昨日、東北を代表するイチゴ産地の亘理町に農家や観光農園に行ってきました。
沿岸部から離れているこの町も阿武隈川を津波が遡上し、300名近い方が亡くなっています。
高知県のいちご農家との経済交流、技術交流が出来ないか模索をしており、聞き取りをしてきました。
後日、詳細は報告させていただきますが、その前に
昨日の昼、定食屋さんに入りました。土佐人魂のTシャツを着ていたせいか?
もしくは大きな声で注文したせいか、隣の60才過ぎくらいのおじさんに話しかけて頂きました。
おじさんは私が高知から各種のボランティアを長期にしている事や高知応援隊の活動、そして高知県民の善意を話したら、大変喜んでくれました。
するとそこから話しこみ始めました。
そのおじさんは、南三陸町で家族3人と従業員数名でカキや昆布の問屋さんをされていたそうです。
そして今は奥さんと大崎市というところの温泉旅館に避難しているとの事です。
「南三陸・・・?」そこからお話を聞くことに気が引けました。
するとおじさんは自ら話しかけてくれました。
「工場も家も全部なくなった。」
高野「えっ。」やはり・・・。
「あんたいくつ?」
高野「昭和49年寅年、36です。」
「そうか若いなぁ。俺の1人息子は33才だったけど、津波に呑まれていなくなった。俺は昭和の男。息子は平成に生きる男、平成と言う時代を責任を持って生きていってほしいと思い、俺は50才の時に会社の経営権を全て息子にゆずり、後見してきた。」
おじさんの目には涙が出ていました。
「息子は一生懸命頑張っていた。漁師の仲間にも可愛がられていた。けど地震の2日前に経営方針の違いから息子を怒って、一日前には、殆ど口を聞かず、当日の朝もしゃべらず俺は仙台に配達に行った。たまんねぇなぁ。」
しばらく私はしゃべれずにいました。しかし、
高野「息子さん絶対、喧嘩したこともお父さんと同じく反省をし、お父さんを尊敬していたと思います。」
男同士親子は普段あまり話もしませんし、干渉をしないふりをします。しかし、私も父を尊敬していますし、元気なうちに恩返しをしなければといつも思っています。
つらい。私の勝手な想像ですが、子が親を思う気持ちより、親が子を思う気持ちの方が重いのではないかと思います。
高野「今はどうされているんですか?」
「避難施設から毎日2時間かけて南三陸に行き、カキは駄目だけど昆布を少しずつおろしている。息子の分までやらでばなんねぇ。」
耐えられなくなりました。
一時間ほど話した後で最後に
高野「お父さん、皆が被災地や被災者の事は忘れていません。僕も一生懸命頑張ります。」
「ありがとう。体に気をつけて家族を大事にしてな。」
高野「はい。ありがとうございました。」
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