので、中小企業いっぱいあるより大企業数社の方が確実に収益性は高い。そもそも今まで民放5局ネットワークに投下していればほぼ日本全国を網羅できていたのに、多チャンネル化すると細切れに投下していく必要がでます。これ自体非常に手間賃(広告代理店のメディアレップフィー)を高騰させていく要因にもなります。つまり「テレビは効率が悪い」となる訳です。

追い討ちを掛けるのが「地デジ化による端末買い替えの強要」です。確かに大画面は迫力があるし、映像の美しさも評価できます。ですがそれは「モニターの性能」というハードウェアの問題です。放送内容とは関係ありません。ひょっとしたら大画面テレビはそれなりに需要があるかもしれませんが、別にテレビ放送を見るためではなくDVDやゲームをする為になるかもしれません。で、その為の投資として考えた場合に「もうテレビとか良いんじゃないか?」と思う人も出てこないとは言えないと思います。実際俺はそう思いました。テレビは付けててもBGV的な場合も多いし、そもそも1日何時間テレビを見ているかと思ったら、バカバカしくなってきました。しかも低予算で「分かりやすいタレントも出ていない番組」をわざわざ「超美しい画面で」見たいと思うだろうか?

実際、アメリカでは映画俳優とテレビスターの地位は雲泥の差です。逆に日本のCMはアメリカのものに比べて非常にクリエイティブです。タモリやさんまはテレビが最も寡占力が強いという前提に成り立っています。予算が無けりゃひな段芸人が次々とメインを張ることになるのでしょう。その番組に美しい映像が必要か?要らないでしょう。

今、実はテレビのCM放送の単価はとても高騰しています。それがテレビ局の業績を後押ししています。でもこれは「現時点ではまだテレビが1番効率が良い」からです。インターネット広告などの台頭により「広告する広告主の数」自体は増えてきています。一つ一つは小さいながらも影響を受けています。なので、大企業は一層テレビに投下しています。おかげで視聴率が低下傾向にあるにもかかわらずテレビ局は大もうけです。ですが多チャンネル化して単純計算で1/3位に1番組あたりの寡占率が下がると、番組によっては他のメディアよりも効率で勝てなくなる確率も増えてきます。そうなると商業放送は全く成り立たなくなる訳です。

新聞は映像配信と速報性という機能によってテレビに追いやられました。が、テレビは自ら崩壊する運命にあると思います。

入れたり突っ込んだり

2007-10-11 20:17:20 | コラム・批評
タイトルに釣られた人、アホです。俺がそんな事を「ここで」書くわけないぢゃん(爆)。こういうの一度やってみたかったのさ。 ども、TOSHIBOUZです。


タイトルはまんざら関係ない訳ではなくて、「申し入れ」という言葉に「お」を付けるのが適当か?という話題になったって話なんですよ。いわゆる丁寧語・尊敬語・謙譲語の問題ですね。個人的な理解としては「申し入れる」という表現は謙譲語だと思っていたので、それに「お」を付けると自分の行為を丁寧に言う事になるから変だと思った訳です。でも実際書面にしてみるとなんだかぶっきらぼう。なにしろ「申し入れ」なのでどちらかといえば丁寧に行きたいんですよ。それがぶっきらぼう。試しに「お申し入れ」にしてみたけどそれはそれでやっぱ変だ。

考えを変えて違う言葉で考えてみようと思って思いついたのが「差し出す」という言葉。これも多分「渡す」とか「与える」とかの謙譲語だと思うんだけど、これは「お差し出す」とか全然オカシイ。「申し入れ」も動詞の「申し入れる」だと「お」を付けるとオカシイわけで、動詞ではやっぱ変なのだろう。ぢゃ、「差し入れ」という名詞だと…とか思ったけど「お差し入れ」とかも変やな。とか考えてきて、ちょっと「申し入れ」に似た単語で「申込み」っつーのを考えた場合「お申込みください」とか普通に言うよなぁ?ますますワカラン。名詞でも「お申込書」も一発変換するしなぁ。「申す」だけだと絶対オカシイんだけど。

こういう日本語のキチンとした使い方って、意外と知性とかその人の格とか育ちとかを表す気がするから、個人的には非常に気にするところなんだけど、丁寧語・尊敬語・謙譲語ってのは日本語独特の文化やし、キチンと使いたいもんやね。ちなみに元の問題は解決してないので誰か知ってたら教えてくらはい(笑)。