Nasebanaru

アメリカで趣味と生活を綴る

無宗教の宗教施設 宗教を考える

2008-08-16 01:37:07 | 政治
<無宗教の戦没者追悼施設を 社民・福島党首
 社民党の福島瑞穂党首は15日、河野洋平衆院議長が主張した無宗教の戦没者追悼施設の建設構想について「千鳥ケ淵墓苑を拡充をして、すべての戦没者のみなさんの慰霊をする国立の場所を考えたらどうか。社民党としても前向きに詰めていきたい」と述べ、同調する考えを改めて示した。都内で記者団に語った。(22:01) Nikkei電子版2008年8月15日>


小泉首相が総理大臣を勤めている当時は毎年のようにこのような記事がこの時期に踊っていましたが、私はいつも大きな違和感を感じていました。

宗教がないのなら死者の霊魂も、またそれを慰めるための施設というものも必要ないのではないかと思うからです。

まるで社民党の福島さんは「人は死ぬと霊魂が体を抜け出してどこかに必ず存在する」ということを知っているような話方をされますが、それではまさに立派な宗教家です。

私は宗教の存在自体を否定するつもりはありません。世界中の人々は紙と鉛筆が存在する以前から何かしら目に見えないものをあるときは恐れ、あるときは敬い、そしてあるときには心のよりどころとしてきたことは明らかです。

人間がそう考えてきたことには何かしら理由があったはずだと思います。

ある人は権力者が人々をコントロールしやすくするために宗教を創った(利用した)といいますし、またある人はお金儲けのために宗教を創った、といいますし、またある人は、あまりに悲惨なこの世の生活から現実逃避するために、人々が心の中で創った物だと言います。

そのどれも歴史の一部分をみれば当てはまってしまうのは事実です。

しかしだからといって特にわれわれ日本人が数千年にわたって培ってきた宗教心を完全に否定する必要があるのでしょうか。

もちろん福島さんの指摘されているところは特に靖国神社という特定宗教団体を念頭においての発言でしょう。しかし私を含めた戦後生まれの日本人は、学校教育でもどちらかといえば宗教と名の付くものに対して否定的な見方をするように教わってきたと思います。私にはその延長線上に今回の問題が生まれてきているような気がしてなりません。

アメリカではアーリントン墓地が日本で言う靖国神社と同じような位置にあります。もちろんキリスト教の墓地を示す十字架が広大な土地一面に広がっています。確かにアメリカは戦争に勝ち、自由と平和のためにこの人々は命を失ったのだ、といわれれば、アメリカ人は誰だって戦没者に敬意を表し、キリスト教のこの国家に誇りを感じることでしょう。

しかしキリスト教国家を自負する国でもそれに似つかわしくない歴史がつい最近まであったのです。

最も分かりやすいのが、有色人種、特に黒人に対する差別です。「人は神の元に平等」とうたっておきながら現実にはバス停、レストランから公衆トイレに至るまで黒人専用、白人専用と分けられていた地域が現実にあったのは戦後の話です。

しかしアメリカ人は最近そのことの誤りに気づき、最近では以前のような差別は影を潜めています。ほんの数十年でアメリカは変わったのです。

この人々の心の変化にキリスト教が大きな役割を果たしたことも否定できないでしょう。ずっと言葉では知っていたのだけど、今日ようやく実感することが出来た、という感覚でしょう。アメリカ人はようやく、聖書の示すことを生活の中に取り入れることが出来たのです。

ですから私は日本でも国立の無宗教施設云々と言う議論よりも、世界と日本の歴史をしっかりと見つめ、そこから逃げることなく靖国神社と言う特別な場所と、われわれ日本人との関係を見つめて欲しいと思います。

特に政治家にはその役割を期待しています。









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