野口英昭の死についての「疑惑」
堀江元側近割腹自殺の波紋…首の両側、両手首に腹部(夕刊フジ)
「自殺」と報道されている。警察がそう発表したからか?
「おかしい?何か変だ!」誰もがそう思うが、マスコミはこぞってこの件に関しては突っ込んだ報道をしていない。「他殺」を疑うこともないようで、あるいはその「疑い」は「自分の身を危うくするもの」として忌避されているようだ。
『駆けつけた救急隊員は「首の両側、手首も両方切っていた。腹部も切り、血の海だった」と証言』
だそうだが、自殺をする人間が「手首も両方切る」だろうか?
切った部位の順番がわからないが、一番始めに切ったとしたら、その他の部位は痛くて、あるいは刃物が握れなくて切れないだろう。では最後に切ったかと言えばそれも考えづらい。死ぬためなら、首の両方と腹、そして片方の手首を切れば「十分」のような気が私にはするのである。なにもわざわざ両方の手首を切る必要がないのである。というか、そこまでやることは「不可能」なのである。
実際には「自殺」である傷と考えるより、眠った、あるいは失神した人を、首から手首、そして腹と上からそして右左と順番に、几帳面に切りつけたような傷に私には思えるのである。実際に見たわけではないのであるが、そう考えるのが「不自然ではない」と思えるのであるが。
しかも、死んだ場所が「カプセルホテル」というのも腑に落ちない。カプセルホテルって分からない人に説明すると、和室にある「押し入れ」のような広さで、箱みたいな2階建ての空間の犬小屋みたいな「ホテル」である。そんな中で「自殺」したなんて、私には考え付かない。その「ホテル」は立ちあがることも出来ないほどの空間であり、決して「自殺」する人が「この世の最後の場所」に選ぶとは、どうにも理解できない。
死ぬには、あまりにも「寂し」過ぎる場所なのである。
なにかの得体の知れない「力」が働いているとしか思えない。この「死」の真相の解明がなされないならば、日本は「闇」の力に牛耳られることになる。そんな「恐怖」が蔓延することになる。
堀江元側近割腹自殺の波紋…首の両側、両手首に腹部(夕刊フジ)
「自殺」と報道されている。警察がそう発表したからか?
「おかしい?何か変だ!」誰もがそう思うが、マスコミはこぞってこの件に関しては突っ込んだ報道をしていない。「他殺」を疑うこともないようで、あるいはその「疑い」は「自分の身を危うくするもの」として忌避されているようだ。
『駆けつけた救急隊員は「首の両側、手首も両方切っていた。腹部も切り、血の海だった」と証言』
だそうだが、自殺をする人間が「手首も両方切る」だろうか?
切った部位の順番がわからないが、一番始めに切ったとしたら、その他の部位は痛くて、あるいは刃物が握れなくて切れないだろう。では最後に切ったかと言えばそれも考えづらい。死ぬためなら、首の両方と腹、そして片方の手首を切れば「十分」のような気が私にはするのである。なにもわざわざ両方の手首を切る必要がないのである。というか、そこまでやることは「不可能」なのである。
実際には「自殺」である傷と考えるより、眠った、あるいは失神した人を、首から手首、そして腹と上からそして右左と順番に、几帳面に切りつけたような傷に私には思えるのである。実際に見たわけではないのであるが、そう考えるのが「不自然ではない」と思えるのであるが。
しかも、死んだ場所が「カプセルホテル」というのも腑に落ちない。カプセルホテルって分からない人に説明すると、和室にある「押し入れ」のような広さで、箱みたいな2階建ての空間の犬小屋みたいな「ホテル」である。そんな中で「自殺」したなんて、私には考え付かない。その「ホテル」は立ちあがることも出来ないほどの空間であり、決して「自殺」する人が「この世の最後の場所」に選ぶとは、どうにも理解できない。
死ぬには、あまりにも「寂し」過ぎる場所なのである。
なにかの得体の知れない「力」が働いているとしか思えない。この「死」の真相の解明がなされないならば、日本は「闇」の力に牛耳られることになる。そんな「恐怖」が蔓延することになる。