イワト トジル ルス カムナ ヨソヤ
イワト トジ アケル カムミチ
岩戸 閉じる 留守 カムナ四十八
岩戸 閉じ 開ける 神の道
岩戸が閉じているときは、カタカムナの四十八字、日本語の源、日本語の本当の意味が失われている
岩戸が閉じたのが開けるには神の道、開ければ神の道、開ければ神が満ちる
岩戸が閉じているとは、神が不在の時代、カタカムナは本当の万物の物理法則、生物の生まれる仕組み、人が自然と共存して生きるための知恵、道理、それが失われている状態
神代が始まるのは、神の道によって、神代が始まるためには、神の道、神の道理が必要、神の満ちる、人が神になるよう生きる人が増えることが必要
神代においてカタカムナの考えが、必要になってくる
神代において日本語の起源であるカタカムナの語彙の定義に立ち返り、物事の理解が必要になってくる
神代にするには、カタカムナの考えが、必要になってくる
神代にするには、日本語の起源であるカタカムナの語彙の定義に立ち返り、物事の理解が必要になってくる
難解、これが今現在の私の読解の限界、もっとカタカムナウタヒを理解して日本語一文字づつに含まれる本来の意味を元に、読解することが必要となる
もしも、今使っている発生当初の日本語の本来そこに表現されている意味を、使っている人自体が理解していない場合、ある日、何かのインスピレーションが湧いてきた場合、あなたはそれを正しく言語を使って表現しようとするとき、実は大きな間違いをしていることに気が付かないかもしれない
「宇野多美恵解釈・総集編 日本の上古代文明とカタカムナウタヒ (第一巻)」 潜象物理学会p30~敬意を持って引用させていただく
「ミ」いう日本語は、三・実・身・見・味・美などの漢字にあてられているが、漢字の表相的な意味以上の「ミを入れて」とか「ミを以て」など精神的な意味をこめて使われている。
その「ミ」という上古代語を造ったカタカムナ人の造語の思念は、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ」の「ミ」であって、潜象のカムの「ミ」は「カミ」、現象に変遷したアマの「ミ」は「ミナカヌシ」であり、我々の生命体イノチの生命力アワ生命力の最小単位の粒子マリが「ミ」である。【「アワ」も「ミ」も自分の生命イノチの実質であるが、潜象の電気粒子であるから、現代人は自分の身ミでありながら気ミエナイがつかないのである。】
自分が『生きている』ということは、自分の生命の感受性が『感受したものを「ミ」として生物脳のアマナミナカヌシに入れる』ことであると、自分の無意識領域の共振波動でワカルようになることが、カタカムナの勉強(感受性の鍛錬)の第一歩なのである。なぜなら「ミ」は無意識領域のものであるが、確かに、自分の生命体の中に存在する生命力の実質ミの電気粒子であるから、自分の感受性アワを鍛えて、次々と入ってくる「ミ」と共振して新しい生命力を発生している状態を感受できるようになれば、その無意識の感受を判断して、意識(認識)に出すことも出来るわけである。これが、「感受性アワ」のよって「人間脳サヌキ」を鍛えることであり、カタカムナ人は、正直に自分の「感受性アワ」を鍛え、正直に判断を出し、それをコトバにして示していたのである。
昔から日本人が何となく自分の身のオクにある「ココロ」と感じていたものは、この「アワ」のアマナの「ミ」の存在だったのである。
因みに、「ココロ」という上古代語の造語の思念は、彼らが自分の感受性の感受した状態をそのママ正直にコトバしたもので、『繰返しコカムから正・反ロにあらわれる微粒子コロ』の意味である。「心臓」や「腸」などの観念の発想では無い。
「アマナ」とは、何かは 同書p30~ 敬意を持って引用させていただく
「感受が起きた」ということは、目のレンズに光が当たり、網膜にうつった像が、電気粒子の「ミ」となって神経を通って生物脳の細胞の核内アマナに入った、ということであって、これが「生命」という現象の、あらゆる生命活動ハタラキのハジマリである。(「ミ」が入らなければハジマラない。)
引用部分の個別の単語で理解出来ない部分がおありと思うが、最初、確かに読み始めは難解に感じるが、日本語を使っている素地があるから引用書籍の読解によりご理解いただけると思う
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