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乗り・撮りで「鉄」満喫 烏山・吾妻・弥彦線+北陸新幹線ルート 昔日編

2024年05月31日 | 乗り鉄
JTB1968年10月時刻表の上越付近の巻頭地図
現在の吾妻線は当時は長野原線で、長野原から太子(おおし)への支線も描かれている
律儀に上越線のループが描かれているのは今も同じ

今回乗車した烏山線、吾妻線、弥彦線が1968年当時どんな様子だったのか、時刻表で辿ってみたいと思います。

先ず烏山線ですが、非電化なので当時はもちろんすべてが気動車列車で●●●Dの列車番号がついています。(今の時刻表では電車と同じ●●●M)
本数や所要時間を比較してみると(一日あたり本数、下り、毎日運転の列車のみで比較、以下同じ)
  • 1968年:宇都宮➡烏山 12本(所要約50分)
  • 現在:宇都宮➡烏山 11本(所要約50分)、宝積寺➡烏山 3本
と区間列車は増加しています。車両はすっかり近代化されましたが所要時間は殆ど変わっていません。

次に吾妻線ですが、当時既に電化されていた渋川~長野原間を見てみると
  • 1968年:渋川➡長野原 普通11本(所要約60分)、快速1本、 急行4本(所要約45分)
  • 現在:渋川➡長野原草津口 普通14本(所要約60分)、特急2本(所要約40分)
といったところでした。こちらも普通本数が若干増えているのと、特急は1968年当時の急行より若干早くなっているようです。
支線の長野原~太子間は非電化で、この区間折り返しの列車が日に4往復運転されていました。

当時の弥彦線 東三条から南にも線路が伸びていた

弥彦線も当時は非電化で列車は全て気動車●●●Dです。本数は吉田を境に運転が分割されているものも多いので弥彦~吉田間と吉田~東三条で分けて比べると
  • 1968年:弥彦➡吉田 13本(所要約10分)吉田➡東三条 19本(所要約20分)
  • 現在:弥彦➡吉田 10本(所要約10分)吉田➡東三条 14本(所要約20分)
所要時間は変わりませんが、本数は7割程度に減少しているようです。車両は新しくなったけど・・・といったところでしょうか。
総じて車両の近代化程、列車ダイヤは変わっておらず、地方の凋落が目立つ・・・といった感じですね。

ついでにわたらせ渓谷鐡道になった足尾線も見てみます。
  • 1968年:桐生➡間藤 8本(所要約110分)桐生➡足尾 1本 桐生➡神戸 1本
    桐生➡水沼 1本
  • 現在:桐生➡間藤 10本(所要約90分) 桐生➡足尾1本 桐生➡大間々 7本
と、こちらは現在の方が相当利便性が上がっています。この他にもトロッコ列車の運行といった積極策など、赤字ローカル線を「押し付けられた」地方は大変かもしれませんが、輸送ニーズはそれなりにあって、きめ細かく対応できる三セク化の効果が表れているということかと思います。

新規乗車区間ではありませんが、今回乗車した中で最も変化の大きいのは上越線の国境区間でしょう。今は普通列車1日5本の閑散線区ですが、当時の時刻表では新潟行の特急ときが3本、急行佐渡が6本、急行天の川が1本、秋田行の急行鳥海が2本、金沢行の急行北陸が1本の他に普通列車も9本あるという盛況ぶりでした。
今の平日ダイヤだと私が辿った渋川から弥彦まで、渋川を8:50に出発して列車を3回乗り換えて弥彦に13:46に到着するのが最も早着になりますが、当時の時刻表だと渋川8:37の急行佐渡に乗車すれば東三条10:58着、東三条11:44発の弥彦線で12:26には弥彦に1時間以上早く到着し、おまけに乗り換えも1回で済むことになります。

こういった中小都市間の輸送は急行の廃止や特急格上げなどの措置もあって、当時と比べると全国的に不便になっていると思います。私の様に地方都市を巡る旅程を組む人は、きっぷもコンピューター発券では対応できず、ある意味切り捨てられているということなんでしょうね。。。
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