萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第79話 交点 act.4-side story「陽はまた昇る」

2014-10-15 22:30:00 | 陽はまた昇るside story
snowhole 冷厳の安息



第79話 交点 act.4-side story「陽はまた昇る」

雪ざぐり踏みしめて吐息が白い、この一歩が重たく分厚い。

踏みだすごとゲイターの膝下まで埋もれる、その白銀が重たいのに嬉しい。
背中の荷重は装備プラス40kgある、この重量に雪の足は沈んで重くて、けれど楽しい。
こんなふうに雪深い懐でこそ自分は思いきり生きられる、そんな実感に澄んだ声が笑った。

「おまえ今イイ顔になってるよ、ホント宮田も山ヤだね?雪山が嬉しくって仕方ないってカンジ、」

公務の訓練中らしい呼名されて、けれど言葉は親しく笑う。
この雪中の時間が楽しくて英二は笑った。

「国村さんもでしょう?新雪だし、」
「おかげで足が埋まっちまうけどね、表層雪崩も注意だよ?」

笑って答えてくれる吐息も白く凍る。
昨夜の氷雨もここでは雪、その気温差が口元から足先まで涼ませる。
この感覚が自分は楽しくて、だけど恐怖も教えられた春の記憶に微笑んだ。

「はい、3月の鋸尾根は教訓です、」

奥多摩、大岳山から氷川へ延びる鋸尾根。
あの場所で初めて自身が雪崩とぶつかり遭難者になった。
あの経験から得たものは多い、そして哀しませてしまった自責に先輩は言った。

「二度とあんなのはゴメンだよ、解かってるね?」
「はい、」

素直に頷きながら聴覚は山を離さない。
この斜面どこか雪奔っていないか、天候の変化はないか、それから野生獣の動き。
積雪期の山は危険いくつも覆われる、その真中を登りながらザイルパートナーが笑った。

「ホント敬語のまんまだね、いま訓練中で業務時間だから宮田巡査部長モードなんだ?」
「そうですよ、当り前でしょう?」

真面目に答えながらも笑いたくなる、だって新雪の山にいる。
この場所にずっと帰りたいと願っていた、それが叶った今に底抜けに明るい目が告げた。

「ふん、宮田は歩き方から進化したね。去年の秋とは別人だよ、」

進化した、なんて言い方に嬉しくなる。
この男に認められて嬉しい素直と復習した。

「静加重と静移動、三点支持、最初は国村さんの真似っ子してました、」
「だね、真似て上達が巧いヤツだなって感心してたよ、」

応えてくれる言葉に時が遡る。
まだ名字で呼んでいた、あれから一年の今に笑いかけた。

「最初は俺、国村さんは年上だろうって思ってました、顔は若いけど雰囲気が落着いてて、」

初対面、自分よりずっと大人に見えた。
あのころのまま落着いている同齢の先輩は微笑んだ。

「ガキの頃から若年寄って言われるね、年寄りに育てられたからじゃない?」
「なるほど?」

笑いかけ頷きながら、けれど鼓動そっと軋みだす。
だって本当の理由を今はもう知っている。

―大切な人を亡くしているからだ、親も雅樹さんも、

両親を13歳で亡くして、その前には唯一の相手を亡くしてしまった。
当時まだ8歳だった死別の痛み、そのとき止まった時間は今もう動いているだろうか?

『おまえが煙草吸ってるトコ、俺にも見せてよ?』

光一が異動する最後の夜、そうねだられて青梅署単身寮の屋上で自分は煙草を吸った。
あれは光一の決別で出発、この自分と雅樹を重ねる現実逃避のピリオドだったろう?

―雅樹さんは煙草を吸わなかったんだ、俺と違って、

生真面目な山ヤの医学生、そんな男だから心肺機能の保持に喫煙はしなかったろう。
そう今なら解かる、この自分も山岳救助隊を志してから喫煙習慣を断ち切った。
こんなことにも自分こそ彼と重ねたくなる願いにテノールからり笑った。

「宮田、ちょっと指示の判断やってみな?おまえの判断で俺が無線する、」
「はい、」

言われた言葉に左手首を見てクライマーウォッチが時告げる。
もう刻限は近い、踏む雪も固く締りだした感覚に上官を振り向いた。

「国村小隊長、ビバーク指示を出しますか?日没は16時40分です、」
「だね、ポイント設定もやってみな?」

応えながら青い救助隊服姿は無線機にスイッチ入れる。
手慣れた雪白の顔に山の薄暮もう蒼い、その頭上を仰いで吐息が凍る。

「冷えそうだな、」

ひとりごと呟いて観天望気に背すじ伸ばされる。
いま上空は晴れの黄昏に染まりゆく、きっと放射冷却が起きるだろう。
その寒気の分だけ見晴らしは良い、こんな気象条件は耐寒訓練には好適となる。

―だけど南斜面に出ないと危ないよな、ここからだと、

空と現在位置に時間を見ながらポイントを思案する。
こうした判断力も去年と違う、そして一昨年の自分には思いもつかない。
それだけ濃密な時間を山に生きてきた、そんな想い改まる肩を軽やかに敲かれた。

「宮田、ポイントは思いついたかね?」
「はい、10分で着きます、」

脳内の登山図から答えて歩きだす膝元、ざぐり雪がさっきより硬い。
やはり低温化のスピードが速いだろう、そう見とって上官に告げた。

「国村さん、今夜はかなり冷え込むと思います。天気図も寒気団がありましたけど、」
「だね、耐寒訓練日和だけどさ、」

頷く横顔の雪白なめらかな頬に山闇が蒼い。
もう16時過ぎる年末の大気は凍てつかす、その懸念を声にした。

「小隊長、今日は冬休みで登山計画書も多く出ています。テント泊の予定者が心配です、」

きっと今夜は零下を二桁、それだけの装備を整えているだろうか?
ここ山では自助しかない、けれど怠りがちな不安材料に先輩も口開いた。

「低山で都内だって舐めてるヤツ多いからね、でも雪でテントしたがるヤツは装備ソレナリだから大丈夫じゃない?日帰りのヤツのが心配だよ、」

その通りだろう、奥多摩は日帰りのハイカーがいちばん事故を起こす。
標高2,000mと都心からのアクセスが気楽な事から安易に山を登ってしまう、そして遭難する。
そんな現場で去年の秋から今年の夏を駈けていた、そこで見つめた「山」の掟たちへ微笑んだ。

「そうですね、道迷いの報が来ないとも限りませんね?雪で道も消えてますから、」
「だね、せっかくの訓練を邪魔しないでくれると有難いけどさ、」

からり笑ってくれる秀麗な瞳は底抜けに明るい。
この笑顔に幾度も励まされ叱られて自分は山の警察官になった、その記憶ごと辿る雪道は懐かしい。

―ずっと楽しかったな、山と周太のことだけ考えて、

山に生きること、唯ひとり見つめること。
それだけで自分は幸せだった、あの時間から今は遠くなっている。
それでも今こうして辿らす山路は幸福な時のまま冷たく穏やかに静まらす、ただ雪の踏む音と落ちる音が優しい。

さくり、かさっ、

雪音、こんなに静かで優しかったろうか?
そんな想い歩いてゆく道は雪埋もれる、きっと一年前なら迷っていた。
けれど今は白銀の樹間にルートが見える、その視界から自分が生きた一年が厚い。
こうして山を辿り時を重ねていく涯にはいつか、あのひとを救いだして幸せに出来るだろうか?

『北岳草を僕に見せて、英二…信じるから、』

ほら、約束の声また耳朶の記憶に微笑む。
すこし痩せてしまった笑顔、けれど澄んだ無垢は変わってなどいない。
あの笑顔を護りたくて秘密も抱えこんで一年を駈けた、けれど二週間前の夜は秘密に隔てられた。
だから今も迷ってしまう、この隣を歩いてくれるアンザイレンパートナーに自分は秘密どこまで赦される?

「そういえば宮田、さっき消防の小林さんに褒められたよ?相変わらず宮田くんは良いねってさ、」

明るいテノールに呼ばれて意識が戻される。
瞳ひとつ瞬いた視界は薄暮もう蒼くて、けれど雪白まばゆい笑顔に笑いかけた。

「小林さん、俺の何を褒めてくれたんですか?」
「このあいだの引継書と処置だよ、曲ヶ谷北峰のやつ。おまえが的確だったから医者の処置も速くてね、後遺症もナシだってさ、」

教えてくれる言葉に肚底から温まる。
要救助者が無事に助かってくれた、唯うれしくて微笑んだ。

「よかった、右胸の刺し傷が心配だったんです、感染症と外傷性気胸が怖かったし低体温症も起こしていて、」

意識レベルICS200、右下肢腓骨単純骨折、腰部打撲、右胸部刺創、低体温症。

そんな容態の要救助者は三十前後、自分と齢の違わない貌に春の雪を見た。
この自分も要救助者として助けられて、だから生きて今ここに救助隊員として立っている。
そんな想い踏みしめる奥多摩の雪は薄暮にも白く記憶を映しだす、その真中で自分を救った男が笑う。

「感染症は低温が逆に幸いだったね、谷口と競って速駈けしたのもさ?」
「はい、谷口さんのお蔭は大きいです、」

素直に認めながらも3週間前が悔しい。
あの芦峅寺の男が来たから自分も勢いづけた、それを見通す瞳はからり笑った。

「悔しい顔まで宮田はイイ貌するね、そのうち谷口と組ませてみたら面白いかもね?」

笑って揄いながら、けれど提案は甘くない。
あの男と組めばプライドなんて崩される、だからこそ試したい願い笑いかけた。

「はい、ぜひお願いします、」
「じゃあ決まりだね、」

頷いてくれる眼差しは大らかで底抜けに明るい。
透明なほど真っすぐな瞳は優しい分だけ厳しい、そして温かい。
この笑顔がいたから自分は今ここにいる、そんな想いごと新雪の尾根を遡る。

雪山の今夜、時は原点を還るだろうか?


(to be continued)

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