萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

驟雨、初恋―P.S,side story「陽はまた昇る」

2011-10-02 16:40:31 | 陽はまた昇るP.S

雨上がりの空は見透しがいい




驟雨、初恋―P.S,side story「陽はまた昇る」

隣の空気を俺は好きなんだ。

なんだそういう事なのか。英二は微笑んだ。
ベンチの周りから、靄がゆっくり流れて消えていく。
隣を見ると、木立の緑を含んだ靄が、湯原の横顔を紗に透かせている。
佇む黒目がちの瞳は、いつも通りに静かで穏やかだ。

けれど気付いた今は。さっき気づく一秒前よりも、きれいに見える。
惹きつけられる心に嘘なんかつけない。

いとしい。
そんな言葉が、生れて初めて温かい。

いままでたくさんの彼女が居た。
けれど誰にも「いとしい」なんて思えなかった。
なんだか、調子が狂う、その調子に合わせてみたい気もする。

気付いた想いが、ゆっくり全身を充たしていく。
穏やかで静かで、ただ隣に座ってこうして見つめて。それだけで幸せだと思える。
誰かをこんなふうに想った事は、初めてだった。

きっとこれが俺の初恋。
どうして今まで気づかなかったのだろう。

このまま湯原の隣に居たい。今はもうこの場所から、立ち上がれない自分が居る。
けれど脳裡を、警察学校の規則が掠めた。

『警察学校内の男女交際は禁止』

同性が想定されていないが、同じ事だ。
もしこの想いが知られたら、湯原を巻き込んでしまうのだろうか。
不安が脳裡を廻る。いま気付いた想いが、この隣を苦しめる事になるのだろうか。

それ以上に、男同士の恋愛はリスクが高い。
法学部で学んだだけに、法的にも倫理的にも、今の日本で受け入れられない事は解っている。
けれどもう、この隣を求める心は消える事なんかない。
たくさんの出会いを経験したから、この隣への想いが本物だと解る。

眼前を、驟雨が白く埋めていく。樹間から流れる冷気が頬撫でる。
視界の端から隣を見ると、湯原は静かに辺りを眺めていた。

―俺は絶対に警察官にならなきゃいけない理由があるんだ
―死なない警察官になりたい

湯原の邪魔はしたくない。
父親の殉職を乗り越える、きれいな真摯な想いを、今はもう知っている。
湯原の願いを、叶えてやりたい。
自分自身も警察官になる事を、今はもう諦められないだろう。

それでもこの初恋を、自分が諦められない事も知っている。
無言でも居心地が良い隣。どんなに得難いものか、自分は知っている。

寂しがりの自分は、きっと手放せない。
気持を誤魔化す事など、出来そうになかった。
言い訳して諦める事も、たぶん出来ない。

穏やかで静かな空気、きれいな横顔、繊細で勁い瞳。
全てがもう、とっくに自分の中に刻まれてしまっている。
今はただ、それに気付いただけ。全てが嘘だと、勘違いだと、そんなふうにどうやったら偽れるのだろう。

気付いたら、もう自分に嘘なんかつけない。
けれどこの想いは、叶えられる事なんて無い。
叶えてはいけない、この隣の幸せを願うなら。

求める事は、しない。 

覚悟が肚に落ちるのを、閉じた目の中で待つ。
驟雨の冷気が頬を撫でていくのを、淡い眼の底で感じていた。
けれどどんなに頬が冷やされても、心の熱まで消えてはくれ無い。
解っては、いた事なのだけれど。

「こんな所で寝たら、風邪ひくよ」

目を開けると、この数カ月で見慣れた顔が、覗き込んでいた。
このまま抱き寄せてしまえたら、どんなに幸せなのだろう。

この隣をずっと離したくない。
けれど気づいた瞬間に、諦めることが相手への真実の想いだと思い知らされた。
こんな想いが、初恋があるなんて、自分は知らなかった。

大丈夫かと見つめてくれる、黒目がちの瞳がいとしい。
瞳の中に、自分が映っているのが見える。それだけでも嬉しくて、傍に居たい。
ひそやかに、自分の心が充ちでいく。
見つめられるだけでも、俺は幸せでいられるかもしれない。ふっと英二は微笑んだ。

「寝てないよ」

見上げたままで呟いた。
そうかと答えて、湯原が空を見上げた。

「雨、上がりそうだな」

英二も空を見上げた。
夕陽映した金色の雲と、その合間から青空が覗いている。その向こうには、淡い紅色の雲がきれいだった。
雨が洗いおとした空気は透明で、あざやかに空と雲の色を示していた。

きれいだな

ふいに熱が溢れ、切れ長い眦を涙が零れた。
髪掻きあげる手の影で、指で密やかに涙払う。涙は指に絡まり、肌の奥へ沁みいった。

どうしたらいいのだろう。
今ここに、隣に、湯原は座っているのに。
卒業するまでずっと、隣にいるのに、想いを伝えることもできない。

伝えられない想いが、また熱になって頬を零れて砕ける。
髪を掻きあげる腕を、おろす事が出来ない。
想いの分だけ、涙が止まらない。

こんなふうに誰かを想うだなんて、今まで知らなかった。
こんなに辛いだなんて、自分の初恋がこんなだなんて、思わなかった。

ふっと隣の空気が揺れた。
ワイシャツが英二の頬に触れる、穏やかで爽やかな香が頭ごと抱き寄せる。

「泣けよ宮田」

ぎこちない腕が、そっと英二の頭を抱いている。
隠して泣いたのに、どうして気づいてしまうのだろう。
けれどそういう湯原の、繊細な優しさが好きで、いとしくて。惹きつけられる自分を、もう気づいてしまった。

本当は、このまま背中抱きしめたい。
泣いて縋って想いを告げて、自分だけを見つめて欲しいと、願ってしまいたい。
こんなふうに、誰かを求めた事なんかない。
きっとほんとうに初恋なのだと、確信が静かに肚へとおりてくる。

けれどその初恋は、叶えられない相手に寄り添ってしまった。
けれどどうしても、気持を誤魔化す事なんか出来ない。

ワイシャツの布地を透かして、穏やかな温もりが頬に触れる。
いつも時折気づいていた、穏やかな香が好きだと素直に思う。
このまま泣けたなら、どんなに幸せなのだろう。

英二は静かに目を閉じた。
今は、泣けない。涙を湯原に見せてはいけない。

この想いが本物なら、きっと自分は耐えられる。
この初恋の相手が大切なら、自分の痛みなんて関係無い。
ただこの隣の笑顔さえ、ここで見られたならそれでいい。

涙を今、見せてしまったら。
やさしい繊細なこの隣は、きっと何かを気づいてしまう。

父の殉職という重たい現実を、背負わせられた肩。
本当は繊細で華奢な肩だった事を、英二はもう知っている。
この肩にもうこれ以上、そんな重荷は背負わせたくなかった。

この初恋のためなら、自分はきっと何でも出来る。
何でも出来る事はしてやりたい。穏やかな想いが心の底で、もうとっくに温かい。
英二は静かに微笑んだ。

「泣いてなんか、いないよ」

鍛えられてはいるけれど細い腰、今こんなに近い。
抱きしめてしまいたいけれど、英二はそっと掌で押しかえして体を離した。
自分で離した温もりが、掌に残って離れない。
心は激しく泣きだしそうだけれど、英二の目は微笑んだ。

「そろそろ帰ろうか、」

ゆっくり英二は立ち上がった。
小柄な隣が見上げてくる、その顔が近くて誘われそうになる。
それでも英二は笑った。

「明日は何時に実家出るんだ、湯原は」
「ん、たぶん10時半位かな」

庭掃除してから帰ろうと思う。
そんな事を言いながら、並んで一緒に歩き始めた。
それなら11時くらいに新宿だろう、英二は口を開いた。

「旨いラーメン屋が他にもあるんだけど」
「ん、行ってみたい」

黒目がちの瞳が微笑んだ。
笑うとやっぱり、本当にかわいい。
この笑顔が見られるのなら、想いを隠していく事も耐えられるかもしれない。

「明日の昼に食いに行こう」

11時に京王線改札前な。言って英二は微笑んだ。
明日もまたきっと、この隣で笑おう。
そして明日の夜は、教本を持って隣の部屋へ行こう。
想いを告げる事は出来ないけれど、静かに穏やかに隣にいたい。

この隣が好きだ。ずっとずっと傍に居たい。




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