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熱気が生み出す誤解と偏見~コミケ68考

2005年08月27日 23時35分19秒 | 世情雑感(社会情勢)
 コミックマーケット、それは日本最大の同人誌の即売会であり年に二度、8月と12月に東京都下お台場の東京ビックサイトで開催される。開催期間中の来場者はゆうに50万人にも達すると言われており、現在では東京都始めて官公庁も関心を抱く一大イベントとなっている(東京都交通局は毎回記念のバス共通カードを発売しているほどだ)。このイベントがなぜオタクという人々にとって重要な存在になっているかと言えば、それは同人誌という自由な感情表現体の存在によってゲーム、アニメ、漫画等の横断的な連接が可能になるだけでなく、様々な関心の所在をも内包出来る点に存在していると言えるだろう。つまり、言論の自由がもたらした「自由」の極地とでも呼ぶべきフィールドなのである。
 しかし、現在そこに参加する人々はその「自由」の意味を深くは認識していないようだ。それは幾つかの点によって垣間見る事が出来るだろう。まずは、コミケ関係者が主張する性描写等に関する規制強化に関する動きへの反発である。無論、ここで反発を示す事は重要であるが、規制強化によって自らの筆が折られる的な論調は如何なものであろうか。同人誌の多く(パロディ作品)は、根本的に著作権の間隙を突くような形で作成されている。ある意味でアングラ的存在であり、アングラは権力から常に弾圧される可能性を有している。つまり、弾圧を受けても自らの信念を投影し続けるからこそアングラなのであって、弾圧されれば筆を折るというのは少し自らが行使する「言論」に関して甘さがあると言えるのではないだろうか。我々の現在の「自由」は幾多の犠牲の上に成立しているものであり、そこへ胡坐をかき続けるという事ではないはずである。
 これは要約すれば、自身への攻撃への感情的な反発という意味でとらえられるだろう。つまり、理性的ではなく感情によって行動するという事である。無論、オタクが傾注する分野のみに最大限の関心を抱くという点を勘案するならば、取るに足らない点かもしれない(先日、実施されたオタク検定はこの部分から考えると不適切な検定と言える)。しかし、今回のコミケでは変な方向でこの点が顕われてきた。コミケ会場に店を出したフランチャイズのアルバイト店員がBlog上で実名で行った「オタ・キモイ」発言事件である。事件の概要はITmedia『「オタ」「きもい」──スタッフのブログ発言、企業を巻き込む騒動に』でも読んで頂きたい。この発言に対して2ちゃんねる等でのネット巨大掲示板群では感情的な批判が展開された。「しかし」、と小生は言いたいのである。あの現場に社会調査として足を踏み入れたものとして言わしてもらえれば(小生はコミケで同人誌その他を買う趣味は無い)、コミケに無関係な若者があの情景を見て「オタ」「キモイ」と言ってしまうことは十分に考えられる事だ(それをBlogで実名で言う精神状態は別として)。少なくとも、3日目の会場内に異様な熱気と臭気が発ち込めていた点は否定しがたい事実である。つまり、批判も重要であるが現実は現実として受け入れなければならない。確かに、近年、オタクはエリートであるという見方が出来つつあるのは事実であり、それは「電車男」という幻想によって生み出され点もまた真実だ。しかし、それはオタクと呼ばれる人々が全肯定されるものでもない事を理解した上ででなければならない。かつてオタクとは批判されてもそれに動じる事はなった。批判がある意味で「真実」だと知っていたからである。現在ではその理性が少し毎、失われてきたように思われるのはオタクが社会化してきたからという事で片付けられることなのだろうか。
 コミケ、それは拡大し続けるオタクの祝典である。そこで誤解と偏見が交錯しているのも事実である。交錯――と記したが、所謂、「一般人」にそれが存在するとするならば「オタク」にもそれは存在している。「一般人」と「オタク」は行動特質がある意味で恐ろしく似通っているからである。その点が示されたのが今回のコミックマーケット68と言えるのかも知れない。