萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁side K2 act.22

2013-01-07 00:56:19 | side K2
「晨」 この場所を発って、今  



第58話 双壁side K2 act.22

生きたい、

心叫んだ願いに涙が、冷えた頬を伝って温かい。
伝う温もりの軌跡に3月の北鎌尾根が蘇えり、深紅のウェア姿が記憶に立ち上がる。
風花ふる白銀の稜線と青空へ切長い目が微笑んで、英二の聲が記憶から言ってくれた。

―…ごめんね光一、約束を守れなくて。でも信じてほしいよ、一生懸命帰ろうとしたんだ。光一との約束を守りたかった、

春3月、厳寒期の槍ヶ岳で英二は光一の手を曳いてくれた。
そして慰霊登山に踏みださせてくれた、雅樹の身代わりを務め遭難の事実を代弁してくれた。
16年前の晩秋に、愛する人が何を望み最期を迎えたのか?その真実が心を温め昏い望みを溶かしだす。

 救急用具は忘れてきたけどね、這ってでも帰ろうとしたんだよ
 信じてほしいよ、帰ろうとしたんだ。光一と一緒に、最高峰に登りたかったから
 これから光一は世界中の山に登るだろ?そのときはね、光一と一緒に登っているから 
 目には見えないけれど、ちゃんと光一とアンザイレンしているから…光一の山に登る自由を護るよ

白銀に輝く槍ヶ岳、ナイフリッジの風に靡くダークブラウンの髪と深紅のウェア。
あの場所で英二が教えてくれた雅樹の真実が、自分が今どこに居るべきかを気づかせてくれる。
この自分がどうして今、ここに座って山を見ているのか?その真実と幸福に心の氷壁が割れ、言葉こぼれた。

「ごめんね、雅樹さん…名前までもらったのに、約束もいっぱい…なのに俺、今…ごめん、ね…」

生まれた瞬間から8年と6ヶ月、ずっと雅樹に自分は護られ愛された。
いつも雅樹は真直ぐ向きあい受け留めて、光一の体も心も全てを大切に育んだ。
そして自分が願った一夜のために罪すら負ってくれた雅樹の、祈りと願いは何であるのか?
いま気付かされる想いのまま旋律を奏でながら、涙ひとつ零れて約束に微笑んだ。

「ちゃんと生きて約束を護るよ…雅樹さんの気持ち大切にするから、ずっと一緒に居てよね?…見えなくてもアンザイレンして、ずっと護ってよ、」

この世に自分を迎えて、育んで夢を与えて、沢山の約束で愛してくれたひと。
この愛しい存在の願いを祈りを叶えたい、そう微笑んだ手元を曙光が照らしだす。
輝度を強く明るくする光線にピアノは謳い、唇は想いを詞に微笑んで静かな旋律と歌いだす。

……

奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい

微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い

夢なら夢のままでかまわない 
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは真実だから……

季節は色を変えて幾度めぐろうとも この気持ちは枯れない花のように 
夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ胸を染める
いつまでも君を想い…

……

誰よりも深く、激しく、何よりも綺麗なままに、ただ愛している。

生と死に住む場所を別たれてしまっても、この気持ちは16年ずっと変わらない。
交わしてくれた言葉と眼差しは自分の血となって温かく廻り、明るく輝いて心照らす唯ひとつの想い。
それは敬愛で、それは友情で親愛で、恋愛で運命で、この命も心も体も与えられ育んだ全てで、愛している。
この想いが自分を動かし「山」に生きさせてくれる、そのことが自分も周りも幸せにしてくれた現実をもう忘れたくない。

―雅樹さん、あなたが俺の永遠の花だね?俺が生きるために贈られた、ずっと消えない祝福の雪の花だ、

この花は何より美しくて大切な宝物、けれど独りぼっち生きる哀しみをより強くする。
そんな哀しみを記憶ごと癒してくれる人が今、自分の隣には生きて共に山を登り、夜の逢瀬にも微笑んでくれた。
たとえその人が他の誰かを最愛の人にしていても、この夢を共に生きて自分を支えてくれるのなら幸せだろうに?
そんな幸福がゆっくり心を温めて肩から力を抜いてくれる、ゆるやかに寛いでいく身と心のまま旋律はリフレインにまた謳う。

……

残された哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて靡く あざやかな君が僕を奪う

季節は色を変えて幾度めぐろうとも この気持ちは枯れない花のように 
夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ胸を染める
いつまでも君を想い…

……

10ヶ月、なんど英二は救ってくれたのだろう?

初めて会った日に、雅樹の俤を見せて「約束」の実在を知らせてくれた。
初めてビバークした焚火の前、両親の想いを聴いてくれた、初めて呼び捨てで笑いあえた。
冬富士の雪崩では自分を救いだして、受傷に傷ついたプライドすら受けとめ秘匿を約束してくれた。
あの山桜の樹霊「ドリアード」にも再会させ愛しあっても良いと言ってくれた、それでも自分を支えてくれた。

そして北鎌尾根で、雅樹の慰霊登山を完登させて、永訣と連理の誓いを雅樹と結ばせてくれた。

―英二、好きだよ?おまえのこと本当に愛してる、ずっと雅樹さんを想い続けていてもね…おまえと一緒に生きて山に登りたい、

この今を自分と共に生き、共に夢と約束を叶えられる唯ひとり。
生涯のアンザイレンパートナーで『血の契』だと言ってくれた、唯ひとりの人。
ずっと自分が雅樹を愛し続けても良いと笑って、それでも抱きしめ一夜を愛してくれた唯ひとり。
この一夜を交わしても自分は雅樹との真実に秘密を話せず、英二は周太を選んで心身の全ては与えてくれない。
それでも、たとえ心と体の全てを赦しあえなくても英二となら、同じ夢と誇りを最高峰「山」に見つめ共に生きられる。

―だから良いんだ、おまえの一番が周太だから俺は幸せだね、俺の一番も雅樹さんだから…二番同士でも俺たちは最高のパートナーだ、

二番同士、そんな言葉は寂しいかもしれない。
けれど互いに「一番」を護るため必要なパートナーとして、最高の相手だと確信できる。
お互いに還るべき場所を他に定めながら共に駈け、この世の最高の危険にだって共に立って笑いあう。
そんな最高のパートナーへの想いと音が暁に充ちたとき、背中から命の温もりがくるみ抱き留め、穏やかに微笑んだ。

「この歌、好きだよ…ピアノも歌も、光一のこと本当に大好きだ、」

想い告げ、名前を呼んでくれる英二の綺麗な低い声。
この声に心の氷塊が溶けて素直な幸せが笑い、抱きしめてくれる腕を掌に抱く。
ここに英二は真直ぐ来てくれた、そんな信頼は確信となって背中から包む鼓動に温かい。
ふれた指先にシャツを透かせる体温が優しく頼もしい、この幸せに微笑んで光一は振向いた。

「良かった、俺のこと朝になっても好きなんだね?」

昨夜のことを英二は後悔していない?
答えを知りたくて問いかけ見つめる、その想いの真中で綺麗な笑顔は応えてくれた。

「好きに決まってるだろ、」

綺麗な低い声が微笑んで、抱きしめたまま頬にキスしてくれる。
やわらかな温もり静かに離れて唇ふれて、端正な貌が笑いかけてくれた。

「好きじゃなかったら、昨夜みたいなことは出来ないだろ?どうして光一、そんなこと言う?」
「昨夜のコト、ほんと幸せだったからね、」

本当に英二との夜は幸せだった、だからこそ明方の夢に自分は泣いた。
昨夜の幸せが罪のよう想えて、全てが罰で幻だったとすら想ってしまう。そんな想い素直に光一は微笑んだ。

「夢を見たのかなって思ったんだ、でも、現実だったんだね?」
「現実だよ、全部。ほら、」

答えて英二はブルーシャツの衿に指をひっかけ、少し寛げ見せてくれる。
覗かせた首筋と肩口に薄紅の痕がある、その花びらと似た痣に光一は笑った。

「それって俺のキスマークだね?肩のとこは記憶あるけど、首のとこって寝惚けたかね、」

首筋のキスマークが、懐かしくて愛おしい。
幼い日、いつも雅樹の首筋をおしゃぶり代わりに自分は眠っていた。
あのころの幸福のまま昨夜の自分は甘えて眠った、その証拠が英二に刻まれている。

―無意識でも、雅樹さんと間違えたとしてもね、英二に抱きしめられて甘えられたんだ、

昨夜の自分は英二に抱かれ、甘やかされるまま無防備だった。
それが昨夜の現実だった、そんな納得が素直に幸せで何だか可笑しい。
可笑しくて笑って、笑うまま解かれていく想いに薄紅の痣は優しくて、懐かしい俤が心に笑う。
いつも雅樹の衿元に見ていた薄紅の痣、もう二度と見られないはずの幸福の痕が今、英二にある。

―雅樹さん、やっぱり英二は願いを叶えてくれるね?…雅樹さんが逢わせてくれたって、信じていいの?

マッターホルン北壁、アイガー北壁、ふたつの北壁に懸けた雅樹との夢を英二が叶えてくれた。
そして昨夜を超えて今、もう諦めていた恋愛の温もりのまま英二は抱きとめ、綺麗な笑顔で見つめてくれる。
この温もりも笑顔も、雅樹が願い赦してくれたと信じても良いのだろうか?そう問いかけながら、ただ幸せが温かい。
そんな想いごと抱きしめてくれる腕を掌に抱いて、笑って見上げた先で英二は綺麗に笑ってくれた。

「光一、すごく別嬪だよ?いつもの倍以上にさ、」

綺麗な低い声が告げた唇が、優しいキスを唇にくれる。
ふれるだけで離れるキス、けれど甘くほろ苦い香は口許に名残を刻む。
こんなふう自分と英二は触れあい離れて、還る場所を別にしても幸せを共有できる。

―独り占めは出来ない、お互いに。その分だけお互いに自由だね、

独占できないことは寂しい、けれど自由がある。
今は24歳の男で8歳の自分とは同じでも違う、そして今の自分は孤独の自由と愉快を知っている。
英二に逢う前までは15年間、単独行で山に登っていく孤独の自由が愉快で、静寂との対話に笑っていた。
もちろん雅樹と二人の時間が愛しくて切ない瞬間もある、それでも今この掌にある幸福を見つめて笑った。
あの頃と同じように、与えられる幸せのまま素直に笑えばいい。そう肚の温まるまま光一は微笑んだ。

「ありがとね、だったら英二のお蔭だよ?昨夜が幸せだったから、ね、」

笑いかけ、大好きな笑顔に手を伸ばし引寄せ、唇ふれあわす。
森の香とキス交わして離れていく、そして温もりの残像が唇を微笑ます。
こんなふう正直なまま触れあい離れていたい、そう願い英二へ背を向けてピアノに向かいあう。
そっと鍵盤に指が遊びだし心映る旋律が生まれ、新しい約束に覚えた歌あふれて声が静かに紡ぎだす。


I'll be your dream I'll be your wish 
I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need. 
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful 
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

夢に、願いに、
諦めた望みにも希望にもなって、愛にもなる。
あなたに必要なもの全てになろう、
息をするごと愛を深め、真実から激しく深く愛している。
強くなって、誠実になって、 
この想いは新しい始まりで生きる理由、より深い意味を充たす鍵となっていく
あなたと一緒に山の上に立ちたい、ずっと寄り添い横たわっていたい


そう謳っている詞そのままに、雅樹は自分を護り愛してくれる。
その真実は自分が生まれた瞬間、あの出逢いが永遠に祝福の花と咲いた。
そして今、この歌詞をなぞるよう英二が自分と一緒に生きて、大切な花を護ってくれる。

―幸せだ、俺は本当に幸せだね?

そっと心に感謝が微笑んで、今、与えられる全てに幸せが温かい。
もう雅樹は生きて帰ってはこられない、それでも雅樹の心も祈りも永遠の花を咲かせてくれる。
この花を抱きしめているから自分は独り夜を過ごす時も、幸福な記憶と約束の数だけ孤独も温かい。
そして最高峰の夢を駈ける時には、共に並んでくれる最高のアンザイレンパートナーがいてくれる。

―泣こうが笑おうが、どれもが俺にとっては幸せだね。だって俺の全ては雅樹さんが贈ってくれたんだから、

孤独の夜も、最高峰の夢も、歓喜も哀苦も、恋し愛しあうことも、全て唯ひとりに教えられた。
唯ひとり自分に名前を贈り全てを懸けて愛してくれた人は、この世にある全てを自分に贈ってくれた。
だから与えられる全てが幸せだと想える、この幸福を喜んで涙も笑顔も全てを素直に見つめ、味わえばいい。
そんな想いは温かで心の氷壁は崩れゆく、凍れる臆病が溶け去る場所へと明日に咲く祝福が静かに花開かせる。

―雅樹さん、俺は生きるよ?雅樹さんを恋して愛したまんま、英二と一緒に夢を叶えに行くよ、

大切な人へ永遠の想い告げて、新しい約束が素直に笑う。
もう孤独も二人生きることも、どちらからも自分は逃げずに向かい合える。
そう確信に微笑んだ唇は、英二との約束に覚えた歌によせて、二人のアンザイレンパートナーに想い告げた。


Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers
In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
'Cause it's standing right here before you All that you need will surely come

I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

あなたを泣かせたい、幸せの全てに満ちた嬉しい涙で 
孤独は壊されて最高の護りに抱えられている 
孤独な時も、涙が呑みこむ時も護られている 
あなたと山の上に立ちたい…こうして永遠に寄り添い横たわっていたい

愛しいあなたには見えているかな?どうか目を瞑らないでいて 
ここに、あなたの目の前に立っているから 必要なもの全てになって必ずあなたの元へいくから 

息をする度ごと深まる愛に、真実から激しく深く愛してる
あなたと山に立ちたい…あなたと永遠に寄り添ったまま眠りたい

―あなたに泣いてほしい、この世の幸せ全ての涙で、

いつも孤独すら温めて、強く大きく護ってくれる心を想い続け信じている。
信じるまま共に山を生き、最高峰の夢を駈けて、あなたの願いも夢も全て叶えたい。
きっと自分の傍にあなたはいると信じている、そして時が来たら同じ場所に自分も眠りたい。
生きて呼吸するごと尚更あなたを愛し、山に立ち、いつか永遠に離れることなく眠る瞬間を迎えたい。

そんな願いこめた旋律に、暁の光は照らして世界は明るんでいく。
いま約束の場所はモルゲンロートに染まり、新しい太陽は目覚めだす。
この夜明けの瞬間にピアノは最後の音を謳う、その響きが穏やかに消えて大好きな声が微笑んだ。

「ありがとう、光一。リクエストに応えてくれて、」

ほら、自分の声とピアノがアンザイレンパートナーを幸せに出来た。
それが素直に嬉しく微笑んで、鍵盤にフェルトのカバーを丁寧にかけていく。
静かにピアノの蓋を閉じ、立ち上がると光一は愉しい気持ちのまま笑いかけた。

「じゃ、今度は俺のリクエストに応えてよね?朝飯を食ったら朝の散歩して、酒屋に行くよ?それから、」

それから赦される時間いっぱい、体ごと全てを愛してよ?

そう言いかけて、けれど面映ゆさに声は消えて唇は閉じられる。
昨夜の時間を確かめてみたい、英二に抱かれながら雅樹を夢見る心すら向き合いたい。
けれど意外なほど初心な声は気恥ずかしがるまま、望みを告げられず立ち竦む。
それでも切長い目は理解に微笑んで、綺麗に笑いかけてくれた。

「一日中、酒を呑みながら光一のこと抱え込むよ、」

ほら、やっぱり英二は願いを叶えてくれる。
この信頼が温かで嬉しくて、全てを委ねてみたいと心が笑う。
そんな想いの真中に切長い目は穏やかに微笑んで、率直に英二は訊いてくれた。

「光一、どうして俺のシャツを着たんだ?」

問いかけに、今朝の涙が睫を伏せて紅潮が肌を昇りだす。
あのとき何を想って英二のシャツを纏ったのか?その全てを告げることなど出来はしない。
あの傷みも苦悩も哀しみも、昏い誘惑も今、静かに見つめながら伝えたい事だけに唇を開いた。

「おまえの気配、感じたくて、ね。勝手に着て、嫌だった?」
「なんか嬉しいよ、そういうの、」

優しい言葉が微笑んで、綺麗な笑顔ほころばせてくれる。
この笑顔に甘えてみたい望みのまま、遠慮がちに光一はねだってみた。

「あのさ、嫌じゃなかったらこのシャツ、もらっちゃダメ?…代わりに好きなの、弁償するからさ、」

初めて抱きあえた、その記憶ごと英二のシャツがほしい。

もう明日には帰国して、明後日には異動で1ヶ月は離れてしまう。
きっと1ヶ月は多忙で余裕が無いはず、それでも独りの夜にこの「今」を幻に想いそうで怖い。
また今朝のように幸福な夜を幻だと迷い絶望する、そんな弱さを超える支えに「今」の形見がほしい。
この願い見つめる向うから、大好きな笑顔は穏やかに頷いてくれた。

「いいよ、あげる。そこの服屋で選んでもいい?」
「うん、いいよ。ありがとね、」

よかった、願いを受け留めてもらえた。
この信頼に安堵が笑って、ふわり残り香のぼらす衿元にふれて少し直す。
この香は1ヶ月ずっと残ってくれると良いな?そう微笑んだ隣から英二が笑いかけてくれた。

「この窓ってテラスに出れるんだろ、出てみようよ?」

窓からテラスに出る、そう言われて30分前の過去が自分を見つめる。
さっき自分は遥かな旅路へと窓を開こうとした、この罪を心に鎮めて光一は笑った。

「うん、イイね。アイガーでかく見えるし、」

笑って踵を返し歩きだす、その肩に優しい掌がパーカーを羽織らせた。
シャツとパーカーを透かす温もりと、大きな掌の輪郭と優しさに瞳の底が熱くなる。
こんなに英二は自分を気遣って大切にしてくれる、それなのに自分は嘘を幾度と吐いたろう?

―雅樹さんとの約束を護るためでも、嘘は嘘だ。それも承知で俺は選んだことだね、

16年前の一夜と雅樹の真実を護る、そのために自分は何度も嘘を吐いた。
男性とのセックスは初めてだと偽った、受身になることも初めてだと言った。
2月には愛する人と体を重ねたことは無いとまで言った、この重ねた嘘が哀しく痛い。
それでも英二には絶対に話せない、この秘密を英二に負わせることだけは出来ない。

―吉村先生と仲がいい英二には絶対に言えないね、先生にだけは知られたくない、

16年前のことを吉村医師が知れば、尚更に自責を病むだろう。
ずっと吉村は雅樹を喪った光一の心を気にかけ、息子の死へ責任を感じ続けている。
雅樹の死は誰の所為でも無い、それでも誠実な吉村医師は雅樹の父親として医師として光一に責任を抱いてきた。
そんな吉村医師が光一と雅樹の真実を知れば、光一の心が負った喪失の大きさに気付いて苦しんでしまう。
そんなふうに父親が苦しむことを雅樹は望まない、自分も嫌だ、だから自分が口を噤み嘘を徹せばいい。
こんな嘘も沈黙も本当は苦しい、けれど雅樹が自分との一夜に懸けた覚悟に比べたら何でもない。

そして何よりも、30分前の自分が踏みだしかけた罪は、もっと痛い。

―ごめん、ごめんね英二…おまえの気持ちを見ないで俺は、裏切ろうとしていた、ね…

秘めた30分前の決意に心が泣きだす、そして生まれていく謝罪が温かい。
いつも英二は光一の体を気遣ってくれる、それと同じに昨夜のベッドでも優しかった。
確かに抱きあえた幸せを微笑んで、光一は大好きなアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「ありがとね、英二。俺の体、大切にしてくれて。昨夜も今も、ね」

30分前に自分が捨てようとしたこの体を、英二は護ろうとしてくれる。
この体は山を登り夢と約束を駈けるために雅樹が育んだ宝物、そう気づいた今こそ英二の想いが温かい。
雅樹が自分に籠めてくれた祈りを継ぐように、英二が自分を体ごと受け留めて護ってくれる。
この優しい信頼が幸せで笑いかけた先、綺麗な笑顔は言ってくれた。

「約束は守るよ?」

約束は守る。

そんな宝の鍵みたいな言葉に微笑んで、長い指が窓の掛金を外す。
ゆっくり窓は開かれ空気は流れだし、テラスへ出ると氷河の風がシャツを透かし冷たく触れた。
昨夜の香を靡かせ見上げたアイガーは、新しい薔薇色の陽光まばゆく頂上雪田が華ひらく。

―天空の花園みたいだね、

まばゆい光の薔薇が雪壁に咲いていく、そんな姿に21時間前が蘇える。
昨日の朝、あの場所で英二は風に煽られ転倒し、滑落死へと惹きこまれかけた。
あの恐怖感に突き動かされて、昨夜に体ごと得た幸福を喪わぬよう英二の腕をそっと掴んだ。

「あの場所が、光ってるね、」

あの場所であの瞬間、英二は光一を護るために迷わずアンザイレンザイルを外そうとした。
あのとき英二は一瞬で、最愛の婚約者よりも光一を選んで、この命と体を護るため全てを懸けた。
全てを顧みず英二は光一を護る誇りを選んだ、それなのに自分は30分前なにを望んだのだろう?

―英二は全てを俺にくれて、俺を護ろうとしたんだ…あの夜の雅樹さんと同じだね、なのに…俺は勝手に捨てようとしたんだ…ごめん、

自ら死に赴こうとした罪、その罪悪の重さを運命の雪壁に知らされる。

英二は全てを懸けてザイルを解き、光一を放して護ろうとした。
雅樹は罪を負っても光一を抱いて受容れ、全てを懸けて護ってくれた。
ふたりは光一に最高峰の夢を懸け、全てを光一に与えて護ることを迷わない。
こんなにも二人が自分を護ろうとする、その祈りと願いの誇りを今ようやく気付く。

―俺は何も解かっていなかったね、寂しいってワガママに泣くばっかりで…ごめん、赦してよ?…そして、ありがとう、

この強く純粋な祈りの尊貴を、自分は何も解かっていなかった。

この体も生命も自分だけのものでは無いと、ふたりのアンザイレンパートナーへの懺悔と感謝に気付く。
ずっと自分は幼いころから最高のクライマーを嘱望され、最高の山ヤの魂があると讃えられ生きてきた。
そんなふう「山」を夢見る心たちに護られて、ずっと自分は「山」に生かされてきたと二人の祈りに気付く。
この祈りたちに応えて生きる意志と誇りを今、暁の雪壁に見つめて網膜から焼きつける。
いま明日への想いごとパートナーを掴む手をそっと、優しい長い指が包んでくれた。

「きれいだな、あの場所も、」

愉しげに笑って綺麗な低い声が言う、その言葉に安堵が寛ぎだす。
昨日の事故を英二は反省しても恐れない、尚更に「山」への敬愛を深くしている。
この明るい強靭が頼もしく嬉しくて、素直な気持ちのまま光一はパートナーに笑った。

「おまえもタフだね、危なかった場所をそう言えるなんてさ?そういうトコほんと好きだよ、」

笑って応えながら切長い目を見つめて、その視界がすこしだけ紗に霞む。
こんなふう涙が滲むほど不安な本音に、素直な恋慕が微笑んだ隣から英二は言ってくれた。

「光一、俺は生きて約束を守るよ?約束は全部、絶対に叶える。光一との約束も周太との約束も、全部だ。だから当分死ねないよ、」

どうかお願い、今度こそ約束の全てを生きて叶えてほしい。

告げられた言葉に祈りが心叫んで、8歳の自分が泣いてしまう。
16年前にも告げてくれた大切な約束たち、けれど叶わぬままに眠りについた俤が愛おしい。
この愛しさの分も今、この隣に立ってくれる温もりへと祈りたい、願いたい、そして自分が護りたい。
もう今の自分ならアンザイレンパートナーを護ることが出来る、その自信に光一は綺麗に笑った。

「うん、守ってね」

どうか約束を護ってほしい、あなたは自分が護るから。
そして幸せに笑って夢に生き続けてほしい、この自分と山に駈けてほしい。
たとえ還る場所はそれぞれ別の所でも、この夢と約束を共に生きて叶えられる。

―お互いに唯ひとりだね、お互いの夢を叶えられるパートナーは。ずっと一緒に笑いあって、一緒に生きたいね?

そっとシャツの胸元ふれながら、祈りと見上げる蒼穹の点は今、暁の晨に光輝まばゆい。



Ils annoncent la naissance…
Et pleins de reconnaissance 
Chantent en ce jour solennel…
Cherchons tous l’heureux village
Qui l’a vu naitre sous ses toits
Offrons-lui le tendre hommage 
Et de nos cœurs et de nos voix

天使たちは誕生を告げる
感謝の想い満ちて 荘厳なこの日を歌う
幸福の村を捜し求めよう、その家で彼の誕生を見た村を
彼に心よりの敬意を捧げよう、私たちの心と声で贈り物を捧げたい






【引用歌詞:L’Arc~en~Ciel『叙情詩』/savage garden『tyuly,madly,deeply』/Christmas Carol『Les Anges dans nos Campagnes』】

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第58話 双壁side K2 act.21

2013-01-06 04:31:20 | side K2
「黎」 最も昏い瞬間、その向うには  



第58話 双壁side K2 act.21

光一、愛している 

全てを懸けて愛している 
君は夢で希望の光で、唯ひとりのアンザイレンパートナーだ…ずっと君を護るよ 
本気で大好きだよ。僕は変わらない、ずっと光一を待っているよ…ずっと君と一緒に生きたい 


告げる綺麗な深い声が、そっと約束に微笑む。
黒髪に艶めく暁の光に瞳は優しい、その端正な唇がキスをくれる。
静かにふれる温もりが吐息に香り、やわらかな馥郁に幸せが微笑んだ。

―山桜の香だね…大好き、大好きだ、ずっと待ってたよ?

やわらかな熱、あまい優しい香、ぎこちなくて真摯な愛撫の温もり。
穏やかで切なくて、あまやかな微熱が灼熱に翻って懐深く抱きこめられる。
抱き寄せてくれる花の香が懐かしく涙に変る、愛しい感覚は約束の時だと心を微笑ます。

―やっぱり帰ってきたね?いちばん俺のこと大切で、大好きで、愛してるね…

やっぱり約束を護って帰ってきてくれた、信じて良かった。
生と死に別たれても自分たちは永遠に繋がれている、共に生きられる、そう信じ続けてきた。
だからこそ雅樹が愛した山桜に願い、祈り、雅樹の代わりに樹を護りながら、約束の十年を過ぎても諦められない。
約束だった十八歳の誕生日に自分は現実を泣いた、けれど今願いが叶う喜びに瞳が披かれて、幸せな目覚めに隣へと笑いかけた。

「おはよ、まさ…」

名前を呼んで、すぐ心が止められる。
見つめた貌の髪はランプに照らされ、ダークブラウン艶めかす。
抱きしめたまま眠ってくれる、その腕に懐に香らすのは深い森の馥郁。
いま隣に横たわる人が誰なのか?そう気づいて鼓動がすぐ引裂かれ涙こぼれた。

「…ごめんね、」

涙ひとつ微笑んで、起きあがった素肌を夜明けの冷気がくるみこむ。
まだ窓は昏い黎明時、けれどベッドから降りて光一は浴室の扉を開いた。
蛇口をひねり頭から冷水が降りそそぐ、すこしずつ温まる水に涙は融けて流れだす。

「…っ、ぁぁ、あ…っ、」

押し殺しても声、シャワーの湯にこぼれて流される。
どうしようもなく込みあげる涙と想いは喉を潰す、あふれだす感情が全身の肌を震わせる。
さっき目覚めた瞬間の心と言葉、そして隣に眠る人の美しい貌と温度と、見つめた想いに心が泣き叫ぶ。

―どうして?

どうして、この夜に雅樹の夢を見てしまう?

昨夜は英二に抱かれて、幸せだった。
体温ふれあう瞬間はあまくて、愛しくて、ただ英二だけを想い委ねた。
16年ぶりに受容れる熱に体は深奥から蕩かされて、自分を犯す体と抱きしめあい悦んだ。
いま抱きあえる生きた熱と感覚に、心から幸せが微笑んで拓かれて、体の全てを赦して幾度も英二を受容れた。
そんな自分の体に想っていた、叶わぬ約束から離れる瞬間を英二との間に見られるのなら、周太の涙も無駄にしないと嬉しかった。

―それなのに今、夢で雅樹さんとセックスして…幸せだった…ほんとに幸せで俺、嬉しくて今も起きたんだ、

もう雅樹を忘れる事なんて出来ない、ずっと自分は雅樹が一番だ。
そう解っていた、そんな自分だと知っていた、生まれた瞬間から見つめる人を忘れる事など出来はしない。
けれど英二と抱きあう時だけは唯ひとり、英二だけを見つめて想って感じられるだろう、そう想っていたのに違かった。
こんな自分に心が泣き責める「こんなの誤魔化しだ」と聲が泣いて怒って8歳の自分が駄々をこねて、叶えてはいけない望みを言う。

―逢いたい、逢いたい今すぐ逢いたい、もう我慢なんてしたくない、逢いにいく、 

もう我慢しない、今すぐ逢いに逝けばいい。

涙、シャワーの湯に融けて想いが決り、そして嗚咽が止まる。
止んだ嗚咽に蛇口を閉めてバスタオルで体を拭い、ふと映った鏡の貌に小さく笑った。

「…しかたないね、8歳のまんまだ?」

そっと笑ってバスタオルを頭から被り、髪を拭く。
いま見つめた貌は16年前の夜と同じ、唯ひとつしか考えられない瞳でいる。
こんな自分に時の経過の無意味が微笑んで、考えてしまう望みに揺らぎかけたとき香が昇った。

「あ、」

深い森の香が、ほろ苦く甘く肌から燻らされる。
昨夜に幾度もふれあい包んでくれた熱が今、湯にも流されず残り香が温かい。
バスタオルを外して素肌の肩を近寄せ、その呼吸へと確かな香を感じて心が微笑んだ。

―英二だ、英二が俺のこと、本当に昨夜は愛してくれたね…本当なんだ、

残り香に現実が微笑んで、深く吐息が呼吸する。
この香にくるまれて幸せだった瞬間、それが昨夜は確かに自分を抱いていた。
あの瞬間にすこし心が緩められる、そっと小さく笑って浴室の扉を開くと夜明けの冷気が肌ふれる。
静かに冷やされていく肌を空気に晒して、チェストの前へと立つと昨夜に脱いだ細身のブラックジーンズを履いた。
そのまま昨夜のシャツを羽織ろうと手を伸ばしかけ、その隣に置かれた白シャツに心留められるまま手にとり、その香に微笑んだ。

―英二の香が残ってるね、

昨日、アイガー下山後の風呂を済ませた英二が纏った、シンプルな白いシャツ。
衿は2つボタン外したまま、袖を折り逞しい腕を出して、氷河の風に寛いでいた笑顔が記憶から温かい。
この自分の隣に座った綺麗な幸せな笑顔は、アイガー山頂の写真をデジタルカメラの画面で一緒に笑ってくれた。

―…銀色の竜の背中って感じだったな、アイガーの稜線ってさ?そういう空気がよく撮れてる、光一の写真って好きだよ、

そんなふう褒めてくれる穏やかな笑顔の頬には、一閃の薄紅が華やいでいた。
冬富士の雪崩に刻まれた「竜の爪痕」はアルプスにも鮮やかで、この心ごと奪い慕わす引力が綺麗だった。
あの力に惹かれるまま白いシャツを羽織り、丁寧に袖を通すと光一は衿元2つのボタンを残して留めた。

「うん、…英二の匂いだね、」

この香が好きだ、たとえ雅樹の香を忘れなくても英二の香も憶えている。
いま想う2つの香ごと俤ふたつ愛おしい、この今を包んでくれるシャツの香が温かい。
この香に愛された後朝の幸福を見つめたくて、白いシャツを着たままベッドへ腰をおろし眠る貌に微笑んだ。

「…別嬪だね、俺のアンザイレンパートナー?…幸せな貌して何の夢を見てるのかね、誰の…」

静かな独り言つぶやいて、その言葉に鼓動ひとつ叩いた。
いま英二は「誰」の夢を見ているのだろう?そう想った心に黒目がちの瞳が映りこむ。
凛とした純粋の眼差しが光一に微笑む、その幻影の優しさに心が泣きだして現実が突刺した。

―後悔するかもしれない、英二は。目が覚めて冷静になったら周太を想って…俺を抱いたこと、無かった事にしたいかもしれないね 

昨夜の英二は幾度も光一を求めてくれた。
この体深くへ楔を挿しこみ熱に繋げながら、愛していると囁いて何度もキスに微笑んだ。
たくさんの愛撫と言葉で愛してくれた、心も視界も香も感覚も、全てを恋愛の幸福で充たして愛してくれた。
けれど英二が選ぶのは周太だとツェルマットでも言われている、その恋愛に光一を抱いたことは邪魔になって当然だ。
それを英二も解かって昨夜は抱いてくれただろう、けれど、それだって北壁登頂の興奮が見せた幻なのかもしれない?

「…っ、」

かすかな嗚咽が息を止めて、静かなままに体を立ち上がらせる。
この隣に自分は留まってはいけない、そんな判断に微笑んでもう一度だけ光一は大切な寝顔を見つめた。
ほの昏いランプの光にダークブラウンの髪は艶めいて、白皙の肌なめらかな貌は深い眠りに微睡み安らぐ。
伏せた濃やかな睫には陰翳が深い静謐を象らせ、穏やかな寝息に眠る人の深く、強い高潔な心のままに美しい。

「…眠ってる貌も似てるけど違うね?強くて静かで、どんな苦しいことも全部を越えれられるって顔してるよ…良い貌だね、
おまえは雅樹さんと違うんだ、最高峰の竜の爪痕を持ってるんだからね?きっと英二なら望んだ分だけ全部、幸せになれるよ…」

懐かしい寝顔を重ね観て、ふたりの相似に微笑んで言祝ぎを贈る。
本当はずっと見つめていたい、唯ひとり自分を雅樹ごと受け留めてくれた心に寄添い続けたい。
けれど、それが英二にとって本当に幸せなのか?いま既に北壁2つを終えた実感が自信も確信も消してしまう。
ほんの数日前にツェルマットで英二は「自分では何も出来ない」と泣いた、けれどアイガー北壁にも記録を作った今はもう、違う。

「…英二、おまえはもう充分の力を掴んだよ?アイガー北壁もあのスピードで登れたんだ、もう誰もマグレだなんて言えないね、」

マッターホルン北壁とアイガー北壁を、初登から英二は記録を作った。
登山歴1年未満、それ以前は山のことなど何も知らない素人だった、けれど自分と互角のスピードで完登した。
自分は両親が優秀なクライマーで、雅樹と、田中と後藤という優れた指導者に扶育され今の実力と実績がある。
そんな自分のビレイヤーを10ヶ月で務め遂せた英二のことを、山ヤなら誰もが「天才だ」と認めざるを得ない。
そういう男でありながら英二は謙虚で自省を忘れず、昨夜のミーティングでも誰とも丁寧に接していた。
そうした英二の姿に遠征訓練のメンバー全員が、賛嘆と敬愛の眼差しに英二を見つめている。

「昨夜だって皆『宮田さん』って呼んでたろ?もうカリスマになってるね、それ位おまえは凄い男なんだ…大丈夫、もう俺の力も要らない、」

もう英二は大丈夫、才能ある山ヤとして認められ今後も成長していける。
これからは自分が傍に居なくても、英二はクライマーとして山ヤの警察官として夢を叶えられるだろう。
だから今はもう、英二にとって自分が本当に必要な存在なのか解からない、傍に居て良いのか見えない。
そして想ってしまう、この時に「異動」英二と離れる1ヶ月を迎えることに、運命の意志が何を望むのか?

「…さよなら、かな…英二?」

もう自分が英二に為すべきことは終わった、もう此処に居られない。
そんな想いと眠る貌を見つめて、もう一度だけキスしたい望みが静かに微笑む。
けれど今キスをして、目覚めた切長い瞳に見つめられたら、泣いてしまいそうな自分が怖い。
そんな自分に笑って寝顔に背を向け歩きだし、デスクからルームキーの1つを手にとり部屋から出ると静かに扉の鍵を掛けた。

かたん…

微かな音に扉は閉じられ空間ごと隔てられ、もう寝息は聞えない。
本当はずっと傍に生きたいと願っていた、それは雅樹の身代わりでもなく「英二」と一緒にいたかった。
そんな本音が昨夜の瞬間たちに深く色彩あざやかになっている、けれど目覚めの夢に16年の願いがもう、言うことを聴かない。

「…俺の還る場所も、ひとつだけだね?」

そっと大切な俤に微笑んで、踵返し廊下を歩きだす。
薄暗い回廊を靴音を忍ばせ階段に立つ、そのまま光一は上階へ昇りはじめた。




―雅樹さん、俺はやっぱり独りぼっちだよ?…雅樹さんがいないと還る場所はどこにもない、だから俺を迎えてよ?

心毀れていく本音に、8歳の子供が旅路の初めを強請って泣いている。
その願いを聞き届けてしまいたい、それも昨夜の後ではもう遅いのかもしれない?

―違うね、雅樹さんは俺をずっと待っていてくれる、なにがあっても…俺が他の男に抱かれても何も変わらない、そうだよね?

心が呼びかけ問いかける、この聲に俤は静かな綺麗な笑顔に佇む。
その愛しさに哀しみと信頼とが微笑んで、逝った人の優しさと愛情へ想いが脚を動かせる。
黎明の闇は昏く大気は冷えて、眠りの時間にホテルはどこも音ひとつなく静寂を横たわらす。
独り、冷たい夜を昇って行く非現実感に、16年前も想った心が密やかに微笑んだ。

―死んで逝くとこういう静かなとこを昇っていくのかね…雅樹さんが登った道なら俺も見たい、だから雅樹さん、俺の手を惹いてよ? 

そっと心に問いかけ微笑んで、靴は最上の階を踏む。
乾いた木版を踏んだ微音に見渡す視界、広やかなホールに大きな窓は夜の山を映しだす。
紺碧の天穹ちりばめた星は銀色ふらせ、白銀の陰翳そめる空間に孤独な靴音だけが響く。

かつん…かつん…

ゆっくりと窓へ歩み寄る靴音、自分の脚から泣いている。
いま歩いていく孤独が足元から蝕む、16年の寂寥が哀切が全て起きだしていく。
すこしずつ近づいてくる大きな窓、その向こうにテラスと空を区切らす手摺が暁闇に浮ぶ。

―あの位なら軽く超えられるね?

視界の真中に映る木造の柵、あれくらい簡単に飛び越し道へと降りられる。
普通なら階下のロビーを横切り外へ出るだろう、その場合はホテルマンに見つかってしまう。
けれど階上から外壁を下りれば誰にも姿を見られず、最高階の窓から出れば普通は無傷で済まないと盲点になる。
そして窓は掛金だから振動を巧く使えば外からも掛直せる、そうすれば自分がホテルを出た形跡は残らず行方を気付かれない。

―俺ならココの壁くらいフリーで降りられるね、それで道に出れば誰にも気付かれない。必要な時間も稼げるね、

降りた向こうに道を辿れば、氷河が待っている。
悠久の時を凍れる水の懐、そこへ眠るのなら望んだ場所に逝けるだろう。
きっとホテル内に居ると誰もが思い、自分の発見は遅れて行方不明のまま眠りに安らげる。
山の冷厳に抱きとめられ深い眠りに誘われる死、そこに自分も眠れたのなら雅樹と同じ場所へ辿り着ける。

―やっぱり離れているのは嫌だよ、雅樹さん…迎えに来られないなら、俺から行けばいいよね?

ずっと心の片隅に願っていた、禁断の望みに扉を今開く。
雅樹と同じに雪山で凍死したのなら、きっと同じ軌跡を逝って再会できるだろう。
この願いに微笑んで窓の掛金に指を伸ばし、けれど、ふっと視界に映った影に脚が停まった。

「…ピアノ?」

通り過ぎかけた横、深紅の天鵞絨が星の銀色に艶めき佇む。
大きな隆線と直線が描くシルエットにふれて、柔らかな感触をかきわけ上げる。そこに木目の輝きを見て蓋を開いた。
そして現れた細長い深紅のフェルトを巻き取って、星明りに顕われた白と黒の鍵盤へと光一は想いのまま微笑んだ。

「おふくろ、コレを弾けってことだね…最期にさ?」

ピアニストだった母の俤が、鍵盤に笑ってくれる。
いつも明るくて大らかに優しかった母の、天衣無縫の笑顔が懐かしい。
もう11年会っていない亡母に笑いかけ、光一はピアノの影に座り鍵盤に指を置いた。

トーン……

深く澄んだ音が、静謐に響いて夜闇を払う。
弾き慣れた実家のアップライトピアノより、幾らか重厚なグランドピアノの響き。
この音も悪くないな?そんな想い微笑んだ指が鍵盤を躍らせて旋律が生まれ、唇から歌があふれだした。


Angels we have heard on high
Sweetly singing o’er the plains,
And the mountains in reply
Echoing their joyous strains.

Gloria, in excelsis Deo…

Shepherds, why this jubilee?
Why your joyous strains prolong?
What the gladsome tidings be
Which inspire your heavenly song?…


幸福だったクリスマスの朝、大好きな声が謳っていた旋律。

いちばん幸福だった7歳のクリスマス、その前夜クリスマスイヴは「出産」だった。
前夜の雪に凍った急斜面に立つ一軒家、そこで破水した妊婦を安静に動かす方法は限られてしまう。
それなのに警察も消防も要人警護と悪天候で多発した救助要請で動けず、対応できる医師も捕まらなかった。
この状況を他用で赴いた奥多摩交番で雅樹は聴かされ、すぐ自分が行くと即断に微笑んだ。

―…わかりました、場所を教えてください。僕が行きます、

あのとき雅樹は医学部4回生で、医師免許の取得前だった。
けれど救命救急士の資格を持ち、山でも病院でも現場の手伝いをして既に経験を積んでいた。
そして分娩の立会も15歳の春、雲取山頂で母が光一を産んだ時に吉村医師の助手を務めた経験がある。
そんな雅樹の他には誰も援けることが出来ない状況で、雅樹は光一にも不安を見せることなく無事に母子を護りきった。

その翌朝、ゆっくり寝坊する微睡みに雅樹の歌声は優しかった。
雅樹を援けて生命の誕生に立ち会えた、その充足感に迎えたクリスマスの朝は幸福だった。
そしてクリスマスのプレゼントだと贈られた『Christmas Carol』の絵本に、雅樹の歌は綴られていた。
あの前の晩から一緒に見つめて微笑んだ温もりと香は優しく幸せだった、その想いが今も歌えば紡がれる。
あの朝と同じに英語で歌い終え、またピアノは同じ旋律をリフレインして唇は雅樹の四駆で聴いたCDを謳いだした。


Les anges dans nos campagnes
Ont entonne l’hymne des cieux,
Et l’echo de nos montagnes
Redit ce chant melodieux :
Gloria in excelsis Deo …

…pour qui cette fete ?
Quel est l’objet de tous ces chants ?
Quel vainqueur, quelle conquete
Mérite ces cris triomphants :
Gloria in excelsis Deo …

Ils annoncent la naissance…
Et pleins de reconnaissance
Chantent en ce jour solennel…

Cherchons tous l’heureux village
Qui l’a vu naitre sous ses toits
Offrons-lui le tendre hommage
Et de nos cœurs et de nos voix


フランス語の歌詞に、あのクリスマスイヴの幸福が心を温める。
この歌と同じ光景をあの日、自分は雅樹の姿に見つめて夢の扉をノックした。
まだ7歳だった雪ふる夜、生まれた命を抱く雅樹の白衣姿と微笑が今、より深い記憶を呼び覚ます。
あの7歳のクリスマスイヴに自分が見た生命の誕生、あの風景はきっと24年前の雲取山と同じ瞬間だった。

 光一を抱っこして産湯をしたのは僕だ、
 あのとき山と命の関係と、自分が医者になる意味を僕は知ったんだ。だから僕は光一を信じるんだよ?
 山はね、人間に命を与える場所でもある。そう想えたんだ、生まれた光一を抱っこして体温を感じた瞬間、自然とそう想って涙が出たよ
 山は人間を生かす力もある、だから山に登る人って元気なんだなって気がついたんだ…心から山を愛しているって想っていたんだ
 僕にとって山と医者の夢を明るく照らしてくれた光が、光一なんだ。いちばん大切でいちばん信じている、だから待っているよ?

 光一が最高のクライマーになることを僕は知っている、
 最高峰の夢を一緒に叶えてくれることを信じている、光一は僕の希望と夢の光だから
 生まれたのが日中南時の瞬間で太陽が一番高い時だったのと、僕には一番大切な光だって想ったから光一なんだ
 生まれた国の首都の最高峰で、生まれた国の最高峰の山を見て生まれた、最高峰の男だから光一。そういう意味で君の名前を付けたよ

―雅樹さん、俺が生まれた時のこと幸福だって言ってくれたね?…いちばんの宝物が俺だって、だから護るって、

懐かしく慕わしい日々に、雅樹が微笑んで告げてくれた想いの記憶たち。
あの優しい穏やかな声と言葉の祈りこそが、自分に贈られた永遠の祝福だろう?
そう気づいていく心が目を覚ます、いま沈みかけていた昏い願いから脱け出した向うが明るい。
きっと知らず自分は雅樹に護られ今日まで生きて、そして昨夜の瞬間を与えられて今、ここでピアノを弾いている。
いま窓辺には雅樹との「約束」夢の場所が標高3,970mに佇み、夜空の星に山頂あわく輝かす。

―あの場所に俺は、英二と雅樹さんと登ったんだ。それは本当だね、雅樹さん?

心が笑って、クリスマスキャロルの歌が終わる。
そして指と鍵盤は、この10ヶ月を過ごした旋律たちを奏でて謳いだす。
いつも青梅署から御岳駐在所へ向かう四駆、カーステレオで聴いた歌を今、約束の麓で歌う。
いつも自主訓練に行く車内に二人、笑いあえた声の狭間を彩った旋律がピアノに蘇えっては夜を響かす。
この10ヶ月を共に過ごした俤と、声と、そして温もりの記憶たちが幾つもの曲と言葉に紡がれ、いちばん想い深い歌に辿り着く。

……

季節は色を変えて 幾度めぐろうとも
この季節は枯れない花のように揺らめいて 君を想う

奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い

夢なら夢のままでかまわない 
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは真実だから…

……

この歌のよう自分と雅樹の約束も、枯れることのない永遠の花。
この花を輝かせ続けるために自分は生かされて、夢叶えるための力も贈られている。
その夢も力も雅樹が最初に育んでくれた、誕生に立ち会いこの世の最初から愛してくれた。

それなのに自分は今、贈られた幸福と約束に目を塞いで、何をしようとしている?

「…ごめんね…っ、」

かすかな嗚咽と謝罪に、涙ひとつ頬を伝って微笑が生まれる。
涙の温もりに冷たい頬が温められて心、氷壁が大きく罅割れながら闇が消えていく。
その手元に光がゆっくり起き出していく、窓に聳える山影から目覚めの光芒が密やかに鍵盤を照らす。
今、約束の場所に暁を告げる太陽は遠く射し、薔薇色に輝きだすモルゲンロートのなか静かに、心が叫んだ。

―生きたい、

光に目覚めた願いに、そっと一陣の風が涙の頬ふれる。






【引用歌詞:L’Arc~en~Ciel『叙情詩』/Christmas Carol『Les Anges dans nos Campagnes』】

(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.20

2013-01-03 00:52:44 | side K2
「夜」 あの約束に繋いで、 



第58話 双壁side K2 act.20

愛し合いたい、そう告げた唇に心が泣きだす。

いま抱きしめる懐からダークブラウンの髪がゆっくり動き、白皙の貌が上げられる。
真直ぐ見上げてくる熱い高潔が涙を見透かすよう怖い、それでも心は泣いて微笑んで見つめ返す。
いま投げかけた言葉に怯えながら本音が微笑んでいる、その腰を抱き寄せられて英二の膝に抱き上げられた。
すぐ間近くなった白皙の貌は涙を払い、端正な切長い目が直情と静謐のままに光一の瞳を覗きこんだ。

「光一、ストレートに聴くけどセックスの経験って、どのくらいある?」

ほら、気付かれた?

いま訊かれた質問に、ずっと誤魔化してきた事実を気付かれたと悟らされる。
只の悪ふざけならセクシャルな絡みも楽しめた、それに周囲の誤解も利用して誤魔化してきた。
けれど今は「真実」に添って応えたい、そんな想い見つめながら光一は初心と過去への含羞に微笑んだ。

「うん…女との初体験はね、好奇心もあって遊びで済ませたよ。でもその女とは、キスはしていない、」
「なぜ?」

どうしてキスはしなかったのだろう?
そう訊いてくれる切長い目に錯覚が見せられ、雅樹が訊くよう想えてしまう。
それとも本当に英二を通し雅樹が訊いている?そんな想い微笑んで光一は正直に答えた。

「雅樹さんとのキスを大切にしたかったんだ。だからキスは、本当に恋した相手とだけしようって決めてた、」

本当に恋した相手とだけ。
この変わらない誇りが微笑んだ、その前から綺麗な低い声は尋ねた。

「周太とはキス、何回した?」

本当は周太とのキスを、怒っている?
そう感じて心かすかに強張り、けれど光一は素直な答えに微笑んだ。

「唇は一度だけだよ、あれが最初で最後だ。だからね、吉村先生の病院でおまえにキスしたのが、俺の3回目だよ、」

正確には「3人目」のキス、もし回数で答えるのなら自分にも解らない。
あの夏の一夜に幾度も重ねたキス、そして晩秋まで5ヶ月足らずの夜たちに唇だけで想い交した。
十八を迎える夜に再び体を交わす、この約束をキスに確かめる瞬間に永遠の幸福を信じて、尚更に想い募らせ心繋ぎあう。
その回数なんて解かる訳が無い、唯ひとつ体に赦したキスに一夜のリフレインを、深く強い想いのまま幾度も共鳴させた。
この秘密の真実から真直ぐに見つめた先、英二は最後の質問を投げかけた。

「光一はセックス、何回したことある?」

―言えない、16年前のことは絶対に

心が即答するまま秘密に微笑んで、真実を護るためなら嘘吐きにもなる。
だって自分はもう知っている。あの16年前の夜が「法」では何と言われるのか?
あれから年経るごと見つめた現実と、司法の警察官である立場に全てもう知っている。
あのとき8歳の自分と体を交わし抱きあうことは、23歳の雅樹にとって違法行為だった。

―16年前の夜、俺は法の罪に雅樹さんを堕としたんだ、

法律では13歳未満の男女と性交渉を持てば合意でも、刑法176条の強制わいせつ罪に該当してしまう。
そして青少年保護育成条例で18歳未満との性交渉も「淫行」わいせつ行為とされ、逮捕の対象ともなりえる。
それを雅樹は解かっていた、それでも光一の我儘も想いも全て受けとめ微笑んで、あの幸福な一夜を贈ってくれた。

―…あのね、18歳にならない人とセックスすることは、条例で禁止されてるんだ。だから僕、今の光一とセックスすると犯罪者になるんだよ?
  それを解かって約束してほしい、今夜の次は10年後まで待つことを僕に約束してほしいんだ。それまで僕は他の誰とも絶対にしないから

あの夜、雅樹は光一を子ども扱いせずに事実を教え、約束してくれた。
あの美しい微笑と眼差しは時重ねるごと鮮やかで、今の自分にこそ雅樹の想いが解かる。
あの夜の自分は何も知らずに雅樹を望んだ、けれど雅樹は罪も罰も全てを知りながら光一を選んで、笑ってくれた。

―あの夜、だから雅樹さんは泣いたんだ。幸せの涙と罪の涙を一緒に流して、それでも笑ってくれたね…

あの夜、雅樹は涙をひとつだけ流した。

ふたり共に初めてだった一度目のセックスが終わった時、無垢な切長の目から涙ひとつランプに輝いた。
お互いの体を心から愛し合えた、その幸せに蕩かされたまま見つめた透明まばゆい微笑に涙はただ伝う。
明るくて清らかで、綺麗な静かな微笑が自分を見つめて幸せにしてくれながら、伝う涙が綺麗で見惚れた。
屋根裏部屋のベッドの上、白いシーツの波に埋もれながら素肌を抱きしめて、秘密を聴くよう自分は尋ねた。

「…どうして泣くの?」
「幸せだから泣くんだよ、光一が大切だから…大好きだよ?」

そう静かに応えてくれた深い声は透けるよう明るくて優しくて、綺麗な笑顔は幸せほころんで眩しい。
綺麗で、愛しくて恋しくて、涙キスで拭った唇に潮はほろ苦くあまくて、そのまま唇ふれて深いキスを交わした。
そうしてまた抱きしめあって、次の逢瀬までの約束を体ごと深く結び繋ぎあい、ふたり体温と感覚の交わす幸せに溺れこんだ。
あの夜の真実と幸福は今も輝いて自分を温める、この大切な記憶に何者も踏み込ませるわけにいかない。

―絶対に言えないね、大切ですこしも壊したくないから言いたくない…だからごめんね、英二、

だから今、嘘と真実を告げなくてはいけない。この現実に大切な一夜の記憶へと紅潮が熱くなる。
あの夜の幸福たちを見つめ真実の秘密に微笑んで、静かに光一は答えた。

「一度だけだよ、初体験で一回して、そのあとご無沙汰しちゃってるね、」

心から愛しあい抱きあえた、あの夜が真実で一度だけ。
誰より想う人との初体験の夜、あれから自分は一度も本当のセックスなどしていない。
この真実に微笑んだ貌を切長い目が見つめ、確認するよう重ねて問いかけた。

「その割には光一、キスが巧いよな?1月のとき強姦のフリで触られた時も巧かったしさ、経験豊富に思えるけど?」

キスが巧いのは、キスだけは幾度も交わしていたから。
この秘密を微笑んで隠して、困りながら嘘と真実に答えた。

「でも本当に俺、一回しか現場の経験は無いんだよね、」

本当に一夜だけ、けれど一夜に幾度も体を交わした。
その全てを話すことなど出来はしないのに?困りながら尋問者を見つめて光一は言った。

「高校の時は山と畑と射撃部でさ、そのあとは山と畑と警察だ。ずっと忙しいから暇も無いしね、何より、ヤるなら好きな人がいい。
周りは俺を遊び人って思ってるけどね、しょっちゅう山でビバークして朝帰りしてたのと、寄合でエロオヤジになった所為なんだよね、」

これは全てが事実、下ネタで笑いあっても肌は赦さなかった。
そして山桜の森でビバークしては待ち続けていた、ドリアードが雅樹を帰してくれると信じ縋っていた。
そんな叶わぬ夢に縋らねば生きられない自分の弱さが哀しく可笑しい、すこし微笑んだ光一に英二は単純な質問を訊いてくれた。

「よりあい、って何?」
「町の人で話し合う集会みたいなのだね、月一くらいで田舎だとあるんだよ。俺のとこは町のと青年団のとある、」

こんな言葉を知らない英二に、都会育ちなのだと相違を見つける。
こんな相違がなんだか嬉しくて、少し笑って光一は事実を教えた。

「でさ、オヤジが亡くなった時から俺は、青年団のに出てるんだよ。町のにも祖父さんの代わりに出る時もあるから、月二回とかある。
で、話し合いが終わると宴会なんだけどね、酒が入ればオッサンたち、話題はエロが豊富になっちゃうだろ?それで俺は耳年増になったね、」

元から父の蔵書から幾らか知っていた、それが父の逝去から余計なほど知識豊富になっている。
こんな生立ちの一部分に英二は理解に笑って、嬉しそうに言ってくれた。

「良かったよ、光一が経験豊富じゃなくってさ。エロオヤジでも初心な光一が好きだよ?」
「なに、経験豊富ならダメだったワケ?」

ほんとうは一夜でも経験は積んだ、そう自分では思っている。
交わしあった愛撫の記憶に紅潮が昇る、こんなふう16年前の幸せに今も羞んでしまう。
それほど幸せが面映ゆかった夜の記憶たち、あの幸せに笑った隣から綺麗な笑顔が言った。

「俺は嫉妬深いからさ、光一の相手を全員嫉妬するよ?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって思うけど、」

雅樹なら仕方ない、そう思ってくれるなら嘘も救われる。
けれど嫉妬深いからと宣言する身勝手に少し瞳が大きくなって、本音のままを笑いかけた。

「ソンナに俺を独占したいって、想ってくれるんならね?ちゃんと大切にしてよ、俺、ほんと初心みたいで…されるのは勇気がいる、」

本当に「される」ことは勇気がいる、16年前とは違うと緊張が痛い。
率直な言葉と真直ぐ見つめた想いの真中、切れ長い目が微笑んでくれる。
その貌が綺麗で、どこか懐かしい俤を探しながら光一はそっと唇を披いた。

「おまえが負荷試験受けに新宿行った次の日、俺も新宿に行ったんだ。周太に異動のコト話してきた、」

あの日は英二の週休と光一の通常勤務を交換している。
あのとき周太に逢いに行ったことは初めて話す、そう目でも応えながら静かに話した。

「8月に異動したら英二とは上司と部下の関係になる、その前に抱かれたいって言った。秘密にするべきなのにね、狡いけど泣きついてきた。
秘密を背負わせるの嫌だって思ったけど、隠してバレるより先に聴きたかった、許してくれるのか。あのひとは俺にとって『山』と同じだから、ね」

山の粋である樹霊と同じで「雅樹」へ辿りつける鍵、それが自分にとっての周太。
樹霊にも雅樹を生き帰らせる事は不可能と解っている、それでも変わらず周太を大切に想う。
だからこそ、ただ正直に周太の許を尋ねて話せる限りは伝えたかった。そんな信頼に英二は笑いかけてくれた。

「周太、一緒に秘密を背負う方が良いって、許すって言ったろ?」
「うん、喜んでくれた。幸せだよって、」

微笑んで小さな溜息こぼれ、光一は頷いた。
そして英二の瞳を真直ぐ見つめて、周太に贈られた励ましを言葉に変えた。

「本当に大好きな人と愛し合うのは、幸せだよ。だから光一も英二と愛し合って、幸せになってほしい。そう言ってくれた。
英二には何も言わなくて良いっても言われたよ、だけど俺、いま言ってるね。おまえにも隠したくなくて…ごめんね、俺は我儘なんだ、」

話せるなら隠したくない、正直なまま全てで抱きあいたい、あの夜には敵わなくても。

あの16年前の夜、雅樹と全て赦しあい抱きあえた幸福が、英二との間に蘇えるとは想わない。
だって英二には周太がいる、そして自分は雅樹の心と記憶を抱いたまま生きると決めている。
お互い他に「最愛」を想い大切にしながら今、ふたり抱きあうことを選ぼうとして見つめ合う。
こんなふう互いに一番でも初めてでも無い、そんな逢瀬が初めてで一番だった夜に優るだろうか?

―英二にとっても俺にとっても今夜は二番目だ、お互いも周りも傷つくかもしれない…それでも選びたい、ね

英二も自分も「今夜」の意味を解かっている、互いに一番に成れないと知りながらも見つめ合いたい。
この一夜が自分たちをどう変えていく?そんな不安を抱きながら、自分勝手でも幸福な夢を望んでしまう。
これからアンザイレンパートナーとして共に生きていくと、約束の頂で繋ぎあい離れる1ヶ月の杖にしたい。
そんな願い正直なままに秘密への誇りと見つめている、そんな想いの真中で英二は綺麗に微笑んだ。

「言ってくれて嬉しいよ、ありがとう、」

ありがとう、そう告げた唇ふれてキスになっていく。
その唇にほろ苦くあまい香が熱くて、誰が相手なのか明確に解からせてくれる。
そっと離れた唇の残像に緊張が座りこんで、その緊張が気恥ずかしいまま光一は笑った。

「周太、今日は土曜で大学の公開講座だよね?下山したときメールしてたけどさ、返事って来た?」
「昼飯の前にメールくれたよ、光一が風呂入ってるとき、」

すぐ答えてくれながら、そっと抱きしめてくれる腕が温かい。
座りこんだ膝の温みと懐の熱に鼓動が響きだす、そんな感覚のなか綺麗な低い声が微笑んだ。

「おめでとうと、ご飯ちゃんと食べてねって心配してくれてた。あと大学の友達と先生と、美代さんと呑みに行くって書いてあったよ、」
「その友達、手塚ってヤツじゃない?美代が言ってたよ、長野の木曽で林業やってる家の子で、真面目だけど明るい良いヤツってさ、」

周太には友達が出来た、その友達は周太が本当に好きな世界で出会っている。
きっと周太にも美代にも良い方向へ向かうだろう、そんな予兆を嬉しく想いながら光一は言葉を続けた。

「メアドとか周太とも交換してたって言うし、今日の講義でノート借りるって言ってたんだよね。そいつと先生と4人で呑んでるんじゃない?」
「うん、手塚くんだって書いてあった。学部の3年生で青木先生のゼミ生らしい、でも周太と美代さんを年下って思ってるかもな?」
「だね、美代もソレ言ってたよ。高卒で社会人2年目って勘違いされてるっぽいって笑ってた、ふたりとも童顔だしね、」

他愛ない会話が愉しい、けれど緊張が深くから羞んでいく。
ずっと今夜を覚悟して考えてきた、それでも初心な心に体もすこし強張ってしまう。
こんな自分こそ16年前と違い過ぎて途惑う、そんな想いへと英二が笑かけて言った。

「光一、もし周太に俺とセックスするの嫌だって言われたら、どうするつもりだった?」
「うん…諦めるつもりだったね、あのときは、」

正直に告げて、英二の目を視線に結ぶ。
ただ見つめ合ったまま覚悟を心に据わらせて、ただ想いを言葉に伝えた。

「だけど今日、頂上雪田で英二が風に攫われかけたとき。本当に怖かった、失うのが怖くて嫌で、一瞬で冷静になってザイルを操ってた。
それで英二の顔みた瞬間、気付いたんだ。諦める事なんて本当は出来ないって…周太に嫌だって言われても、もう諦められない。だから、」

だから、その続きに緊張ごと熱が詰まって声が出ない。
その熱が瞳の奥へ昇らせ頬へと零れていく、それでも決めた覚悟のまま光一は綺麗に笑った。

「夕飯のミーティングでさ、俺のこと明日は一日じゅう抱え込むしかない、って言ったよね?そうしてよ、今から…明日は休みだし、ね」

さっき聞いた言葉をなぞり、伝えたい想いに笑いかける。
これだけで解かるだろう?そう見つめるまま抱き寄せられて、キスをくれた唇は微笑んだ。

「今夜は最後までしないよ、光一。初めて受身をするとき負担が大きいから、体を馴らさないとダメなんだ。それに準備もしてないだろ?
周太との初めての時、俺は準備も無いのに無理して周太を傷つけたんだ。あんな想いは光一にまでさせられない、もう後悔したくないんだ」

穏やかな微笑、気遣ってくれる言葉、その全てに16年前の残像を探してしまう。
そしてあの夜と同じ想い押されるまま、そっと英二の膝から降りるとクロゼットへと歩み寄る。
その扉を開きトランクの蓋を開く、そして紙袋から取り出したボトルを掴むと、想い切るようポンと英二へ投げ渡した。

「これ、どうして?光一、」
「逢いに行ったときにね、周太が教えてくれたんだよ、薬局に連れて行ってくれて。これも、ね」

まだ残ってしまう困惑と答えながら、ベッドのサイドテーブルに箱を置く。
ことん、と鳴って置かれた箱を切長い目が見つめて、英二は椅子から立ち上がった。
デスクの前で止まり、首に提げた革紐を手繰り合鍵を外す。そして左手首からクライマーウォッチを外した。
そのまま光一の隣に行き箱の隣にボトルを置く、そして同じ高さの目線から綺麗な笑顔ほころんだ。

「こんなふうに気を遣って周太、本当に光一を大切にしてるんだな?光一が幸せになるようにって、本気で想ってるよ、」

本当に大切にされていると素直に想いながら、自責が心を裂いていく。
この傷みを知りながら自分は英二に抱かれてしまう、あのひとの優しさに甘えてみたいと願っている。
いま周太への想いと雅樹への想い、ふたつながら瞳で涙に変って頬を伝い言葉とこぼれた。

「うん、だね?…俺って幸せだよね、あのひとにこんなにされて俺、ね…」
「幸せだよ、光一は、」

笑いかけてキスしてくれる、その唇のはざま涙はほろ苦く甘く、温かい。
やわらかい熱に深い森の香がふれる、唇をなぞる馴れた愛撫が切なくても愛おしい。
そして北壁の上に見た冷厳と壮麗「山」が見せた素顔に、この相手との逢瀬を願ってしまう。
もう今の次など解からない、そして今を逃せば後悔すると16年前の子供が泣いている、そして離れたキスに運命が微笑んだ。

「おいで、光一、」

名前を呼んで抱き上げられる、頼もしい腕に子供のよう包まれて運ばれていく。
こんなふうに昔も抱かれて支度をしてもらい、夜の幸せを初めてこの身に知った。
あのときと違う香と眼差しが自分を見つめて、微笑んで未知の夜へと自分を連れていく。

―英二なんだ、この腕は英二の腕、この香も…俺を抱くのは、英二だね、

幾度も心に言い聞かせ、記憶と現実に別離をさせる。
これから過ごす夜の時には「英二」を見つめたい、唯ひとり同士になって抱かれていたい。
そう願うままに幾度も心は名前を繰り返す、それでも生まれた瞬間に見つめた俤も声も鮮やかに愛おしい。

―雅樹さん、

ほら、やっぱり心が名前を呼んだ。
やっぱり心から消えるなんて無い、ずっと想って泣いてしまう。
生まれた瞬間を抱きあげ世界に迎えてくれた、共に笑い夢を見つめ、恋愛の痛みすら贈ってくれた人。
自分に全てを与えた幸福の俤、これから英二と交わす逢瀬の瞬間に幾度と自分は消えた幸福を追うのだろう?

―そんなの苦しいに決まってるのにさ?馬鹿だね、俺は。でも心に嘘は吐けないからそれで良いね、

英二との瞬間に雅樹を想い、ふたつの想いに心は裂かれるだろう。
英二と分かつ幸福の感覚に、16年前の約束は目を覚まして6年前に叶う筈だった残像を見る?
こんなにも諦めきれない自分はきっと、永遠の約束に囚われたまま生きることが幸福なのだろう。

―これで良いね、痛くて苦しくても構わないね?きっとこれが俺の贖罪なんだから、

これは贖罪、16年前に天使を誘惑した自分の罪科。
誰よりも無垢で誇らかな男を、夢と恋愛に繋いで罪を犯させた。
誰よりも美しい男の生涯を一夜、子供の身を顧みない自分が誘惑に泣かせてしまった。
それは司法の罪と言われるだろう、けれど自分の罪科は法律など関係ない、ただ「泣かせた」ことに罪を負っている。

―雅樹さん、誰に抱かれても雅樹さんだけだよ?俺と全てを赦しあえたのは、唯ひとりだ…ずっと愛してる、

心の本音に涙ひとつ零れて、けれど「今」を止めたくない。
この今を抱き上げてくれる男との想いも真実で、この温もりに今この場所で縋りたい。
それは周囲にも秘密とされる、周太も傷つける、それでも英二が唯ひとり願ってくれるのなら応えたい。
お互いに英二とは全てを赦し合うなど出来ない、そう解っているから繋がれるものだけでも赦しあってみたい。

―英二に抱かれたら俺は、何が変るんだろうね?

変るのだろうか、自分は?
そんな問いかけに運ばれていく鼓動は、心叩いて速くなっていく。
そして開かれるバスルームの扉へと、16年前の夏が北壁の夏に繋がり紡がれる。






(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.19

2013-01-02 22:33:38 | side K2
「時」今この場所で、君へ 



第58話 双壁side K2 act.19

夏7月のスイスは、ゆっくり黄昏が訪れる。

夕食を終えた20時、窓からの空はまだ青くて、けれど星空の気配は中天に佇みだす。
この明るい夜空も明日が見納めになる、もう明後日の夜には帰国の飛行機に自分たちはいるだろう。
そして母国に着いた翌日には故郷の山を離れ異動して、その1ヶ月後にはパートナーの上官になっている。

―もう今夜しかないね、英二と対等なまんまでいるのは…でも、抱かれたいのか解らない、ね?

ずっと今夜に懸けていた、けれど迎えた今夜に途惑う。
二つの北壁に懸けたこの数日間、ずっと雅樹の記憶を辿っていた自分がいる。
そんな本音へと迷いが泣きだす、あの夏に愛された肌の記憶が「今」を拒絶して痛い。

―雅樹さん、教えてよ?本当にこのまま英二に抱かれていいの?俺が他の男に抱かれても、良いのかな、

16年前の夏、ふたり見つめて抱きあえた時間が愛おしい。
あの夏から秋は幸せだった、5ヶ月にも満たない瞬間たちは永遠の時になっている。
あの温もりを蘇らせたくてずっと探していた、全てを愛し合える存在に再び逢いたかった。
けれど叶わぬ願いだと諦めて、そんな諦観に雅樹への想いを護り生きてきた、この16年間への愛惜が痛い。

―雅樹さんに逢いたい、今、ここで逢いたいよ?

こんな叶わぬ願い微笑んで、並んで窓見る横顔に振り返る。
その端正な頬が赤く微かに腫れていて、そっと指で小突きながら笑いかけた。

「おまえ、やっぱりちょっと頬、赤いね?大丈夫?」

笑いかけた先、白皙の貌が振向いて笑ってくれる。
いつもの穏やかで綺麗な笑顔、その面影が今も愛してしまう人と似て鼓動が傷む。
けれど記憶の声とは違う声が笑って、登山ザックを開きながら答えてくれた。

「風呂出てからも薬、塗ったんだけど。また塗った方が良いかな、」

ザックから救命救急ケースを出し、長い指がファスナーを開く。
納められている消炎剤を取出すしなやかな指先、そこにある器具カバーたちに息止められる。
救命救急に使うシュリンジや聴診器、ピンセットにハサミ、人工呼吸器、こうした金属製の器具たち。
そのカバーで2組あるものは、片方の中には救命器具など入っていない。

『WALTHER P38』

そう呼ばれる拳銃が分解されて入っている。
いつも命の救済に駈けた雅樹の医療セットと同じケース、それなのに殺人道具が隠されている。
この拳銃を英二が隠し持つのは止むを得ないことだ、そう解って納得している筈なのに心が泣きだしていく。
雅樹と似た面差しが違う貌で佇み、真逆の目的に人命救助の用具を使う。そんな現実は仕方ないと解っているのに心が頷けない。

―こんなにも雅樹さんのこと、ちょっとも壊されたくないんだね、俺ってさ?…だから抱かれることも逃げたい、ね…

英二を好きだ、本当に大好きで大切で、絶対に失いたくない。
この本音を今日もアイガーに教えられた、あの頂上雪田に英二が滑落しかけた瞬間に本音は叫んだ。
それでも今こうして英二の救急ケースを見て傷ついてしまう、どうしても雅樹への冒涜のよう感じて本当は嫌だ。
そんな反発が体と心の覚悟を崩しだす、もう英二との夜を諦めだしていく、そんな向うから綺麗な低い声は穏やかに微笑んだ。

「今日登ったルートの『ヘックマイアー』って初登頂したドイツの人だけど、これが造られた頃の人なんだよな、」

WALTHER P38、このドイツ製拳銃を背負って英二は今日も登攀した。
それがアイガーの風を起こさせたのだろうか?そんな想い微笑んで光一は少し笑った。

「ソレ、普通なら空港で通れなかったろね?警察のレスキューって肩書と、お墨付きのお蔭だな」
「うん、」

頷いて英二はケースのポケットからカードを取出した。
吉村医師の直筆サインが記された医療行為者である証明のカード、それを見つめた切長い目が傷みに微笑んだ。

「レスキューが主務の警察官で警察医の助手。そういう俺を信用して先生、救命具を肌身離さず持てるようにって書いてくれたんだ。
それを利用して俺は、これを持ち歩くために利用している。本当のことを先生が知ったら、俺のこと呆れても仕方ないよな。雅樹さんも、」

自分が抱いている反発を、英二は理解している?
そう気づかされて心を鼓動が引っ叩く、そして英二の哀しみが真直ぐ撃つ。
本当は誰よりも英二自身が傷ついている、肚の底から自身を責めている、そして雅樹に深く懺悔を抱いている。

―英二も雅樹さんのこと大切に想ってくれる、吉村先生のこともちゃんと、

解かってくれている、それが嬉しくて凍った反発が緩まらす。
やっぱり英二にだけは解っていてほしい、本当は英二のことを少しも諦めたくない。
どうか「仕方ない」なんて言い訳を自分にさせないで?この願い見つめた前で英二は自嘲に微笑んだ。

「これって量産式だからタフなんだろ?量産タイプが酷寒地で使えるなんて、ありふれた上っ面の家庭に育って雪山好きの俺みたいだ、」

『上っ面』

この言葉に英二の生立ちが、行き場のない悲痛に泣いている。
英二の実家は物質的には恵まれた家庭だろう、けれど両親たちに夫婦愛が薄いと節々に感じる。
そして家庭の中心になるはずの「母」から子へ向ける無償の愛は、英二にとっては皆無なのだと孤独が傷む。
こんな現実を告げた白皙の笑顔は哀しくて、こんな貌をさせたくない想いのまま光一は医療ケースから消炎剤を取った。

「そこ座んな、手当してやる、」

頬の傷だけじゃなく心も癒せたら良い、そう願い微笑んで椅子を指さす。
椅子を切長い目は見遣りながら深い溜息を吐き、それでも座ってくれると英二は謝ってくれた。

「ごめん、変なこと言って。アイガーも終わって気が緩んでるな、俺、」
「謝るな。俺に気を遣うんじゃない、」

自分にだけは気を遣わないでほしい、アンザイレンパートナーで『血の契』なら。
そう心が微笑んで温められて、反発がゆっくり氷解して大らかな愛情が息を吹き返す。
この温もり微笑んで英二の頬に軟膏を塗布する、その指先に願いを載せた。

―少しでも早く癒えてほしいね、この傷も、心のことも 

そんな願いごと手当てを終えて、片づけ手を洗うと英二の前に座った。
この2週間ほど気になっていることに「傷」のヒントがある、その考えに光一は尋ねた。

「おまえ、この間は川崎の家でも溜息が多かったね?それと同じ溜息を今もしてたよ、本当は吐き出したいコトあるんだろ?」

本庁での山岳講習を行った間、川崎の湯原家に泊まり英二と留守番をしている。
あの機会を利用して件の拳銃を掘りだしたけれど、川崎に居る間は特に溜息が多かった。
そんな様子に尋ねても英二は話すことを拒んだ、あの沈黙に今も佇む貌が苦しげで、楽にしてやりたくて光一は笑いかけた。

「おまえさ、実家に車ひき取りに行ってから葉山に周太と行ったろ?あれから帰った後、たまに張りつめた貌してるね。
だから俺はね、おまえが今回の北壁を集中できるか心配だったんだ。でも、ちゃんと集中しておまえは遣り遂げたよ。
だからもう、話したいコトここで吐いていい。おまえ言ったよね、俺はおまえの世界の全てで、俺はおまえと同じなんだって、」

マッターホルンを見上げる草原で英二が告げてくれた想い。
英二にとって光一は山への夢そのもので憧れで、光一が世界の全てと言ってくれた。
あのときも応えた言葉と想いのままに、再びパートナーを見つめて光一は微笑んだ。

「俺に話すことはね、英二の独り言と同じだろ?だったら俺の前で愚痴っても泣いても、ノーカウントだね。だから遠慮は要らない。
もうマッターホルンもアイガーも終わったね、緊張も緩ませて大丈夫だ。今、日本からも遠くで俺とだけ向きあってる、誰にも知られない。
想ってること何でも好きに言えばいい、泣いていい、英二が溜め込んでること言って良いんだ。ちゃんと俺が受けとめるから、吐いちまいな?」

ゆるやかに傾きだす太陽に、見つめる白皙の貌が朱にそまる。
哀嘆、愛憎、困惑、そんな行き場のない感情が切長い目に映されていく。
こんな表情に雅樹との違いを納得して、それが潔癖な諦めと新しい感情に変りだす。

―雅樹さんは穏やかでも迷いが無かったね、いつも肚が据わっていて。でも英二は激しくて迷いも一杯ある…俺にしか援けられない、ね?

そっと心へ降る納得が、ふたりへの感情を二分する。
そして気づかされる、英二にとっての自分がどういう存在なのか?自分は英二に何が出来るのか?
そんな自覚が瞳を披きだすのを見つめる前、ため息と一緒に英二は微笑んで口開いた。

「俺の父さんは恋してる、周太のお母さんに…俺の母さんのことはもう想ってくれない」

告げた言葉に涙ひとすじ、英二の頬にきらめいた。
いまアイガーに輝くアルペングリューエンが、静かな白皙の涙に光る。
ゆっくり薄闇と朱金の光へ沈みだす部屋、太陽の光芒に佇んだ泣顔を見つめて光一は問いかけた。

「おやじさんが周太のおふくろさんを、か。会ったのは3月の時だけだろ?」
「ああ、川崎に姉ちゃんと挨拶に来てくれた、あのときだけだ、」

春3月、雪崩に受傷した英二は静養のため川崎へ帰っている。
あのとき英二の父は初めて周太と母親の美幸に会い、英二たちの婚約を承諾している。
あの日に恋愛の瞬間があった現実へ、端正に哀しい笑顔は噤んできた口を開いた。

「3月の時、父さんはお母さんに言ったんだ。素敵な人だ、あなたも家も周太くんも心から居心地が良い、同じ男として息子が羨ましい。
居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです。そう言ってくれて、あのときは俺、単純に嬉しかった、」

英二の父が言う通り、周太に纏わる全ては居心地がいい。
穏やかな優しい静謐は相手を寛がせ、底明るい強靭のゆるぎない受容に癒される。こうした気配は周太の母親も似ていた。
だから英二が告げる「父の恋」は当然の因果かもしれない、そう納得と見つめた先で綺麗な低い声は静かに告げた。

「でも、このあいだ久しぶりに実家に寄ったとき、別れ際に父さんは言ったんだ…俺がお母さんに花を贈るって話した時、言われたんだよ、
あの方を大切にしているんだな、おまえも。そう父さんは言ったんだよ、おまえ『も』、って…あんな優しい貌の父さん、初めて見たんだ、」

静かに告げる白皙の頬を、微笑と涙が過ぎっていく。
あの「竜の爪痕」も涙に濡らしながら英二は、溜めていた言葉を声に変えた。

「俺にも、姉ちゃんにも、あんな貌はしたことない。いつも父さんは優しいけれど、いつも微笑んでるけど、でもそういう笑顔じゃない。
周太が俺を見てくれる目と雰囲気が似てたんだ、恋してるって、憧れてるって、そういう目だったんだ…それで俺、すぐに解かったんだよ。
父さんは周太のお母さんに、美幸さんに恋してる。たった一度しか会っていなくても恋したんだ、俺が周太に一目惚れしたのと、同じだ」

笑った頬を涙は伝い、顎から膝へと落ちていく。
その涙に心が引っ叩かれる、いま目の前の哀しみが傷んで自分の心をも刺す。
見つめる涙と言葉に罅割れていく哀しみに、美しい微笑のまま英二は静かな声で続けた。

「俺と父さんは性格が似てる、だから父さんの考えは解かるんだ、父さんは決めたら何があっても変えない、一目惚れでも本気なんだよ。
たぶん父さん、初めてまともに恋したんだ…ずっと法律ばっかりの仕事人間で、遊びも本を読むしかない堅物で真面目だけど、本当は情熱的だ。
そういうとこ俺と似てるんだ、いっぺん本気になったら動かない、恋愛もくそ真面目になって想い通す…だからもう無理だ、上っ面だけだ、」

もう無理だ、上っ面だ。そんな言葉に英二の苦しみがもがく。
本気になったら動かない、想い通す、そんな言葉に自分の諦観と期待が泣きそうになる。
いま共鳴するよう英二と自分それぞれに傷を見つめていく、その前で英二は沈黙してきた想いを吐きだした。

「両親は見合い結婚でさ、それでも父さんが良いって言って結婚したんだ。でも心が通った事なんて無い、恋愛なんて欠片も無い。
そういう父さんが寂しくて母さん、俺を縛りつけたんだよ?俺さ、本当は京都大学に行きたかったんだ、でも母さんは俺が家から離れるの嫌で。
それで勝手に内部進学決めてさ…きっと、父さんに言えば受験出来たよ?でも母さんの無理強いがばれたら、余計に父さんの気持ち離れるだろ?
だから俺、黙ってその大学行ったんだよ、俺が我慢したら両親が仲良くなる可能性は残る、そう思ってさ…でも結局は無駄だった、俺は馬鹿だよ、」

どうして英二は、こんな選択を出来たのだろう?

どうして自由を犠牲に出来た?望む未来を壊してすら両親の幸福を望めた?
本来が誇り高い英二にとって無理強いの進路など屈辱だろう、怒り憎むだろう、それでも母親を赦そうとする。
こんなにも本当は優しくて、誰より母親を愛したいと願って、だからこそ尚更に英二は孤独に堕ち込んでいく。

―母親の愛情が与えられないのは、いちばん心を傷つけるって雅樹さんも言ってたね?…だから英二は冷たいトコロ出来ちゃったんだね、

いま話してくれる英二の過去に、英二の「冷酷」が生まれた由縁が解かる。
ずっと求めて癒えない孤独に悶える心、その涙を拭わず英二は綺麗に笑って、泣いた。

「俺の祖父母って仲良い夫婦でさ、そんなふうに両親にもなって欲しかったんだ、それで本当の我儘を自由に言わせて欲しかった。
でも、もう無理だ。父さんのことだから美幸さんへの恋は隠し続けるよ、でも止めない…だからもう、母さんには恋してくれないんだ。
母さんは確かに自分勝手で酷い、正直憎んでもいる、でも俺を生んだ母親は世界で1人なんだ、だから幸せになって欲しいけど、もう無理だ、」

もう願いは叶わない、ずっと想っていた愛情は望めない?
そんな絶望が白皙の微笑を涙に染めて、アイガー山頂の笑顔との落差に苦しくなる。
この窓に見上げる標高3,970mの栄光、あの頂点に輝ける誇らかな山ヤはそっと只人の涙に微笑んだ。

「父さんと母さんに恋愛してほしかった、それで俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって。
こんなの子供っぽいけどさ、俺はそういうの憧れてたんだ。だから周太のお母さん、美幸さんは俺の理想の母親なんだ。俺の夢の人だよ?
そういう人を父さんが好きになっても仕方ないって想う、だって俺と父さんは似てるから。もう両親が恋愛しないって、納得するしかない、」

―哀しすぎるね、雅樹さん…どうして英二みたいな天才が、こんな普通の願いも叶えられないのかな?

そっと密やかに問いかけ今、誰より敬愛する人に訊いてみたい。
たった10ヶ月で優秀なビレイヤーに育った英二は、紛れもなく天才だろう。
今回の北壁も不可能だと英二は言われた、けれど光一の信頼に応える実績を樹立してくれた。
英二なら不可能も可能に変えられる、そんな期待が今もう遠征訓練チームのメンバーには生まれだす。

―おまえって本当にすごい男なんだよ?きっと自分自身がいちばん解かっていないね、おまえは本音のトコで自信が無いんだ、

この自信の無さはどこに起因するのか?
それが過去の告白から解かって、その原因が「親」英二の全てを生んだ根源であることに納得する。

『俺は想いたかったんだ、両親の愛情の結晶として自分は必要とされてるって』

自分をこの世に送り出した存在に愛され得ない、必要とされない。
そんな想いはきっと苦しい、自分という存在を根源から否定される哀しみは深い傷だろう。
こんなことを英二のような男は誰にも言えるわけがない、それでも本当なら周太に受けとめて欲しいに決まっている。
けれど英二が誇り高い男であればこそ最も周太に言える訳が無い、この想い全てを英二は光一に願ってくれた。

「光一、このこと誰にも言わないでくれ、周太にも言わないでほしい、絶対に…きっと周太、また自分を責めて俺と逢ったことも哀しむ、」
「言うわけないね、」

短く答えて、静かに切長の瞳へと笑いかけながら手を伸ばす。
泣いている頬に掌ふれて、そっと撫でながら涙を拭い冷たい肌を温める。
その掌くるむよう英二の掌が重なり、綺麗な笑顔がすこし寛ぐよう笑ってくれた。

「ずっと俺は想ってたんだ、誰かに必要とされたい、愛されたいって。無理しないでも、ありのままの俺を必要とされて、愛されたかった。
だから夜遊びに嵌ったんだ、セックスすると愛されてるって錯覚出来るだろ?錯覚でも嘘でも良い、一瞬でも愛されてるって想いたかった。
でもそういうの虚しくて、するだけ苦しくて余計に母親を恨むようになった。そういうの全部、周太と美幸さんが受けとめてくれたんだ。
ただ隣に居てくれるだけで楽になる、言葉が無くても解かってくれる、このまんま俺を受容れてくれる、それが嬉しくて恋したよ。だから、」

だから、そう言いかけて切長い目から涙ひとつ零れだす。
重ねたふたつの掌に涙をからめながら、美しい微笑は泣いた。

「俺を救ってくれたのが周太と、美幸さんなんだ。ふたりは俺にとって救いで、天使みたいだよ?そういう2人を馨さんから俺、預ってる。
なのに俺の父さんが美幸さんのこと、恋してさ?そういうの馨さんに悪いだろ?美幸さんと馨さんの恋愛を邪魔するみたいで、嫌なんだよ、」

ずっと孤独に抱えこんできた英二の涙、その哀しい深い愛情と苦悩がまばゆい。
どこまでも真直ぐに激しい本質は透明な炎と似て、情熱あざやかな高潔が光一を見つめる。
この高潔ゆえに英二は実父の抑制された恋すら赦せない、そんな苦しみを解きたくて光一は明るく笑った。

「湯原のおやじさんからしたら、光栄なんじゃない?」

どういう意味だろう?そんなふう切長い目はひとつ瞬いた。
意外そうに見つめてくれる眼差しへ、大らかな心起こすよう光一は朗らかに笑った。

「自分の恋人が今もモテるくらい魅力的ってコトは、嬉しいよね?おやじさん達ってハトコ同士だし、好みが被るのもあるんじゃない?」

英二の父と周太の父は母親同士が従姉妹だから、はとこの血縁関係がある。
面差しだけではなく性格や嗜好も似ていて当然だ、こんな事実に笑いかけた光一に英二は問いかけてきた。

「そうかもしれない、でも考えるんだよ。俺と周太が籍を入れたら、父さんと美幸さんは親戚になる。そうしたら会う機会も増えるだろ?
会えば気持って強くなるだろ、そうしたら母さんも美幸さんも傷つくことになる。きっと周太が一番に傷つくよ、それが怖くて…解からなくなる」

英二が周太との幸せを願うこと、それが周囲ごと恋人まで傷つける。
この可能性を否定することなんて出来ない、けれど英二が迷い傷ついた所で何が変ると言うのだろう?
どんなに英二が迷おうと関係ない、恋愛の意味と結末を決めるのは本人同士にしか出来ないのだから。

―結局のところ恋愛なんてね、なにが幸せか本人同士にしかわからないよ?俺が良い例だよね、

そんな想いこみあげ笑ってしまう、この自分こそ周囲を傷つける恋愛をしているだろう。
あの16年前の一夜こそ全てを「傷つける」恋愛だった、雅樹を処罰に堕とす可能性すらあった。
けれど自分と雅樹には最も幸福な一夜だ、この真実が誇らかに笑って光一は悩める額を指で弾いた。

「ほんと馬鹿だね、おまえはさ?恋愛なんざ結局のトコ、本人同士が解決するモンだね。それも相手は立派な大人のひと達だろうが?
色ボケ変態のおまえなんかよりね、おやじさん達の方がキッチリ考えて動けるはずだよ?そこらへんは信用してやんなよ、子供としてさ。
で、万が一に間違えそうになった時に止めてやればイイ。そん時に考えれば良いのにね、余計なコトで悩んで頭使ってんじゃないよ、」

笑って光一は立ち上がると英二の前に立ち、ひろやかな肩に腕を回した。
そのまま懐に抱きよせて、高潔の涙を自分こそ受けとめたい願いごと微笑んだ。

「ほら、胸を貸してやるよ。好きなだけ泣きな、そんで元気になってよね。朝になったら散歩に行くからさ、笑って歩きたいだろ?
だから今夜のうちに泣いて、スッキリしちまいな。言いたいコト全部わめきながら泣けばイイ、俺が抱きしめてるから安心して泣きな、」

告げた言葉に英二の肩は寛いで、ダークブラウンの頭を委ねてくれる。
そっと頬寄せられた胸元に温もりがシャツ透かす、こんなふう抱きとめる想い穏やかに笑いかけた。

「それからね、えっちで愛を錯覚するとか嘘でも良いとか、もう二度と言うんじゃないよ?おまえには周太がいるんだからね、」

英二には周太がいる、その現実が良かったと想える。
深く穏やかな周太の懐に英二は寛いで、いつか深い傷は癒されるだろう。
だから大丈夫に決まっている、そう微笑んだ胸元で綺麗な声が応えてくれた。

「うん、ありがと…、も、言わないよ」

素直な声は涙に変って、抱え込んだ想いはほどけだす。
静かにただ涙がシャツへと浸みこんで、この胸の素肌に届いて濡らしていく。
こんなふう誰かを自分が抱きしめて泣かせるなんて、英二に出逢うまで知らなかった。

―いつも雅樹さんも、こんな想いで俺を抱きしめて泣かせていたのかな…この間の周太もそうなのかな、

スイスに発つ直前、富士山麓の森で周太は光一を受けとめてくれた。
あのとき心から光一の幸せを願い、英二の笑顔を願って「一夜」を託して周太は微笑んだ。
それなのに今も迷いながら英二を懐に泣かせている、こんなにも雅樹を想う自分が英二を受容れられるのか解らなくて、怖い。

―今も雅樹さんを好きだ、大好きだ、今すぐ逢えるのなら全て捨てても後悔しない…だから解からない、

解からない、英二を自分が本当に受容れられるのか?
この迷いに立ち竦んだまま今、親友でアンザイレンパートナーとして英二を抱きとめている。
そんな今の関係は温かで、もう生涯ずっとこのまま自分は誰とも想い交さず生きても良い、そう想えてしまう。
なによりも、もしも英二を受容れられなかった時が怖くて、そうして関係が変質することに臆病になる自分がいる。

―もう俺、一生抱きあえなくてもイイかもね?ずっと英二とはプラトニックで、清いまんまでいても、

今夜はふたり、酒でも飲もう。
アイガーを見上げて笑いあって、アルプスの酒を呑んで笑いたい。
そうして親友のままアンザイレンパートナーとして共に生きれば良い、もうこれ以上望む必要は無い。
そんな想い微笑んで諦めて、けれど背中に長い指の掌ふれて抱きよせられた、この熱と力に心が砕かれた。

―愛しあいたい、この体温と今、

本音こぼれた視界、窓のアイガーが映りこむ。
アルペングリューエンの輝き燃える頂、あの場所で起きた突風の恐怖が蘇える。
いま腕の中に泣く体温は今日、ひとつ間違えば冷たい骸になって届かぬ遠くに消えていた。
あの16年前の晩秋に、ただ一度の風に雅樹が冷厳の死に攫われて、幸福の全てが終ったように。

―もう次なんて解からない、今しかない、もし本気で想うのなら今を逃せない、ね…

16年よりもっと前から、ずっと雅樹を想い続けている。
そして今、英二を本気で想うからこそ迷い続けてきた、それほど大切だから怯えている。
この迷いも怯えも本心は1つだけ、そう気づいた心に決意が据わりこんで、想いは言葉に変った。

「俺だっているんだよ、英二?おまえと愛し合いたいのは周太だけじゃない…ね、」






(to be continued)

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Lettre de la memoire、新雪―side K2

2013-01-01 04:11:13 | side K2
新たなる時へ、



Lettre de la memoire、新雪―side K2

ざらめ雪が車輪に軋んで、水音が鳴る。

陽光おだやかな雪の道、遅い朝にゆるまる新雪は自転車の轍を残す。
終業式の前には校庭の雪も凍っていた、けれど今は町中がざらめ雪に溶けていく。
澄みわたる青空に正月のどやかに明るんで、去年の今日と同じように見える。
けれど、もうあの人はいない。

―いや、違うね?雅樹さんはいる、俺のとこ帰ってくるね、約束したんだから 

ペダルを漕ぎながら心が抵抗する、そして泣きだしていく。
それでも微笑んで光一は去年までと同じに、自転車を古い門柱の間へと乗り入れた。
そこには金柑の木も新雪の庭も去年と同じ姿で迎える、こんな同じ達が余計に落差を募らしていく。
何もかも同じ正月の風景、それなのに傍に居るべき人がいない。

「寂しいよ、雅樹さん…」

ぽつん、心が本音をつぶやき涙を流す。
けれど瞳は微笑んだまま涙は出ない、ただ心だけが秘密に泣いている。
そんな想いに自転車を停めて、白いダウンジャケットのポケットに手を入れた。
そして指先ふれたガラスの感触に、贈り主の温もりも笑顔も探して心が微笑んだ。
嬉しく微笑んで親指と人差指にとった小さなガラスを、そっと太陽に翳し笑いかけた。

―お揃いだね、雅樹さん?

繊細なガラス細工の雪、その小さく透明なきらめきが青空に映える。
これと同じものを雅樹は常携していた医療ケースに付けて、大切にしていた。
それを自分はいつも綺麗だと見つめていた、だから雅樹が同じものを探してくれてダッフルコートのポケットに入れていた。
そのコートが光一の許に形見分けとして贈られて、ポケットから見つけたのはクリスマス・イヴの夜だった。
そうして溶けること無い雪の結晶は無事、この掌に贈られて今こうして太陽と空に翳している。

―今年もクリスマスプレゼントを贈ってくれたね、雅樹さん?

きらきら光る雪の結晶、いま青空に映えて本当に雪ふるよう想えてしまう。
こんなふうガラスの雪を去年も見た、雅樹に抱き上げられ今より近い空に結晶を翳していた。
あのときの幸福を想い微笑んで、大切に雪の結晶をポケットに戻すと光一は玄関に向かい、けれど足を止めた。

「…お飾り、やっぱしないよね?」

そっと呟いた玄関先、毎年ある正月飾りが無い。
もう玄関から雅樹がいない正月なのだと知らされて、心が締められ痛みだす。
その痛み深呼吸1つに納めこんで、光一は庭を横切り縁側から居間を覗きこんだ。

「こんにちは、吉村のジイさん、バアさん、」
「あれまあ、光ちゃん?早く炬燵に入んなさい、」

呼びかけ微笑んだ先、老人が炬燵を勧めてくれる。
その笑顔に笑いかけて光一は、登山靴を脱いで縁側から上がりこんだ。

「さあジイさん、去年も言ってた金柑の酒を呑みに来たよ?バアさんのあんこ餅をツマミにほしいね、あとお年玉ちょうだいね、」
「はいはい、すぐ支度しますよ。ちょっと待っててね、」

可笑しそうに笑って雅樹の祖母は立ち、台所へと行ってくれる。
その背中が小さくなったよう見えて、哀しみの翳が滲ませてしまう。
きっと去年まで過ごした孫との正月を想っている、そんな想い見つめた光一に雅樹の祖父は笑ってくれた。

「ありがとう、光ちゃん。今年も来てくれて、」

今年も来てくれて、
この言葉に去年への愛惜が伝わってしまう。
もう雅樹が来られなくなった今年は寂しい、そんな想いが言外に伝わらす。
この想いは自分も同じ、だから今もここに自分は座っている。そんな共鳴に光一は明るく笑いかけた。

「こっちこそ、ありがとうだね?酒と餅をご馳走になって、お年玉までもらっちゃうんだからね、」
「あれまあ、なるほどなあ?」

白髪頭ゆらして愉しそうに笑ってくれる。
ふたり笑いあう炬燵へと、盆に酒と餅を載せて来た笑顔が加わってくれた。

「はい、光ちゃん。たくさん食べてね、でも金柑酒はちょっとだよ?」

嬉しそうな笑顔が山盛の餡餅と重箱と、金色の酒を3分の1ほど注いだ蕎麦猪口を並べてくれる。
ふわり柑橘の香らす黄金色に笑って光一は、雅樹の祖母へと権利を主張した。

「金柑を採る手伝いした分だけ、ちゃんと飲ませてよ?ほら、ジイさんもバアさんも一緒に飲んでよね、今日は正月だろ?」

自分はこの酒を造る手伝いをした、だから一緒に飲めるよね?
そう酒の誘いに笑いかけた先、老夫婦は愉しげに笑って頷いてくれた。

「じゃあ儂たちも、光ちゃんの酒にお相伴しようかね?」
「そうですね?お正月だものね、ちょっと待ってくださいね、」

笑ってすぐ蕎麦猪口ふたつと、黄金色の酒ゆれる保存瓶を持って来てくれる。
そうして三人一緒に柑橘の香に笑って、炬燵で宴会を始めた。

「ジイさん、バアさん。今年もよろしくね、」
「今年もよろしくね、光ちゃん。はい、お年玉、」

笑って雅樹の祖母が、半紙を折った包みを渡してくれる。
去年までは可愛いぽち袋だったのに?そう首傾げた光一に老夫婦は微笑んだ。

「ぽち袋、今年は用意していなかったんだよ。もう光ちゃんは来てくれないって思ったからね、雅樹がいないから、」

ほら、やっぱり二人はそう思っていた。
そんな諦観が哀しい、こんな寂寞が心を暗くしてしまう。
そして誰も今日は「明けましておめでとう」とは言わない、その気持ちは互いに解かる。
こんな気持ちは仕方ない、けれど老夫婦の諦観も寂しさも覆したくて光一は底抜けに明るく笑った。

「俺はお年玉って好きだしさ、こんなに旨い酒と餅を食べないのは勿体ないね?だから来年も邪魔しに来させてよ、イイでしょ?」

この金柑酒も、この餡餅も、去年までいつも雅樹と楽しんだ味。
この味まで消えてしまう正月なんて嫌だよ?そう願いに笑う光一に老夫婦は嬉しそうに笑ってくれた。

「ああ、もちろんだよ?厭きるまで来ておくれ、儂らな、光ちゃんの笑い声を聴くの好きなんだよ?」
「こんなんで良けりゃ、幾らだって聴かせてあげるよ?」

笑う口もと香らす柑橘に、逝ったひとが好んだ味があまく愛しい。
あまり酒を飲まない雅樹だったけれど、祖母が作る金柑酒だけは好んで楽しんだ。
そんな記憶に去年の正月を想い微笑んだとき、縁側から快活な深い声が笑いかけた。

「ただいま、楽しそうだね?俺も交ぜてよ、」

声にふり向いた視線の先、明朗な笑顔が笑いかけてくれる。
その笑顔に大切な俤を微かに認めながら、光一は明るく笑った。

「お帰りなさい、雅人さん、」
「うん、ただいま光ちゃん。また背が伸びたかな?」

雅樹の兄、雅人が正月の奥多摩に帰ってきた。
この珍しいことに驚きながらも嬉しくて笑った隣、雅人が座ってくれる。
2つ上の兄は弟と風貌はあまり似ていない、その実直で明るい笑顔に老夫婦は尋ねた。

「お帰り、雅人。正月に帰って来られるなんて、珍しいな?」
「うん、今年は仕事も休めてね。今夜は泊めてもらって良いかな、」
「もちろんだよ、幾つでものんびりしていくと良い、」

嬉しそうに笑う老夫婦の笑顔に、ほっと嬉しくなる。
もう1人の孫が帰ってきて一緒に正月を過ごしてくれる、それなら寂しさも消えやすい。

―雅人さん、それを解かって帰ってきたんだね?雅樹さんの代わりをしようって、

雅人が帰ってきてくれて良かった、そう心から嬉しい。
嬉しく箸を動かしながら微笑んだ隣、快活な雅人の声が笑いかけてくれた。

「光ちゃん、御嶽神社にお参りいくの付きあってくれるかな?俺、もう何年もお参り行ってないんだ、」
「うん、イイよ?コレ食べ終わったらね、」

気軽に応えて頷くと、光一は皿の餡餅と栗きんとんに箸を動かした。
そんな光一に笑って雅人もお節料理をつまみ、小腹を充たすと二人連れ立ち出掛けた。

「昨夜は雪だったんだな、新宿は雨だったけど、」
「ふうん、暖かいね、ソッチはさ、」

車窓に御岳の町は白銀まばゆい、タイヤの轍が霙雪に多く描かれている。
チェーンの音聴きながら座っていると、運転席から雅人が笑いかけてくれた。

「あのね、光ちゃんにだけ話しておきたいんだ。それでね、俺が挫けそうになったら怒ってくれるかな?」
「イイよ、なに?」

なんの話だろうな?
そう見た先で明朗な貌は笑って、率直に言った。

「俺ね、医者になろうと思うんだ、」

雅人が医者になる?
その意外な提案にひとつ瞬いて、光一は訊いてみた。

「雅人さんって、医者が読む本とか雑誌を作る仕事をしてるんだよね?そういう人も、医者になれんの?」
「ちゃんと医者の大学に行って、医者になるテストを受けて合格すればね、誰でもなれるんだよ、」
「じゃあ雅人さん、雅樹さんみたいに医者の大学に行くってワケ?」
「うん、来年ね、大学に入るテストを受けようって思うんだ。雅樹が行っていたのと同じ大学に、俺も次の次の春から行くよ、」

会話に見つめた運転席、快活な貌は笑って瞳は真摯に明るい。
雅人は本気で今、進路について話してくれる。そう信じた隣から明るく深い声は言ってくれた。

「それでね、卒業したら此処で開業医になりたいんだ。雅樹の夢を1つでも俺が叶えたいんだよ、全く同じには出来ないけどね、」

雅樹の夢を、兄の雅人が継いでくれる。
いつも医療セットと白衣を常携し山岳医療に見つめた雅樹の「医師」である夢。
あの夢を雅人が繋いで生かしてくれる、嬉しくて笑って光一は思った通りに生意気を言った。

「うん、雅樹さんと同じになんて無理だね?だって雅樹さんは特別だからね、雅人さんには悪いけど、」
「ああ、俺も光ちゃんと同じ意見だよ?雅樹は特別だった、兄貴である俺から見たって凄い男だよ。でも俺なりに頑張るよ、」

明るく笑って答えながら、神社近くの駐車場に四駆は停まった。
シートベルトを外して外へ出る、そして雪の御岳山を仰ぎ見ながら雅人は笑って光一に告げた。

「光ちゃん、俺も山は好きだけどさ?雅樹みたいには登れないよ、八千メートル峰とか三大北壁なんて俺には無理だ。だからさ、
光ちゃんが雅樹のクライマーとしての夢、叶えてやってくれないかな?きっと光ちゃん自身もそうするって決めてるだろうけどね、」

雅樹のもう1つの夢は「最高峰」この自分とアンザイレンザイルを組むこと。
この夢を叶えてほしいと雅樹の兄が告げてくれる、その笑顔は弟の無垢な俤が温かい。

―ね、雅樹さん?もしかして今、雅人さんの口を借りて言ってくれてる?

そっと愛しい俤に問いかける、その問いに記憶の笑顔は幸せに笑ってくれる。
この笑顔のために自分も生きたい、あの美しい山ヤの意志を自分こそ抱きたくて光一は誇らかに笑った。

「うんっ、当たり前だね?俺しか雅樹さんの山ヤの夢は叶えられないよ、あと山のレスキューだって俺は出来るね、」

この今、君の故郷の山で君に約束したい。

いつも君とに笑ったこの場所で、君の夢はこの自分こそが叶えると誓いたい。
この誓いをすることは「君自身が夢を叶えられない」と認めること、そして君が消えた時が始まってしまう。
その哀しみは深くなるばかりで苦しいけれど、それでも明日へ進みたいと今、この新しい年を迎える日に約束したい。

だって君の夢を叶えるためには、この自分が大人に成長する「明日」新しい時が必要だから。





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第58話 双壁side K2 act.18

2012-12-31 05:40:07 | side K2
「宝」秘すること、その真実 



第58話 双壁side K2 act.18

桜の香が靄となって、視界を朧に誘っていく。

湯を張ったバスタブに浸かりながら頭からシャワーの湯も被る、天辺からつま先まで湯が染みていく。
ほんの数時間前に北壁で得た昂揚を残しながら、疲労だけが湯へと解けて消えていくのが心地良い。
立ち昇る湯気は入浴剤が桜に香り、そっと閉じた瞳に幼い日の幸福が肌と香から蘇えりだす。
いつも雅樹と風呂へ入るたび馥郁とくるんだ桜の香、あれは雅樹が生来もっていた香だった。

「いい匂いだね、雅樹さんってさ。山桜が満開のときと、同じ匂いがするね?」

この香が自分は大好き、そして香の主はもっと大好きだ。
想い素直に笑って湯のなか抱きついた、そんな自分を抱きとめて雅樹は笑ってくれた。

「そうかな?僕はよく解らないんだけど。光一こそ佳い匂いがするよ、」
「雅樹さんがいい匂いって言ってくれんなら、俺は嬉しいよ?ね、もっとくっついてよ、」

もっと近づきたい、この大好きな人と離れたくない。
そう願うまま湯船に浸かり裸で抱きしめた、そんな風呂の時間は幸せでずっと習慣だった。
習慣と想うほど自然だった、けれど8歳の夏、自分の中で「幸せ」は色彩を深く変えたと自覚した。

―あの夏は特別だったね、俺にも雅樹さんにも…俺はあの夏から大人になったね、

穂高連峰を雅樹と縦走した、8歳のきらめく夏の記憶。
あの夏休みは殆ど毎日を雅樹と過ごし、吉村の家と国村の家を泊まりっこした。
そして穂高の他にも山に登った、奥多摩の山々を縦走し、北岳も谷川岳も、剱岳にも登りテント泊を楽しんだ。
沢で水遊びして、魚を釣って焚火して食べた。木の実も摘んで食べた、ブナの森で清水を飲んで、あの山桜の森でキャンプした。
そんな幸福が永遠に続くと自分は曇りなく信じて、信じた分だけ尚更に美しい山ヤの医学生を慕い、恋して、愛してしまった。

「…本気で惚れてるよ、あの時からずっと…だから本気でセックスしたかったんだ、」

湯のなか呟いて、シャワーの湯に涙が融けていく。
あの夏に自分が心から望んだ願いが今、異国の湯を浴びながら涙に変る。
あのとき8歳で体は子供だった、けれど恋慕の心は今と何も変わっていない。
だから言える、あのとき自分は本気で23歳の雅樹と体を交わしたいと願い、行動した。

「雅樹さん、俺とセックスして?」

そんなストレートな告白に雅樹は、屋根裏部屋のベッドのなか瞬きひとつした。
あのとき両親は山岳会の講習会に出掛け、祖父母は町内会の旅行にいき、雅樹とふたり3日間の留守番だった。
その初日の夜、早速に自分は告白をして雅樹を見つめ、梓川の時と同じよう唇を重ねあわせキスをした。

―大好き、大好き大好き、お願いだから自分と体ごと愛しあって?大好きだから、

重ねた唇に想いをこめて、白皙の頬を両掌にくるみこんでキスをして、そっと離れて見つめ合った。
見つめた切長い目は真直ぐ見つめ受けとめて、静かに微笑むと光一を抱きしめ優しいキスが唇ふれた。
やわらかな唇ふれる吐息は桜の香あまく熱い、大切に抱き寄せてくれる掌もすこし熱くて鼓動が早くなる。
今から全てを赦しあい繋がれる、そんな幸福の予兆に微笑んで離れて、けれど雅樹は起きあがってしまった。

「光一、今から話すことをよく聴いてくれるかな?そして僕と約束をしてほしいんだ、」

そう言ってベッドの上、向きあい座ってくれた。
いつものよう微笑んだ白皙の顔、けれど切長い目は真摯に真直ぐ見つめて常と違う。
その眼差しは、梓川で初めてのキスをしてくれた時と同じで、何を言われるのか見当がついて自分は言った。

「俺のこと、絶対に子ども扱いしないなら聴くよ。俺が本気でセックスしたいって言ってるコト、解かってくれるんなら約束する、」

自分は本気だ、もう自分は子供じゃない。
そう宣言して見あげた美しい瞳は、すこし困ったよう微笑んだ。
そして決心したよう頷いて雅樹は、ひとつずつ質問してくれた。

「光一、セックスの事をどうやって知ったの?」
「オヤジの本棚にある小説だよ、フランスの恋愛小説とかにセックスのことシッカリ書いてあるね。男同士ってのも読んだから安心して?」

正直に答えた光一に、切長の目が笑んで雅樹は笑ってしまった。
何をそんなに笑うのだろう?そう首傾げた自分に愉しそうな声は答えてくれた。

「明広さんらしいね、そういう本を堂々と本棚に置いちゃってるって、」
「あれって普通は隠すもんなワケ?」
「その人によるけど、隠す人の方が多いかな?でね、それは恋愛小説と少し違うかも?」
「へえ?でもね、どれも男女だろうが男同士だろうが、Je t'aime って言ってたよ?愛してますってさ、」
「うん、だけどセックスのシーンが多かったんだろ?そういうのってね、恋愛小説の中でも特殊なジャンルって言うか、ね?」

答えながら雅樹は頬染めて笑っている、可笑しくて堪らないと言う貌にこっちも楽しくなってくる。
そんなにも父がああいう小説を本棚に置いている事は可笑しいんだな?
そう感心していると雅樹は笑いを納めて、また質問してくれた。

「いま、男同士のセックスも読んだ、って言ったよね?具体的に何をするのか、光一はどこまで知っているの?」
「まず裸でお互い、抱きあってキスするね。そのキスが舌を使うようになってさ、」

そんなふう小説で読んだ知識に口を開き、知っている限りを話した。
話しながら雅樹はきちんと聴いて頷いてくれる、その顔がすこし恥ずかしそうに赤い。
つい含羞が現れる初心な様子に、雅樹がまだ未体験で自分以外とは想い交していないと解って嬉しかった。
自分より15歳上の雅樹、けれど自分と変らない経験値なのだと思うと嬉しくて、笑って話し終えた光一に雅樹は微笑んだ。

「うん、光一はセックスのこと、大体は解かっているね?でも大切なことを解かっていないんだ、聴いてくれるかな?」
「うん、聴くよ?俺を子ども扱いしないんならね、」

条件付きの承諾に頷いた前、赤い頬で雅樹が微笑んだ。
そして穏やかな決意が真直ぐ見つめて、誠実に自分と向き合ってくれた。

「光一の心は僕と同じで対等だ、でも光一の体はまだ成長途中だからセックスするのは難しいんだ。きっと無理にしたら光一の体を傷付ける。
だから解ってほしい、僕は光一のこと本当に大切で大好きだから、今の光一の体とはセックスが出来ない。光一を少しも傷付けたくないから、」

今の自分とは出来ない?
そう言われた言葉たちに納得は出来る、けれど心は頷けない。
頷けない心のまま正直に雅樹へ抱きついて、大好きな瞳を見つめ自分は訴えた。

「決めつけないでよ?俺の体がホントにまだセックス出来ないか、やりもしないで決めないでよね?俺のこと、ちゃんと見てよ?」

自分をちゃんと見てほしい、そう告げて腕を解きベッドから降りた。
そして雅樹の目の前で、パジャマから全てを床に落とすと素肌をさらした。

「見てよ、俺はまだ8歳のガキだけどね、身長だって普通よりずっとデカいんだ。ココだって釣合う位には成長してるだろ、解かってよ?
俺も山ヤだ、体が山ヤにとって大切だってコトよく解ってるから、無茶なんかする気が無いんだ。ちゃんと出来るって思ったから言ったね。
それに俺、ちゃんと知ってるよ?ガキを相手にセックスする趣味の大人もいるんだ、だからガキでもセックス出来ないってコトも無い筈だね、」

言ってフロアーランプを点け、体を全てオレンジの光に見せる。
こんなことをするほど自分は本気だ、そう目で告げながら雅樹を見つめ、ベッドに上がった。

「雅樹さん、俺はこの1週間で考えて決心して、セックスしようって言ってるんだ。俺は雅樹さんの一番になりたい、だから今したいんだよ。
俺が初めてのキスなんだから、雅樹さんって俺と同じで童貞なんだろ?お互いの初めてを今したい、キスと同じに初めての一番になりたい、」

この願い、どうか応えてよ?
どうか自分を拒絶しないで、この想い受け留めて?
そう見つめた想いの真中、切長い目は真直ぐ光一を見つめて、そして微笑んだ。

「ありがとう、そんなに僕を好きでいてくれて…本気なんだね、光一は、」
「本気だね、でなきゃこんなカッコ見せないよ、」

即答して笑いかける、その裸の肩をそっと抱きしめてくれる。
優しい抱擁に包んでくれながら、無垢な眼差しは光一を見つめて深い声は言ってくれた。

「光一、ふたつ約束してほしいんだ。ひとつめはセックスしていて少しでも嫌って感じたら、すぐに言うこと。もう1つはね、」

言いかけて、深い溜息ひとつ吐く。
なにか言い難いことなのだろうか?そう見つめた光一に雅樹は、困ったよう微笑んだ。

「あのね、18歳にならない人とセックスすることは、条例で禁止されてるんだ。だから僕、今の光一とセックスすると犯罪者になるんだよ?
それを解かって約束してほしい、今夜の次は10年後まで待つことを僕に約束してほしいんだ。それまで僕は、他の誰とも絶対にしないから、」

自分と雅樹が体ごと愛しあうことは、今の自分の年齢では禁じられている。
それでも雅樹は光一に選択を委ねてくれた、そうやって本気なのだと伝えてくれる。
本当は生真面目な雅樹にとって辛いことだろう、それでも自分を望んでくれる想いへ幸せに微笑んだ。

「うん、約束する。今夜の次は、俺の18歳の誕生日だね?それまで俺も誰とも絶対にしない、キスも雅樹さんだけだよ?だから、」

だから今夜、あなたを自分に下さい。

そう言いたくて、けれど声が熱に詰まった。
心深くから込みあげる熱は昇り瞳の奥から零れ、涙ひとつ墜ちる。
その涙を長い指がそっと拭って、切長い目が見つめて困ったよう微笑んでくれた。

「光一、やっぱり怖い?」
「…っ、ちが、うね…うれしくて泣いてる、ね…」

あふれる涙に微笑んで、大好きな人を見つめて伝える。
こんなに真剣に向き合ってくれる事が嬉しい、こんなに大切にしてくれることが嬉しい。
そう見つめた想いに綺麗な笑顔が応えて、そっと光一を抱き上げると雅樹はベッドから降りた。

「光一、男同士でセックスするなら準備が必要なんだ。だからお風呂、もう一回入るよ?」
「…あ、そうだったんだね?」

涙のまま首傾げて、大好きな人を見上げ笑いかける。
準備のことまでは小説に描いていなかったな?そう思った額に優しい額ふれて、深い声は言ってくれた。

「この準備がね、ちょっと恥ずかしいし手間が掛かるんだ。嫌だったら途中でもすぐ言ってね、ちゃんと止めるから、」
「絶対に止めるなんて言わないね、」

きっぱり自分は断言した通り、風呂場で施される支度を全て受けた。
体の奥深くから洗ってくれる、その初めての感覚に心が悶えて体の芯から熱が起きあがる。
あまやかな微熱に火照った体をバスタオルごと雅樹は抱きあげて、大切に抱えられて戻ったベッドに再び向きあうと言ってくれた。

「光一、今から光一を僕に下さい。僕の全部を光一に上げるから、体も心も全てを僕に赦してくれるかな?」

さっき自分が言えなかった言葉を、言ってくれる。
嬉しくて幸せで、幸せな想い素直に笑って自分も告白をした。

「俺も全部を雅樹さんにあげるね、だから雅樹さんを全部、俺に下さい。俺を雅樹さんの一番で初めてで、唯ひとりにして?」
「うん、光一は僕の唯ひとりだよ?梓川で言った通りにね、」

そう言って幸せに綺麗な笑顔ほころんで、そっとバスタオルを脱がせてくれる。
お互い素肌を見つめ合って、長い腕が優しく抱きよせると、静かに瞳を閉じて唇が重なった。
ふれあうキスは穏やかに甘く幸せで、温かな感覚に抱きあうままシーツの上に横たわる。
それからの時間は、ただ幸せで温かくて、あまい微かな痛みと深い共鳴に充たされた。

「雅樹さん、幸せだったよ?あの夜の俺は、…生きていて一番に幸せなのは、あの夜だ、」

そっと記憶に言葉こぼれて、涙あふれだす。
もうあんな幸せな瞬間は二度と自分には無い、そう解っている。
今夜、この数時間後に自分は英二に抱かれるだろう。それでもあの夏の幸福以上だと想えない。
だって英二にとって自分は絶対に「一番」には成り得ない、そして「初めて」にもなる事は出来ないから。

―だから英二、ごめんね?俺は嘘を吐かなきゃいけないんだ、雅樹さんのこと大切だから言えないよ、おまえにもね?

16年前、自分は雅樹と体を重ねあった。それが自分の初体験だった。
このことは決して誰にも言えないと、年経るごとに思い知らされて秘密は深くなる。
そして深まるほどに嬉しいと幸せ抱きしめる、これほどの秘密と知って雅樹が自分を愛してくれた真実が誇らしい。
だって自分は知っている、雅樹は生真面目で倫理観が強くて少年趣味も性的倒錯も無い、それなのに禁を犯しても一夜を選んでくれた。
あの一夜がどれほどの覚悟と愛情から生まれたものなのか?それを自分は誰よりも一番に知って、何よりも幸せだと誇りに想っている。

―これは俺と雅樹さんだけの宝物だ、だから英二にも言えない…アンザイレンパートナーで『血の契』でも、恋人でも言えないね、 

絶対に言わない、そう微笑んで秘密を抱きしめる。
この秘密を抱いたまま自分は今夜、英二との一夜を選ぶだろうか?
それとも敵前逃亡して止めるだろうか?そんな予想を自分に笑いながら光一は、浴槽の栓を抜いて立ち上がった。



グリンデルワルトのホテルで着いた夕食は、遠征訓練チームの全員が揃った。
ミッテルレギ稜を登った6人も予定通りに下山が出来ている、この互いの無事が素直に嬉しい。
本当に良かった、この想い微笑んで光一は後藤からの伝言を伝えた。

「全員無事に帰還ですね、後藤副隊長も喜んでいました。予備日の明日は休暇扱いですし、羽を伸ばせと伝言です、」
「連絡ありがとうございます、それと記録おめでとうございます。3時間切るなんて後藤さん、喜んだでしょう?」

第七機動隊の加藤が率直に祝辞を言うと、他の皆も祝福の言葉を掛けてくれる。
ひとめぐり祝いの言葉を聴き終えて、光一はグラスを持って機嫌よく笑った。

「はい、よくやったって泣いていました。まずは無事に乾杯しましょう?で、食いながら話しましょう、」

後藤らしい人柄のエピソードが食卓を和ませる、それくらい後藤は人望が厚い。
山ヤの警察官なら誰もが後藤を慕うのは、ただクライマーとしての技量だけでは無いと今の場にも解る。
そんな後藤の後継として自分は相応しく成れるだろうか?そう考え廻らせながら食事していると七機所属の村木が尋ねてきた。

「後藤副隊長、記録の事とか他に何か仰っていましたか?」

記録よりも後藤が大切にしていることがある。
この「大切」をちらり見遣って光一は、言葉を再現した。

「よくやったな、羽を伸ばせと伝言しろ、の次はね?宮田に替れって言われちゃったんです、あの方は宮田を大好きなんでね、」

本当に後藤は英二を大好きだな?そんな納得の向こう愉快に笑いだす。
後藤も雅樹を嘱望した1人だった、その想いの分も籠めて英二を愛し息子のよう大切にしている。
けれど言われた本人は困ったよう微笑んで、そんな奥ゆかしさに高尾署の三枝が笑いかけてくれた。

「後藤さんが宮田さんを好きなのって、解かります。前に講習会でお会いした時、帰りの電車で嬉しそうに話してくれましたよ。
山のセンスもあって努力家で真面目、息子ならいいのにって仰ってました。その通りだなって今回、一緒のチームになって思いますね、」

もし後藤が本当に英二の父親だったら、どうなっていたのだろう?
そんな考えにふっと、幼い日に後藤から聴いた言葉を思い、心が小さく傷む。
あの話を聴いたのは、両親と一緒に初めて雲取山をピークハントした5歳の時だった。

「さすが明広と奏子ちゃんの息子だな?いいぞ、光一。おまえさんなら最高のクライマーになれる、俺の息子の分も登ってくれよ?」

そう言って笑った深い眼差しが、嬉しそうでも泣きそうに見えた。
それが不思議で、奥多摩交番を後にした四駆の車内、父の明広に訊いてみた。

「後藤のおじさんトコってさ、子供は紫乃さんだけだよね?なのになんで、俺の息子の分までって言うワケ?」
「うん…本当はいたんだよね、」

静かに答えた声が、少し悲しそうに微笑んでくれる。
どういう意味だろう?そう見つめた先で父は教えてくれた。

「紫乃ちゃんが5つの時だったかな、息子さんが生まれたんだよ。ずっと息子さんが欲しかったからね、そりゃ後藤さんは喜んだよ、
でも生まれて一週間で亡くなってね…生まれつき体が弱かったそうだよ。それでも後藤さんは笑ったね、この一週間は本当に幸せだったって、」

そんなことがあったんだ?
この知らなかった事実に息を飲む、そして後藤の「幸せ」が不思議になる。
どうして待望の息子との生活が一週間だけでも「幸せだった」と言えるのだろう?この疑問への答えに父は微笑んだ。

「いつか息子とアンザイレンザイル繋いで最高峰を登る、そんな夢を見させてもらって幸せだったって、泣きながら幸せそうに笑ってた。
俺ね、あのときの後藤さんの顔って一生忘れらんないね。だから俺もさ、光一が生まれて元気なのって、ホントに幸せだなって思ってるよ?」

そんなふう笑ってくれた父の目には、フロントガラスの光が煌めいていた。
あのときの父が見せた涙と、後藤と息子の物語は今も心の深くに輝いて「体」への感謝が温かい。
そして想ってしまう、もし本当に英二が後藤の息子だったなら、どんな記録が山岳史に生まれていたのだろう?

―なによりね、きっと本当に幸せだったろうね、後藤のおじさんも英二も…いつも山の話で笑いあって一緒に救助隊やって、最高の山ヤ親子だね?

本当に後藤が英二の父親なら良いのにと、自分の方こそ思ってしまう。
もし英二が後藤の息子なら自分たちは、もっと早くに出逢ってザイルパートナーを組めた。
そうしていたら英二と自分の道も今と少し違っていたのだろうか?こんな仮定を垣間見る隣で英二が微笑んだ。

「褒めて下さって、ありがとうございます。でも、恐縮で困りそうです、」
「そんな困らないで下さい、それで電話では何て話したんですか?」

笑って三枝が訊いてくれる質問に、端正な顔はすこし首傾げこんだ。
生真面目な英二らしく正確に後藤の言葉を話すだろうな?そう見た隣で綺麗な低い声は言った。

「どこも怪我は無いか、体調はどうだ、って最初に訊かれました。あと風呂でしっかりマッサージして、明日はきちんと休むんだぞ。
気持ちは元気でも体は疲れている、そこらの山を登ったりするな、国村が言いだしたらブレーキかけてくれ。そんなふうに釘刺されました」

記録よりも体調を気遣う、そんな後藤の想いが温かい。
そして自分たちの行動を読んでくれる、それが可笑しくて笑ってしまう。
いま話した英二が笑いだし皆も笑いだして、七機の加藤が隣から訊いてきた。

「国村さん?もしかして明日の予備日は宮田さんと、メンヒかユングフラウに登るつもりでした?」
「あれ、ばれちゃいました?」

答えながら愉快に笑ってグラスに口付け、酒の馥郁を飲みこむ。
明日はどこか登りに行くのなら、それを言い訳にして「今夜」を止められる。
そんな逃げも本当は考えていた、けれど後藤の言葉で退路を断たれていくのが可笑しい。

―後藤のおじさん、逆に俺のブレーキを外しちゃってるよ?

本人は全く意図していないことなのに?
こんな偶然の顔した引金が可笑しくて笑ってしまう、そんな前から高尾署の松山が愉しげに尋ねた。

「本当にタフですね、明日は登るんですか?だったら全員で箝口令しますよ、」

登る、そう答えようか?
そんな逃げをまた考える、けれど観念したい気持ちが微笑んだ。

「宮田にお目付け役が言い渡されちゃいましたからね、もうダメです。宮田は真面目で堅物なんですよ、ね?」

この男には敵わないね?
そんな本音のまま笑った先、綺麗な笑顔ほころんでくれる。
穏やかで優しい眼差しで此方を見、綺麗な低い声が笑ってくれた。

「はい、堅物です。だから明日は、副隊長の言葉に従ってくださいね?俺に実力行使はさせないで下さい、」
「はいはい、明日はノンビリ昼寝と散歩にしますよ、」

明日はのんびり昼寝、そう言いながら「今夜」に覚悟が観念する。
それでも逃げたい気持ちに未練思いながらグラスに口付ける、そんな向かいから五日市署の佐久間が訊いてきた。

「宮田さんの実力行使って、どんなですか?」

訊かれて、ひと呼吸を英二は考えこんだ。
すぐ白皙の貌は穏やかに笑って、可笑しそうに綺麗な低い声が言った。

「たぶん、登山靴を隠しても脱出するでしょうしね?酒を呑ませながら一日中、抱え込むしかないでしょうね、」

一日中、抱え込む。

そんな言葉に鼓動が跳ねた。
そんな自分に「意識しすぎだ」と笑いとばそうとして、けれど出来ない。






(to be continued)

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Lettre de la memoire、永遠の雪―side K2

2012-12-31 00:39:13 | side K2
結晶、永遠の雪に言伝を 



Lettre de la memoire、永遠の雪―side K2

雪ふる夜、窓に六弁の花が幾つも咲いていく。

ほの明るいランプのオレンジいろに花は煌めく、小さな光がガラスを彩らす。
白銀に凍れる雪の華、その数と形を訊いて共に笑いあえた温もりは、もういない。
この輝く空の水の結晶になら、空の彼方へ逝った願いも祈りも籠もっているだろうか?

「…どうして?」

ぽつん、ひとりごと零れて涙あふれて落ちる。
誰もいない静かな屋根裏部屋、ただ独りで窓辺に雪を見つめて座りこむ。
パジャマ一枚を透かす夜気に肩は冷えていく、それすら自分でもう、どうでもいい。
今この瞬間、クリスマスイヴの深夜に世界は眠って幸せな夢を見る。
けれど自分だけは眠れない、幸せな夢が怖いから。

「帰ってきてよ?ねえ…雅樹さん…今日は終業式でクリスマスイヴだよ?帰ってき、て…ぅ、ぅっ」

ひとりごとも涙も零れて、今日という日が哀しくなる。
去年の今は温かい腕のなかに眠り、優しい香に幸せな夢を見ていた。
生まれた時から毎年ずっと「今日」大好きな笑顔は自分の元に帰ってきた、でも、その腕は逝ってしまった。
唯ひとつ、失いたくないと願ったのに消えてしまった温もり恋しくて、去年の自分の声と懐かしい声が蘇える。

  約束してよ?何があっても絶対に俺のとこ帰ってきて、ずっと一緒にいて?雅樹さんがいたら俺、来年からクリスマスプレゼント無くっていい
  約束するよ、光一。必ず君と一緒に生きるよ、一緒に夢も叶えるよ?だから僕ね、卒業したら此処で開業医するって決めてるんだ

ふたり結んだ約束、教えてくれた夢と幸せな日々の予告。
けれど、夢も約束も消えてしまった、幸せな日々は予告されたままもう永遠に訪れない。
一年前の今日は通信簿を見て笑ってくれた、あの山ヤの医学生の笑顔はもう、山から帰らない。
そんな絶望に膝を抱えて涙こみあげる、この今と去年の落差に傷は抉られ深くなって、孤独が痛い。

「約束、したのにね?…もうなんにもいらないって言った、のに…っぅ…ぅ」

嗚咽が喉を詰まらせ、顔をパジャマの膝に埋めこむ。
この2ヶ月ずっと自分はすこしも笑えない、顔だけ笑って心は笑えない。
もう永遠に笑うことなんか出来ない?そんな想いと少し顔あげたとき、視界の端に紙袋が映りこんだ。

―あの紙袋、何が入ってるんだろう?

ふと思いだし立ち上がると、大きな紙袋の傍らに座りこむ。
2ヶ月前、葬儀の帰りに老夫婦から渡された紙袋をまだ開いていない。
あのとき二人に何か言われて、けれど呆然とした心は何も聴こえないまま、顔だけ微笑んで頷いた。
二人は一体なんて言ってこの紙袋をくれたのだろう?そう考えながら開いた紙袋から、雪空色の生地が広がった。

「…このダッフルコート、」

明るい、白に近いグレーのダッフルコートに呼吸が止まる。
毎年ずっと晩秋から春3月まで、いつも大好きな人が着ていたコート。
いつも見るたびに雪空と似てると想って、白皙の肌と黒髪には似合って綺麗で、長身に映えていた。
あのコートが自分の手元に帰ってきた?驚きと喜びに抱きしめた温もりに、ふわり山桜の花が香った。

「…ん、いい匂いだね?…帰ってきてくれたんだ、ね、」

大好きな人の香が、こうして帰ってきた。
いつも大切に着ていたダッフルコート、何度も自分を抱き上げてくれた腕を包んでいた袖。
幾度も自分をおんぶした背中を覆い、健やかな鼓動を温かく守り、大好きな香を移しこんだコート。
そして、いつも手を繋いでは温めてくれたポケットに、そっと手を入れてみると小さな包みが出てきた。

「…なんだろ?」

不思議なままに小さな紙包みを開いて見る。
そこに小さな箱が現われて、上げた蓋に透明が輝いた。

「あ、」

小さなガラス細工の、雪の結晶。

初めて見た時には愛用のショルダーバッグに付いていた。
その後に見た時には常携する救命救急セットのケースに付いていた。
あれと同じガラス細工の雪の結晶が、新しい輝きにランプへきらめいて今、ここにある。

「…俺に、くれるつもりだった?同じの見つけてくれて…」

ひとりごとに微笑んで、そっと掌に載せてみる。
普通の雪ならば掌の体温に消えてしまう、けれどこの雪は消えることは無い。
いま掌にある雪の結晶と同じよう、あなたの想いも消えることなく永遠だと伝えてくれるの?

「きっとそうだね?…だって約束したんだ、何があっても帰ってくるって…だからきっと帰ってきてくれる、ね?」

消えない雪に微笑んで、雪空色のコートにパジャマの袖を通す。
冬夜の冷気に凍えたパジャマ一枚の体が、ふわり桜の香と温もりにくるまれ安堵の吐息こぼれる。
まだ子供の自分には大きすぎる大人用のダッフルコート、この大きさに逝った人の大らかな心が懐かしい。
たった2ヶ月前には自分を抱きしめ眠ってくれた、あの大好きな笑顔と気配が今、再び自分を抱きしめていく。

―幸せだ、寂しくて哀しいけど、でも…夢みたいに儚くってもね、この香と温もりが幸せだ、ずっと、

心リフレインする、この今に帰ってきた香と温もりに心が微笑む。
そっと掌の雪の結晶を握りしめて、静かに立ち上がって大きなコートに包まれたままベッドに入る。
そうして置きっぱなしの絵本を開いて、大好きな俤を映したイラストと歌詞のページに笑いかけ、そっと瞳を閉じた。
このベッドでふたり抱きあった幸福と、夢と約束を数え、残り香に抱きしめられながら。



夢のごと 君を相見て 天霧らし 降りくる雪の 消ぬべく思ほゆ  詠人不知




【引用詩歌:『万葉集』より作者未詳歌】

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第58話 双壁side K2 act.17

2012-12-23 00:13:49 | side K2
「祈」 約束の場所へ、君と



第58話 双壁side K2 act.17

“Eeger” その北壁の別称は「mordwand」死の壁。

そう呼ばれる現実を今、ナイフリッジの風に自分も見た。
常にまとう風の衣を動かして、近寄った者を気まぐれに払い落とす誇り高い山。
その気まぐれに今、自分のアンザイレンパートナーは捕まりかけ「山」に眠る死へ攫われかけた。

―どうして俺のアイザイレンパートナーは風に捕まる?気まぐれな山の風で、雅樹さんは…

槍ヶ岳北方稜線、16年前の北鎌尾根で吹いた気まぐれな暴風に雅樹は攫われた。そして知った別離の傷は痛すぎる。
もう大切な存在を失うことは怖いから、この山のよう気まぐれに見せて他人を踏みこませなかった。
そうして16年間ずっと本当は孤独を護っていた、けれど今もう「英二」を自分は知っている。
この自分と共に山で生き続けると誓ってくれる唯ひとり、その相手へと想いをぶつけた。

「俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!
か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!な、なんでだよ…っ、お、俺の、」

16年前の激痛が今、涙に起こされて息を止める。
あの北鎌尾根で吹上げたナイフリッジの風が心を冷やす、そして罅割れる。
冷たく大きく裂けだしていく心の傷痕が、ふるい哀しみごと今を泣き出し、叫んだ。

「俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」

もう嫌だ、こんなのは。

もう置き去りになんてされたくない、けれど山で生きていたい。
ずっと大好きなパートナーと山で生きたい、それなのになぜ山は風で攫おうとする?
なにか自分に責任があるのだろうか?そんな疑問と悲哀へと、深紅のウェアを着たパートナーは大らかに微笑んだ。

「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」

笑いかけ、うすく腫れた左頬を光一に示してくれる。
そこに横一文字、あざやかに細い深紅の傷痕は浮きあがっていた。

―富士の竜が、最高峰が英二を護ってくれた?

今年初めの冬富士で雪崩に刻まれた、鋭く小さな赤い傷痕。
いつもは見えないのに熱を持つと浮きあがる、どこか不思議な英二の頬傷。
なにか意味がある?そう思わせられる傷へと指先ふれて、グローブを透かす熱の気配が温かい。
この温もりに「山」の祝福が自分を見つめて心が凪ぐ、ほっと息ついて光一は穏やかに微笑んだ。

「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」

雅樹には、自分のキスしか贈ってあげられなかった。
雅樹には「山」の何かは無いまま死なせてしまった、けれど英二には富士の爪痕がある。
だから英二はきっと大丈夫、そう微笑んだ向かい綺麗な笑顔ほころんで幸せにねだってくれた。

「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」

いま自分のキスに無力を感じた、それに英二は気づいて言ってくれるのだろう。
こういう優しさが英二の良い所だな?嬉しくて光一は綺麗に笑った。

「うんっ、だね、追加しとこっかね、」

そっと頬の傷痕へよせた唇に温もり触れる。
やさしい熱に生きている願いがうかぶ、そして本音が心から泣き出していく。

―諦めるなんて出来ない、離れたくないよ、

もし今、ザイルを止めることが出来なかったら?
もしも16年前と同じに救けられなかったら、自分はどうしたろう?
いま仮定に本音が泣きながら、援けられた今の現実に幸せが安らいでいく。
そんな自分に途惑うほど募る想いから、そっと離れると英二は綺麗に笑ってくれた。

「なんか俺、今、幸せだな、」
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?」

あの場所で、ふたり並んで立ったら幸せだろうな?
そんな想い素直に笑って光一はザイルパートナーの掌をとり、一緒に立ちあがった。

「行こう、英二、」

笑いかけ手を離し、ザイルを伸ばしながら先を歩き出す。
その背後にアイゼンの雪踏む音が生まれて、天空の雪原を足音ふたつ昇っていく。
凍れる白銀へ夏の朝はふる、まばゆい光のなか登りあげナイフエッジの狭い頂上に辿り着いた。

―雅樹さん、アイガーの雪と太陽はまぶしいね?

蒼穹の点に微笑んでカメラを出し、ゴーグル外して遥か東の涯を見る。
いま一日の始まりに生まれた太陽、その光輝が生まれる方角に故郷は佇む。
この体に生命を受けた山、この名前を与えられた山、そして夢と約束を育んだ山。
その全てがある故郷への想い、その全てに立ち会ってくれた俤を見つめる心は東へ還る。

―雅樹さん、約束を叶えたよ?夢がまた1つ叶ったね…英二がいてくれるから、叶えられるね、

午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。
その風追うようファインダーを向け、約束の頂と空の瞬間にシャッターを切った。
そのまま撮影していく隣、ふっと森の香くゆらせ綺麗な低い声が微笑んだ。

「光一、こっちに『MANASUL』を向けて?」
「うん?」

振向いた向こう、コンパクトデジタルカメラのスイッチを長い指が押す。
無音でシャッターを切らせホールドする掌、ワインレッドのグローブが甲を覆っている。
その色とデザインにツェルマットの記憶が笑って、楽しい気持ちごとパートナーにレンズを向けた。

「撮影ありがとね、英二。じゃ、ふたり一緒に撮ろっかね、」
「おう、」

頷いてカメラをおろし、左手の甲をこちら向けてくれる。
ファインダーに銀嶺と空を入れ深紅のウェア姿にセンター合わし、カメラを固定すると隣に立った。
ちょうどのタイミングでシャッター切られ、すぐカメラを抱えると再生画面で確認していく。
ふたり並んで時計の時刻と写っているのに微笑んで、振り向くと英二は山を見渡していた。

―イイ貌しそうだね、

愉しい予兆に笑ってカメラをホールドすると、ファインダーを覗きこむ。
レンズ越し見つめた長身は深紅のウェアを靡かせながら、ダークブラウンの髪に光冠きらめかす。
いつもの「山」に見惚れる貌が明るみだす、銀と青の世界ふる陽光は深紅を輝かせて綺麗な低い声が笑った。

「アイガーの雪と太陽は、まぶしくて綺麗だな、」

誇らかな笑顔が蒼穹の彼方を見た瞬間、シャッターボタンをそっと押した。



正午前、アルピグレンのベースキャンプに着いた。
手早くテントを片づけ北壁を見上げる、その高度1,800mの彼方に稜線が蒼い。
あの場所には氷雪と光だけがあった、そして今は緑のなか花を踏まぬよう歩いて行く。
なんだか夢みたいだね?そんな想い笑って携帯電話を定時前の日本へ繋いだ。

「おつかれさまです、後藤副隊長。国村です、今ベースキャンプの回収を終えました。ミッテルレギ稜チームも下山完了です、」
「おつかれさん、じゃあタイムは達成だな?」

まだタイムを言わぬまま、山ヤの警察官トップに立つ男は笑ってくれた。
きっと登山計画と時差を計算して電話を待っていた、そんな様子嬉しくて光一は笑った。

「はい、宮田と揃って3時間を切りました、」
「宮田もか?そうか、よくやったなあ…よくやっ…」

笑った語尾がくぐもって、涙のんだ気配が伝わらす。
この涙の意味は言われなくても解かってしまう、たぶん二人への想いが泣いている。
いま泣いてくれる後藤に雅樹は何を想うだろう?そう微笑んだ向こうから後藤が言ってくれた。

「よくやったなあ、おめでとう。明日の予備日は休暇扱いだしな、全員、羽を伸ばせと伝えてくれ。光一、宮田に替ってくれるかい?」

やっぱり後藤は英二が可愛いんだな?
そんな後藤の気持ちが嬉しく可笑しくて、電話向うへ笑いかけた。

「やっぱり後藤のおじさん、英二が一番だね?今すぐ変わってあげるよ、」
「おう、すまんなあ、」

愉しげに深い声が笑ってくれる、その陽気な雰囲気が懐かしい。
この陽気な山ヤが7年前は共に登り、まだ高校生だった自分に山頂を踏ませてくれた。
あの日があるから今日の記録も作られた、その感謝と微笑んで携帯電話を隣に差し出した。

「はい、ご指名だよ?」
「ごめん、ありがとな、」

綺麗な低い声で笑って、白皙の手に受取ってくれる。
歩きながら携帯電話を耳元に当て、いつもの端正な口調で話し始めた。

「おつかれさまです、宮田です、…はい、大丈夫です。…はい、そうしますね、…はい…」

電話で繋ぐ相槌の間、故郷の声が少しだけ聴こえてくる。
深い声が話す断片と、頷くアンザイレンパートナーの表情に会話内容が解かりやすい。
たぶん怪我と体調の具合と休養のことだろうな?そんな予想に心配性な旧知の山ヤが懐かしく愉しい。
隣に会話を聴きながら歩く草原は風ゆるやかに緑が香り、明るく静かな世界は陽気で、けれど隣に冷厳の世界は佇んでいる。
いま歩いて行く陽気な世界も好きだ、それでも青と白の世界へ立ちたいと願うまま蒼い壁に笑いかけた。

―アイガー、また逢いに来るからね?今度はもっと速く登らせてもらうよ、この男と一緒にね。そのときは風、吹かせないでよ?

北壁を登る間ずっと無風だった、けれど頂上雪田で風は英二を捕え惹きこもうとした。
あのとき見つめた恐怖と祈り映した心へと、小さな不安と緊張がゆっくり瞳を披いた。

―今夜、だね…ほんとに良いのかな

今夜、あの紙袋を本当に開くのだろうか?
この遠征訓練に発つ直前、周太が贈ってくれた紙袋の中身を自分は使う?
その問いかけが今また鼓動を響かせだす、ほんの1時間ほど前にいた白銀の世界から意識が夜へ向う。
こんなふうに自分が怯えて悩むだなんて、今まで一度も知らなかった。

―雅樹さんにはコンナに悩まなかったのにね、ほんとに雅樹さんのコト信じ切ってたから…でも今しかない、

英二と対等でいられるのは「今」しかない。

もう明後日には帰国の飛行機に乗る。
そして青梅署に戻ればもう2日後に自分は異動し、昇進する。
それから後はもう、英二と自分は部下と上司の立場に別れて、ただ「ザイルパートナー」だけではいられない。

―今しかない、それに機会が次あるのかなんて誰にも解からない、もう後悔するのは嫌だ、ね…

ほんとうに「今」を見つめる事しか出来ない、そう自分は16年前に思い知らされた。
あの夏に雅樹と見つめた夢と約束、そして想いと、その全てが絶たれた瞬間の恐怖と哀しみを繰り返せない。
あの夏にふたり見つめあい重ねあった時間と感覚、この永遠の秘密に泣いた傷痕から今、明日へと向き合いたい。

―雅樹さん、雅樹さんも望んでくれるのかな?俺が誰かと本気で想い合って、抱きあうこと…雅樹さんじゃないヤツとして、いいの?

きらめく夏に抱きあった永遠の秘密は、もう枯れることのない花となって今も心に咲いている。
季節が色を変えて幾度と廻っても、この永遠だけは輝いて自分の全てを明るく照らすだろう。
この永遠が愛しくて想い募るまま、懐かしい声が記憶から静かに微笑んだ。

『光一。大好きだよ、本気で。だから十年後を約束させて、十年、僕を待たせていて?』

まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で約束と夢と自分を造りあげた。
あのとき抱きあった秘密を信じたくて自分は待っていた、けれど十年の約束はもう叶わない。
訪れた十年後の残酷な現実に泣いて、諦めて、半分は「山桜」のためでも半分は自棄で女と一夜を遊んだ。
その夜は確かに快楽があった、けれど朝には虚無が世界を色褪せさせて、喪った約束の哀しみだけ鮮やかだった。

―虚しかったね、ほんとに…だからもう興味無くなったんだよね、遊びの生えっちにはさ、

明るい草地を歩きながら6年前の虚無を見る。
あの虚しさを知っているから、英二が夜の遊びに倦んだ気持が自分は解かる。
そんな同調もなにか嬉しくて、英二なら触れあうことも楽で安らげるようなっていた。
まだ今の想いを抱く前からずっと英二の体温も香も好きで、英二の隣に眠りたいと想えた。
そんなふうに想える相手は雅樹の他には英二しかいない、だから離れたくなくて繋ぎ留めたいと願ってしまう。

「光一、電話ありがとな、」

綺麗な低い声が笑って、意識ひきもどされる。
そっと溜息ひとつ微笑んで振り返り、携帯電話を受けとり笑いかけた。

「どういたしましてだね、後藤のおじさん、喜んでたろ?」
「うん、おめでとうって笑ってくれたよ。あとマッサージちゃんとして、良く寝ろってさ。それと光一のブレーキを命令されたよ?」

自分のブレーキ役を仰せつかった、そう聴いて笑ってしまう。
やっぱり行動を後藤には読まれていたらしい?愉快で笑いながら訊いてみた。

「明日、メンヒかユングフラウに登るつもりだったこと、バレちゃってるかね?」
「ああ、ばれてると思うよ。だから、ごめんな?」

困り顔で笑ってくれる、そんな笑顔は穏やかに優しい。
この笑顔を信じて夜を委ねればいい?そんな想いに微笑むと英二は言ってくれた。

「メンヒとユングフラウ、次回に延期してくれ。それで明日は一日、のんびり過ごして疲れをとろうな?」

次回に延期、そう言ってくれるのが嬉しい。
この約束が嬉しくて、笑って光一は素直に頷いた。

「うん、解かったよ?延期ならイイよ、」
「ほんとだな?勝手に登ったりするなよ、副隊長は本当に心配してくれてるんだからな、」

念押しに聴いてくれる生真面目が、なんだか可笑しい。
可笑しくて悪戯心が起きる、からかいたくなって光一は唇の端を挙げて笑った。

「ま、ほんとに登りたくなったらね、好きにしちゃうと思うけどさ?その時はフォローよろしくね、ア・ダ・ム、」

言った言葉に端正な貌が、困ったよう笑ってくれる。
そんな表情につい、諦めた「十年後」すら叶うと期待しそうで、鼓動が笑う。
そうして自分の本音に気付かされる、今夜ほんとうは自分がどうしたいのか?

あの約束すら叶うと信じて今夜、唯ひとりに託したい。






(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.16

2012-12-22 00:28:35 | side K2
「信」 共に生き、共に登って、



第58話 双壁side K2 act.16

縁側を風吹きぬけて、柿の木から木洩陽ゆらめく。
涼やかな夕風に前髪あおられる、頬撫でる心地良さに目を細め、門を見る。
ふるい頑丈な門柱から影は蒼く伸び、座りこむ木肌もすこし温くなった。その感覚に時の経過を知って光一は笑った。

―もうじき帰って来るね?

うれしい予兆と縁側から降りて、登山靴の足で横切る庭の木洩陽やさしい。
桔梗の青紫と白が風ゆらぐ、ほおずきの花と早生実の朱色は陽光はじいて、向日葵の黄色が青空映える。
真夏の17時は青空あかるくて、けれど時刻はもう夕暮れだから帰ってくるはず。
そう門から通りを見た耳へと、聴き慣れたエンジン音が届いた。

「帰ってきた、」

笑って縁側に戻るとザックを掴む、その背中へとエンジン音は近づいてタイヤの音も聞えだす。
もうじき門から四駆が入ってくる、そう振向いた視界に紺色の車体が現われて停まった。

「雅樹さんっ、」

名前を呼びかけた先、運転席の扉は開いて長い脚が庭に降りる。
Tシャツとカーゴパンツ姿の長身が扉を閉める、その腰へと思い切り抱きついた。

「お帰りなさい、雅樹さんっ!」
「光一、ただいま、」

綺麗な笑顔ほころんで、長い腕を伸ばし抱き上げてくれる。
ぐんと視界が高くなって夏蜜柑の枝を越し、ずっと青空が近い。
半袖から覗く日焼けと白皙の境界線がまぶしくて、光一は大好きな人の首元に抱きついた。

「アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?」
「うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?」

愉しげに笑って答えてくれる、その快活な笑顔に幸せになる。
嬉しくて楽しくて、想い素直なまんま自分は早速ねだった。

「さ、雅樹さん。吉村のジイさん家に行こうね?」
「その前に僕、奏子さん達にも挨拶したいな。光一も明広さんに、お帰りなさいって言わないとね?」

笑顔で答えてくれながら、今降りた四駆を雅樹は振向いた。
その視線を追いかけた先の助手席、呑気に眠りこむ父の顔が見えて呆れてしまった。

「なに、オヤジってば雅樹さん運転してるのに、自分だけ寝てたってワケ?自分の仕事に付きあわせた癖にさ、ほんとガキだね、」

今回のアイガー北壁登頂は、山岳写真家の父が雑誌からの依頼で撮影目的だった。
それで雅樹をまたザイルパートナーに指名して、雅樹の研究に役立つだろうと口説き連れて行っている。
ちょうど大学も夏休みだったし雅樹も喜んで同行した、それでも父の都合が発端なのにと呆れながらも可笑しい。

―人間ってさ、体は大人でもガキなこともあるね?ガキで大人の俺とは逆だね、

前者の見本な父に笑ってしまう、こういう自由な父が自分は大好きで、嬉しくて可笑しい。
いつも父が雅樹と連れ立つ理由は、医学部2回生で救急法の資格を持ちクライマーの資質も豊かなことに因る。
まだ二十歳の雅樹、けれど理知的な分析力と穏やかで強靭な精神は頼もしくて、山ヤとして男として信頼も厚い。
そんな10歳下の友人を父は心から頼っている、そんな様子が安心しきった寝顔にも見えて子供のようで可笑しい。
可笑しくて笑いながら雅樹に抱きついて、そんな自分と一緒に笑いながら雅樹は教えてくれた。

「明広さん、昨夜は僕の家に泊まっただろ?父も家に居たから、兄も一緒に3人で夜通し宴会してたんだよ、アイガー北壁おめでとうって。
それで昨夜は明広さん寝ていないから、帰ったら現像の仕事もあるし寝て下さいって僕が言ったんだよ。僕はちゃんと寝たから大丈夫だし、」

愉しそうに笑って答えてくれる、その笑顔は透明なほど優しい。
いつも人の好い雅樹、そんな無垢が大好きで嬉しくて、だからこそ父が羨ましくて悪戯心が起きだした。

「なるほどね?じゃあ俺、オヤジを起こして家に入れるからさ、ちょっと降ろしてくれる?」
「うん、光一が起こしてあげたら明広さん、きっと喜ぶね、」

疑いの欠片も無い貌で笑って降ろしてくれる、その笑顔にすこし罪悪感がちくりと刺す。
それが尚更に嫉妬を煽ってしまう、雅樹とアンザイレンしてアイガー北壁を登った父が羨ましくて、タダで済ませない。
そんな気持ち素直に助手席の扉を音も無く開けて、カーゴパンツのポケットからオナモミの実を3つ取出した。
この3個とも父の衿元に入れてTシャツの奥へ落としこむと、呑気な寝顔の前で拍手ひとつ大きく打った。

ぱあん!

音に二重瞼の目が瞠かれて、驚いた貌をする。
そこへ間髪入れずに父の耳元、祖父の声真似で怒鳴りつけた。

「熊だっ、明広!」
「えっ、?」

がばり起きあがった父が、寝惚けたままに狼狽えだす。
祖父と違って猟銃を使えない父は熊が怖い、その恐怖と掴めない状況に周囲を見まわしている。
大柄な父がオドオドする様子は熊みたい?面白くて愉快で笑いが弾けた。

「あははっ、オヤジが寝惚けた熊みたいだね?お帰りなさい、あははっ!」

笑った視界の向こう、困り顔の雅樹が笑いを堪えている。
生真面目でもユーモアが好きな雅樹を喜ばせられた、それも嬉しくて笑っていると節くれた指に額を小突かれた。

「なんだい、光一の悪戯か。また今回もやられちゃったね、あれ?」

欠伸しながら飄々と笑ってくれる、その笑顔がすぐ顰めて首傾げた。
さっき父のTシャツに3個入れたオナモミ、あの草の実が棘で肌を不快にさせるだろう。
呑気に寝ていたお仕置きだね?そんな想い笑って踵返すと、雅樹に走りよって抱きついた。

「雅樹さん、ちょっと茶を飲んだら、すぐ吉村のジイさん家に行こうよ。吉村のジイさんもバアさんも雅樹さんのコト、心配してたよ?」
「うん、父達にも聴いたよ。うちのお祖父さん、何回か新宿の家にも電話くれたらしいね、」

笑って抱き上げてくれながら、雅樹は父の方を見て首傾げこんだ。
その視線を覗きこんで遮断して、父に構わず自分は促した。

「ね、俺ちょっと喉かわいちゃったよ、早く家に入ろ?おふくろ達も雅樹さんのこと待ってるね、」
「それなのに光一、ザック持って登山靴まで履いてるの?」

玄関へと歩きながら笑った言葉に、きっと雅樹は気付いてくれたと嬉しくなる。
嬉しい気持ち素直なまんま、気付いてくれたろう事に笑いかけた。

「おふくろ達に捕まっちゃうと、雅樹さんを独り占めするの遅くなるだろ?だから気付かれないうちに、行っちゃおうかなってね」
「そんなことされたら僕、奏子さん達に失礼な男だって思われちゃうよ、あれ?」

返事してくれながら、ふと気づいたよう雅樹が父を振り返りかける。
その貌へと頬よせ抱きついて、父の様子に気づかれないよう甘えて微笑んだ。

「大丈夫だね、おふくろなら俺がワガママ言ったってコト、ちゃんと解るね。ね、アイガーの話を今夜は聴かせてよね?」
「うん、たくさん話したい事があるよ。途中で光一、眠っちゃうかもしれない、」
「大丈夫だね、絶対に全部、ちゃんと聴くからね、」

会話に笑いあいながら玄関を潜った庭先、父はTシャツを脱いで笑っていた。
あのオナモミは秘密の場所に育つ特大サイズだから、さぞ痛痒かったろうな?
そんな5歳の記憶に笑って今、24歳の自分がアイガー北壁を登る。

―神々のトラバース、白い蜘蛛は落石注意で素早く、頂上雪田は転ぶな、そしてアイガーのキスだね、

雅樹が語ってくれたアイガーを想い、この先のポイントを想定する。
自分でも7年前に同じルートを登攀した、頭脳では何度も山図に道を辿らせデータを見つめ登っている。
初登した17歳の時は後藤とアンザイレンを組んだ、その後藤から「雅樹に匹敵する」と言われた英二と今、登っていく。

―雅樹さん、まだ及ばないとこ多いけど英二、ビレイヤーなら雅樹さんと近づいてるね?まだ1年も経ってないのにさ、あいつ天才だね?

ザイルに繋がれるパートナーへ賞賛が笑い、父が撮影したビデオを思い出す。
それは父と雅樹がザイルを組んだ7年間、高校2年生から23歳までの雅樹がクライミングする姿が遺されている。
山ヤの医師を志す雅樹の研究資料になればと7年ずっと撮り続け、コピーテープを光一にも贈ってくれた。
あのビデオを16年間、もう幾度なのか忘れるほど観て雅樹の動きも呼吸も記憶している。
だから自分には解る、まだ10ヶ月でも英二は雅樹のクライミングに近づいていく。

―来年にはもっと速く登れるね、その次はもっと良いクライミングが出来る、おまえとなら。そうだね、英二?

問いかけ笑って、岩つかむ左手を視界の端に見る。
手首にはクライマーウォッチ『MANASUL』が時を刻み、タイムと高度を示す。
予定より少し速いペースで昇ってきた、このハイペースも英二の澱みないビレイのお蔭だろう。
一昨日のマッターホルン北壁に続いて今日も、全く光一のペースを乱すことなく英二はハーケンを回収し、登ってくる。
その姿をトップの自分は見られない、それでも動きが赤いザイルに伝わり意識野の映像あざやかに見えている。

―ね、雅樹さんなら解かるね?あいつ巧いよ、後藤のおじさんと訓練してるとこ見たけど雅樹さんと似てる、ビデオ観たことないのにね?

こういうところも英二は不思議だ。
性格の根っこが雅樹と正反対、けれど思慮深い静謐は似ていて雰囲気や立ち姿がそっくりでいる。
全くの他人であるはずの二人、それでも二人とも同じに光一のアンザイレンパートナーになった。
この二人への感情は全く違うようで似ている、そんな想い見つめながらザイルの向うへ微笑んだ。

―さて、雅樹さん、英二。アイガーを口説き落とせるかどうか、こっからだね?

ふたりのパートナーに笑いかけ、狭い急峻な岩棚へと踏み込んでいく。
アイガー北壁終盤の第1関門「神々のトラバース」この急勾配のバンドで西へ平行移動をする。
慎重に素早い足許、岩壁を傷付けないよう通り抜けていくと、垂壁の窪みに氷壁地帯が広がらす。

―久しぶりだね、白い蜘蛛。今朝も美人だね、ちょっと通らせて?

常冬の北壁に住む「白い蜘蛛」夏にも吹き荒れるまま永久に凍りついた雪は、蜘蛛になって巣を構えている。
山の守主として住まう白銀の蜘蛛、彼女の機嫌が悪い時に訪れたなら落石を砲弾にして侵入者を拒んでしまう。
けれど今日という日と夜明け間もない今は通してくれるはず、そんな確信にハンマーをふるいハーケンを謳わせた。

コンコン、カンッ、キン、キンッ。

白銀の蜘蛛にハーケンが歌う、永い星霜を佇む者への畏敬を謳いだす。
太古の悠久を凍らす「白い蜘蛛」その年月の記憶に19年前を教えてほしい、そして自分に伝えてほしい。
あの大好きな山ヤはどんな喜びを謳い、ハーケンとアイゼンの軌跡を刻んでアイガーのキスを受けとったのか?

―白い蜘蛛、俺に教えてよ?19年前の山ヤの医学生のことを聴かせて、別嬪で明るくて優しい男だよ?変テコな写真家と登っていったね、

どうか大好きな人の「山」の時間を教えてほしい、そして自分に祝福のキスをして?
そんな想い誇らかにハーケンは謳い、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へとアイゼンが立つ。
ハンマーを振りピッケルとザイルを操る、その指先は凍えることなく動いて三点確保で脚と登っていく。
末端の血流を支配するポイントに英二は薄手のカイロを貼ってくれた、お蔭で爪先まで冷えることなく自由に山を掴める。
こんなふう細やかな手法も英二は考えられる、そんなパートナーを誇らしく笑って静かな蒼白の世界を通過した。

―ありがとね、白い蜘蛛。このあと俺のパートナーがおじゃまするよ、19年前の医学生に負けない別嬪の山ヤだよ、通してやってね?

いま落石は起きることなく通過が出来た、どうか英二が通る時も静かに通してほしい。
その願いに笑って白銀の山守へとパートナーを頼み、そっと岩壁を撫でて祈ると次へ向かいだす。
このアイガーもマッターホルンと同様、氷で岩を固めた地質の為に北壁以外の地点でも落石が多い。
不意に風を吹かす気まぐれと同じに氷は溶けて抱擁をほどき、放れた岩は落石となってクライマーを拒む。
そんな気まぐれを起こす山を雅樹は「ピュアで依怙地な怒りんぼう」と穏やかに笑って話してくれた。

「アイガーの北壁ってね、山を真っ二つに割った断面みたいだろ?きっと北壁はね、アイガーの心を素のまま曝け出した所だって思ったよ。
だから相手を選んでしまうのかもしれないね?心は、誰にでも踏みこませるものじゃないから。そういうの、ピュアなほうが怒りやすいんだ、」

温かい懐に包んでくれる布団の中、綺麗な深い声が語ったアイガー北壁。
あのとき20歳の雅樹が見つめたアイガーの心と今、自分は向き合っていく。

―アイガー、あなたは雅樹さんには素顔を見せたんだね?だって言ってた、あの日は無風で落石も無かったってね。それは今も同じだね?

凍れる岩を透して笑いかけ登る先、頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返す。
太陽は朝に呼ばれて高度をあげていく、けれど蒼い陰翳の世界は陽光から遠く空気も凍てつく。
永久の時が育ます冷厳と岩壁に、人智の彼方から「山」の鼓動がゆっくり充ちていく。

―不思議だね、雅樹さん。本当に山は不思議で大きくて、きれいだね、

ふれる岩壁に19年の星霜と繋がり、二十歳の時を登った雅樹の背中に笑いかける。
この瞬間をアンザイレンザイルに繋ぎあい、共に登って行ける英二の存在に喜びは温かい。
そんな温もりくれる山が愛しくて、ハーケンを撃つ岩肌を少しでも傷少なく保ちたいと願う。
こうして登っていく記憶の対峙に16年が癒されていく、そんな優しい瞬間を与える「山」と恋しあう。

―ね、アイガー?ずっと俺の為に待っていてくれたね、雅樹さんの記憶を今日の為に抱いてくれてたね?英二と一緒に登る今日を信じて、

ゴーグル越しに垂壁の彼方、蒼穹の光と頂に笑いかける。
確実に昇っていく蒼い冷厳は悠久の記憶が眠る場所、そんな深い懐から天辺は近づいていく。
そして大いなる陰翳の時間は終わりを告げて、青と白の耀く頂上雪田をアイゼンは踏んだ。

―…アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?
   うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?

見つめた白銀まばゆい世界に、幼い自分の声と大好きな声が笑う。
あのとき話してくれた光景に今、自分は佇んでパートナーの鼓動をザイル越し感じている。
どこか懐かしく微笑んで雪田の急斜にピッケル立て、蒼穹と銀嶺の境界線に目を細めさす。
ゴーグルを透かして眩しい青と白、いま天へ昇っていく白銀の竜の背に光一は笑った。

「まぶしくって、綺麗だね?アイガーの背中は、」

笑った視界がすこし滲んで涙、ひとつだけ頬伝って落ちた。
そのまま音も無く雪へと吸われて消えていく、その彼方へ蒼いウェアの幻が立ってくれる。
今の自分より4歳若かった雅樹の背中、けれど自分より広やかに頼もしい背中が山頂から笑う。
あの背中に追いつきたくて16年、ずっと山を一番にして自分は生きてきた。

「今、天辺に行くよ?雅樹さん、」

大らかな明るさへ笑って一歩、確実にアイゼンを踏みだし登りはじめる。
ピッケルを携え万が一の時に備えて氷雪を踏んでいく、その頭上から夏の陽光は降りそそぐ。
いま7月の太陽は光が強い、けれど標高三千を超えた世界は永遠の雪に彩られ壮麗なまま佇む。
この下界は緑豊かな季を生命が謳歌する、その同じ瞬間にここでは氷雪きらめき無垢なる光が目映い。

―こことアッチは異世界だね、でも同時に存在している。不思議で大きくて、怖くて綺麗だ、

アイゼンに踏む雪に想い廻らせ、いつものペースで進んでいく。
その胸に腰に繋がれるアンザイレンザイルにパートナーも動き、もう頂上雪田へ着くと解かる。
このまま無事にふたりで天辺へ辿りつきたい、そして約束の夢を一緒に笑い合って山とキスしたい。
そんな願いと踏みしめていく背後、ふっと空気が揺れて光一は咄嗟にピッケルを雪面に立てた。

―英二!

意識が叫んで振り返る、腕はピッケルを握りしめ重心を深く落し込む。
その視線の先でナイフリッジの大気が煽られ、深紅のウェア姿が横転し滑りだした。

「っ、嫌だっ!」

叫んだ心ごとダブルピッケルで体を支え、体重を錘にして腰を落とす。
無意識のまま腕が動いてザイルを繰りだす、ダイナミックビレイにアンザイレンザイルを制動する。
急にザイルを止めれば滑落者のハーネスが引き攣れ、皮膚から筋肉、骨まで痛めつけてしまう。
その衝撃を緩めながらザイルを止めて滑落を終わらせていく、その手ごたえ確実に生まれだす。
けれど、握りしめるザイルの一本がその彼方、かちりと冷たい音に金具が外された。

―チェストのザイルを外した?

かすかな金属音と手応え、けれど瞬間に状況が解かる。
その判断に光一は氷原の下方へ、思い切り怒鳴りつけた。

「ザイルを外すなっ!」

肚から怒鳴った声に、ザイルが的確に止まりだす。
滑落スピードは緩やかになり、深紅のウェアは白銀に留まっていく。
そうしてザイルは完全に停止し、光一は大きく喘いだ。

「…止まった、…ぁ、」

ザイルを掴んだまま姿勢を立て、ピッケルを雪面から抜き取る。
赤いウェアとザイルを見つめたままザイルを手繰り斜面を下っていく、その視界で深紅が起きあがる。
白銀の上に赤い花が咲いたよう座りこみ、黒いグローブの掌は雪を払い丁寧に体を確かめだす。

―無事だ、意識も体もちゃんとしてる、無事だ、

安堵が喉を詰まらせるよう込みあげながら、けれど怒りたくて仕方ない。
その想いに唇引き結んだまま深紅の花を見つめ、傍らに立つと頭ごなし怒鳴りつけた。

「馬鹿野郎っ!」

ぶつけた声に、白皙の貌が見上げてくれる。
その左頬が赤らんで痛々しい、風に倒された衝撃で打ったのだろう。
それでもゴーグルも割れずヘルメットも装着されている、この無事を見つめる向う綺麗な低い声が謝った。

「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」

そんなことで怒鳴ったんじゃないのに?

この誤解が悔しくて哀しいまま、パートナーの隣に座りこむ。
どうして解かってくれないと、もどかしい想いごと深紅の肩を掴んで向かい合う。
ゴーグル越しに真直ぐ見つめて、切長い目の意識が無事な事を確認すると、肚から怒鳴りつけた。

「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」

お互いに援け合うため繋ぎあっている筈なのに?
おまえのこと、俺には救けられないと判断したから、外そうとした?
そんなに俺は頼りないのか、俺のこと独りぼっちに置き去りにするつもりなのか?

―もう置いて行かないでよ、俺のこと独りにしないでよ、もう嫌だ!

心が叫びだして奥深く、8歳の子供がもう泣きだしている。
泣き声に16年前の晩秋が蘇る、黎明の暗闇と哀切が今また心を引き裂きだす。
あのとき無力な子供だと思い知らされた、大切な人を救えなかった無念と懺悔が蝕んで、今また痛い。

「ごめん、」

綺麗な低い声が謝って、その声に心が引き戻される。
それでも喉には重たく冷たい塊が苦しい、そんな想いにゴーグル越しから切長い目が微笑んだ。

「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」

自分の無事を守るプライド、その言葉は嬉しい。
けれど、だったら何故と想ってしまう、ねだってしまう。そんな願いに怒鳴り声が叫んだ。

「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…」

雅樹が消えて思い知った孤独が今、もう怖い。
信じあって結んだ約束が途切れる、その孤独が怖くて不安で苦しい。
どうか信じてほしい、自分の力をもっと信じて認めて傍にいてほしい、もう置いて行かれたくない。

どうかお願い、俺の無事を守ってくれるんなら、ずっと生きて傍にいてよ?







(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.15

2012-12-21 00:09:37 | side K2
「迷」その本心を見つめて、



第58話 双壁side K2 act.15

標高3,026m、ミッテルレギヒュッテから見るアイガーは鋭利な頂で蒼穹を指す。
この東山稜も尾根は狭く、山小屋も土台を谷から支えた上に建築されている。
そして、この北側に切れ落ちた垂壁を自分たちは明日、登っていく。

―今回は俺たちだけだね、北壁は、

心裡に明日を見つめながら、打合せ内容に視線は手帳を奔っていく。
今回のアイガーは自分と英二以外はここで1泊し、ミッテルレギ東山稜をガイドレスで登攀訓練する。
その予定とルートファインディングに問題はないのか、昨日のマッターホルン北壁を登攀した記録から考えていく。

―たぶん高尾署のタイムだと、この予定は難しいね?12時間の山行した翌日なんだ、疲労も残ってるはずだね、

マッターホルン北壁で高尾署が遅れた理由は、ルートファインディングと確保支点の数、あとは登り方だった。
このうち先2点は七機の加藤たちの同行で解消されるだろう、けれど登攀技術の難点と疲労の残存が心配される。
やはり所要時間を増やした方が良い、そんな判断に光一は軽く手を挙げ発言した。

「所要時間を増やした方が良いかもしれません、ガイドレスのルートファインディングは難しいし、夜明け前30分は暗いですから、」

本当は高尾署の体力を考えての判断、けれど敢えてガイドレスと明度を判断材料に挙げておく。
既に本人たちが誰よりも遅れを感じている、それなのに今ここで指摘したら劣等感を刺激するだけだ。
そんな考えに示した提案に、リーダーの加藤が山図へ訂正を入れながら尋ねてくれた。

「所要時間をプラス30分、山頂8時半に変更します。ルートについてアドバイス頂けますか?」
「はい、最初の狭い岩場続きとタワーが連続する辺り、ここは強風も起きるので姿勢と重心に気を付けてください。とにかく集中を、」

応えて話しだすと、各自が山図を確認しながらメモを取り始める。
隣では英二もペンを奔らせている、そんなパートナーに微笑んで光一は続けた。

「FIXロープの辺りは足場がありません、そこでは腕力が頼りになります。なので足場があるポイントは脚力を使って腕力を温存して下さい。
FIXロープは50mの長さになる地点もありますが、救助訓練を想定すれば難しく無いです。下山の南稜ルートも上り下りの連続になります、」

下山ルートは自分たちも同じ南稜ルートになる。
東山稜も南稜も、鋸歯のようなエッジが連続する稜線であることは変わらない。
そのルートを脳裡に描きながら光一は自分たちの予定を告げた。

「私と宮田はこの後、アイスメーアに戻ってクライネシャデックからアルピグレンに入ります。ベースキャンプのデポはテント一式のみ。
天候確認の後、5時スタートで山頂に8時、下山は南稜ルート経由で9時半メンヒヨッホ、30分ほど休憩してユングフラウヨッホ駅に11時です、」

今夜は久しぶりのテント泊になる、だから今も装備を背負ってミッテルレギヒュッテまで登ってきた。
そのうちテントやコンロなど共有装備を英二が担当していることを、遠征メンバー全員が把握している。
いつものよう英二は軽々と背負い標高3,026mを笑って歩いていた、そんな姿への視線は「賞賛」だった。
こんな細かい所からも英二への信望を高めたい、そんな意図を想う隣から加藤が尋ねてくれた。

「私たち東山稜は8時半登頂の予定ですから、若干、国村さん達の方が速いな。でもアルピグレンBCのデポ回収は行きましょうか?」

リーダーの加藤はアイガー北壁登頂の体力消耗を配慮してくれる。
けれど英二と自分なら問題ないだろう、それを穏やかに伝える為に光一は一歩退いた言葉で笑った。

「自分たちでやります、それも訓練の内なので。でも疲れてダメそうだったら、お願いするかもしれません、」

全部を自分たちでやれる、そう言うのは「流石だ」と想わせると同時に嫉妬も買うだろう。
そんな考えにした表現へ、加藤は敬意の眼差しで笑ってくれた。

「本当に国村さんはタフだな、さすがです。俺たちも8時を目指して登頂しますが、遅れたら予定通りグリンデルワルトのホテルに集合で、」
「はい、登頂したら無線の連絡は入れますが、出れない状況なら無視してください、」

会話をしながら加藤の言葉遣いに変化が感じられる。
昨夜、ツェルマットのホテルでミーティングした時は殆ど敬語を遣っていなかった、けれど今は違う。

―たぶん高尾署の件があったからかね?

昨夜、夕食に遅参した高尾署の二人に対して自分は怒らなかった。
もちろんミスの指摘はした、技術の研鑽が訓練の目的であるなら是正は必要だろう。
この指摘内容は以前と変わらない、けれど語調や態度は随分と変わった自覚は当然ある。
そんな変化の一番大きな要因は英二から影響を受けたことだろう、それを加藤たちも気付いてくれると良い。

―俺が変ることで英二の評価も上がるってモンだね、一石二鳥だよ?その辺を加藤さんも気付いてるとイイけどね、

今回の海外遠征訓練のリーダーである加藤は29歳、自分たちより5歳上の大卒で年次は高卒任官の自分より1年上になる。
階級は光一が1つ上の警部補だけれど、警視庁山岳会でも加藤は1年先輩だから当然のよう態度は今まで「先輩」だった。
けれど今日の加藤は素直な敬意を示してくれる、そんな様子を視ながら打合せは終わりコーヒー1杯の後で英二と出立した。



午後9時、オーバーハングの岩壁は蒼く夜へと沈みこむ。
紺碧の中天に星は銀いろ耀いて、ベルニーズアルプスを静謐が充たしていく。
東の涯へ透明な朱金は沈みゆく、その方角にある故郷の山と優しい俤を見て光一は微笑んだ。

―周太、明日はアイガーの天辺に英二を連れていくよ?最高の写真を撮って、無事に君の許へ帰らせるからね。でも、明日の夜は、

明日、無事に下山して夜を迎えたら、自分は英二に告白するだろう。
周太が贈ってくれた紙袋を開き、恋人の時間を求め合いたいと告げる。そのことに心が痛い。
いま故郷は明日の午前5時、この8時間の時差を超えて大切な俤を見つめながらアイガーの前、英二と並んで座っている。
この隣を護りたいと願う、その願いはアンザイレンパートナーとしての想いが強くて、そして明日の夜に迷いが生まれる。

本当に自分は、英二と恋人関係になりたいのだろうか?

雅樹の山桜と周太を重ね、約束ごと今も雅樹を想い続けて、雅樹にまつわる全てが自分の宝物でいる。
いま見上げるアイガー北壁、その威容にも雅樹が登った瞬間の残像を追って、19年前の幻を見つめてしまう。
こんなに雅樹を想う自分、だから自分を疑ってしまう、英二への想いは「雅樹の身代わり」かもしれない?
そんな想いに周太への自責がこみあげて尚更に迷う、本当に自分は英二との夜を望むのか?

―雅樹さん、俺は本当に英二に抱かれても後悔しないのかな?

本当に現実になれば、周太が傷つかない訳がない。
あの紙袋を確かに周太は贈ってくれた、それが光一の背中を押す為と解っている。
その全てが周太の英二に対する深い愛情と、自分に対する願いだとしても、周太の傷つくことを案じてしまう。
こんな全てへの回答を周太はくれた、富士山を見上げる森で言ってくれた、その言葉を信じないことは出来ない。
明るい木洩陽のなか笑ってくれた黒目がちの瞳、あの眼差しの無垢な強靭を記憶に見つめて光一は微笑んだ。

―結局のとこ、俺がいちばん臆病ってことなんだろうね?雅樹さんのこと、今も待っていたいって未練だね、

自分の弱さが露呈する、それが可笑しくて楽しくもある。
ずっと16年間を向きあえなかった傷に、こうして向きあっている自分が愉快で良い。
そんなふう笑い飛ばして見上げたアイガーへ、心の芯から光一は笑いかけた。

―ね、アイガー?あなたのことを「人食い壁」ってみんな言うけど、プライドがちょっと高いだけだね、俺と一緒だね?

nordwand北壁、そして一字違いでmordwand殺人岩壁
いま見上げる蒼黒く沈む闇の壁に、数多のクライマーたちが挑んでは死へと墜ちた。
そんな山の気持ちは解かる気がする、自分も今まで近寄りすぎる者を散々払い落としてきたから。
この自分に触れていいのは雅樹と「山」だけ、そう想い続けた涯に出逢えたのは英二だけだった、この気持ちに山へと語り掛けた。

―あなたは19年前、雅樹さんに恋して良いタイムで登らせたよね?きっと英二のことも気に入るよ、だから無事に登らせてやってよね、

肚の底から山に笑いかけ、アンザイレンパートナーの無事をねだる。
そうして見上げる頂はアルペングリューエン耀いて、薔薇色の光彩は羞んだ紅潮を想わす。
マッターホルンよりずっとツンデレな恥ずかしがり屋、そんな山に笑って光一は隣をふり向いた。

「英二、なに考えてる?」

笑いかけてマグカップの熱いスープを啜りこむ、その視界に英二が振向いてくれる。
ほっとする熱が喉すべり落ちる向こう側、白皙の貌は凛々しい緊張がいつもより堅い。
どうしたのかな?そう見つめた先で英二は正直に想いを吐露してくれた。

「ここってさ、有名なクライマーが沢山登ってるだろ?みんな俺よりずっと経験も才能もあって、でも中止したり亡くなったりしてる。
そういう場所に俺が登っても良いのかな?って考えてた。まだ1年も山の経験が無い、そういう俺が登るのは烏滸がましい気がしてさ、」

まだ1年どころか10ヶ月、この短期間で英二はアイガー北壁に挑むだけの実力を身に着けている。
そう判断したから後藤と蒔田も経験年数を問わずに参加させ、英二に実績と信望を積ませようと考えた。
その期待に応えられるのか?そんなプレッシャーも正直なまま英二は口にした。

「本当はさ、今回の訓練に俺が参加することは、反対意見の方が多かったんだろ?青梅署以外では。それでも副隊長たちは信じてくれた。
それは俺にとって本当に嬉しいんだ、だから余計に今、ちょっとプレッシャーって言うのかな?失敗できないって肩に力が入ってるんだ、」

期待とその反対意見、信頼と不安、羨望と嫉妬。
そんな視線を受ける立場は容易ではない、それを初任総合が終わったばかりで英二は背負っている。
こうした英二の現実が決ったのは1年前、警察学校の山岳訓練で英二が周太を救助したことだった。
初心者が要救助者を背負い雨後の崖を登りきった、それが英二の素質を示し今に繋がっている。

―だから英二の場合、本人も周りも想定外すぎるんだよね、俺と違ってさ、

自分は警視庁に入る前提が警視庁山岳会長の後継だった、その為に実績を作って任官している。
そういう事情だから自身も周囲も最初から覚悟していた、けれど英二の場合はダークホースと謂うしかない。
本人も周りも今回の遠征訓練に対して強張ることは仕方ない、そう覚悟したとおりに加藤たちから意見もされている。
たぶん今の英二は体から強張っているだろうな?心ごと少しでも解したくて光一は笑いかけた。

「そりゃ無理ないかもね?どれ、」

スープを飲み干しカップを置くと、立ち上がって英二の背後に回りこんだ。
見おろすダークブラウンの髪に残照が艶めく、その耀きが宵の明星を想わせる。
ホント髪ひとすじまで別嬪だね?そんな感心をしながら声かけた。

「ほら、カップこぼさないように気を付けてね、いくよ、」
「え?」

なんだろう?そう見上げてくれる貌が白く薄暮へ浮ぶ。
その切長い目に笑いかけて、英二の両肩に手を置くとゆっくり揉み解しはじめた。

「うん?ちょっと凝っちゃってるね、下山の後と昨夜と、ちゃんとマッサージした?」
「したけど巧くないんだろな?ありがとな、」

笑って前を向き礼を言ってくれる、その気配が懐かしく温かい。
いつも雅樹にもこうしてマッサージしたな?なんだか嬉しく微笑んで今のパートナーに率直な気持ちを告げた。

「前にも俺は言ったよね?確かに山は卒配からで10ヶ月だ、でも毎日この俺がヤる訓練に付きあえるの、おまえくらいだね。
正直に言うとさ、おまえが付いて来れるなんて最初は思っちゃいなかったよ。でも、おまえは一度も弱音を吐かずに付いてきた。
いっつも笑って、山でも寮でも俺のペースに合わせてくれる。それで昨日も予定時間通りに登ってくれた、英二にしか出来ないね、」

初めて逢った時、雅樹と似ていると思ったけれど「山」の適性は未知数だった。
けれど10ヶ月に英二の素質と努力を見つめて確信は今もう深い、それと同じよう周囲も認めるだろう。
その予想に違わず今日もミッテルレギヒュッテで打合せの後、七機の村木は英二への呼び方が変わっていた。

―宮田くんから「宮田さん」になってたよね、ま、村木さんは宮田の次に若手だけどさ、

七機の村木は大卒任官4年目26歳、今2年目の英二に次いで年次が若い。
年齢も2歳差で真面目な明るい性質だから、今回のメンバーでは最も英二に馴染みやすいだろう。
そう考え廻らせ話しながら揉んでいく肩が徐々に解れてくれる、このまま精神的にも楽になってほしい。
そんな想いに微笑んで手を動かす肩越しに、英二は振向き笑いかけてくれた。

「ありがとう、俺のこと信じてくれて、」
「だよ?ホント俺には、おまえしか居ないんだからね。自信持ちな、絶対に明日も完登出来ちゃうね、」

本当に自分には、英二しかいない。
その本音に笑いかけた光一へ、前を向いた綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、お祖父さんとお祖母さんにマッサージするんだ?」
「まあね、二人共ぼちぼちイイ歳だしさ。おやじとおふくろにもしてたね、」
「あと田中さんと、雅樹さんもだろ?」

質問に鼓動ひとつ、心を叩く。
ついさっきも北壁に見つめた俤を想い、素直に答えた。

「うん、山の時はよくしてたね、」

告げた答えに英二の体が解れて、緊張が寛いだことが解る。
これなら明日は大丈夫だろう、嬉しくて微笑んだとき端正な笑顔が振向いた。

「光一、終ったら交替しよう?そんなに俺は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?」

どうして、英二?

ぽつんと心が呟いて、16年前の声が記憶から微笑んだ。
いつも雅樹が言ってくれた台詞を今、そっくりにアンザイレンパートナーが言ったから。

―…ありがとう光一、交替しよう?そんなに僕は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?

奥多摩の山で、富士で穂高で、ふたり山に連れ立った後は必ずマッサージし合った。
いつも長い指が与えてくれた優しさが蘇える、懐かしさと愛惜が温められて瞳に昇りだす。
あのころ笑い合った「約束」の1つを見上げている今、言われたら心揺らされずにいられない。
どうして英二はいつも、こうなんだろう?途惑いながらも素直に嬉しいまま、光一は笑った。

「なに、おまえ?雅樹さんと同じ言い方して、」
「あ、そうなんだ?」

切長い目が穏やかに微笑んで、綺麗な笑顔ほころばせてくれる。
その笑顔がただ嬉しくて優しくて、想い素直なまま英二に抱きついた。

「そうだよ?ホントおまえって、不思議なヤツだね…なんでいつも、」

頬よせた頬を撫でるのは、深い森の香。
抱きしめた肩は鍛錬に逞しく広やかで、ウェアは深紅と黒。
香もラインも色彩も、どれもが「英二」だと教えてくれて、それが嬉しい。
いま抱きついている人が大好きで、そんな想いごと頼もしい腕がやわらかく抱きしめてくれた。

―ほっとするんだよね、英二にくっつくと…こういうの、えっちしたら変わっちゃうのかな、

温かな懐に寛ぎながら不安かすめて、相反する二つに涙こぼれる。
この温もりを失いたくない、そんな本音が8歳の子供のまま泣いて踏み出すことが怖い。
こんな途惑いは16年前のとき抱かなかったのに?そう気付かされて雅樹と英二の差に微笑んだ。

―雅樹さんのコト信じ切ってるからだね、俺のこと絶対に拒絶しないって…でも英二だと怖い、

出逢って10ヶ月、その月日では「絶対拒絶しない」と信じきることは未だ難しい。
だから昨日の下山後、英二がホテルの部屋から出て行ったとき、拒絶されたようで怖かった。
そんな不安が新しい関係を拒ませる、もう何度も考えて覚悟してきたのに明日の夜が今、怖い。

―怖いね、俺。北壁よりも告白のほうが怖いよ、アイガー?…雅樹さん、俺って臆病だね、

そっと山へ微笑んで懐かしい俤に笑いかける。
こんなふうに自分は今も雅樹に甘えたくて、そんな想いごと英二に抱きついてしまう。
本当に自分はどうしたい?この迷い真直ぐ見上げた北壁は、穏やかな沈黙のまま紺碧の黄昏に佇む。



“Eeger” アイガー 標高3,975m。

グランドジョラス北壁ウォーカーバットレス、マッターホルン北壁と並ぶ三大北壁として知られる。
いま登っていくアイガー北壁は高差1,800m、この高さと屏風状の地形に太陽光も届かぬ垂壁は冷厳が夏も蹲らす。
そして大西洋の荒天から影響が大きい、またヨーロッパ平原の北東風をバックネットのよう受けるため突発的暴風が凄まじい。
こうした地形と立地による悪天候の多発は落石の頻発と夏の吹雪すら起こさせ、クライマーの命を呑みこみ「死の壁」と呼ばれる。
不意に風の衣を動かしては人間を振り落す、そんな気まぐれの誇り高い山は自分と似ていて、愉快な想い登っていく。

―マッターホルンは雲だけど、あなたは風だね?自由に気ままに動き回ってさ、俺も同じだよ。似た者同士だね、だから素顔でいてよ?
  似た者同士なら恥ずかしがることもないね、だから俺と素顔でキスしてよ?19年前、すっぴんで雅樹さんと恋したみたいにさ?

声なき言葉で呼びかけながらハンマーをふるう、そしてハーケンは誇らかに歌いだす。
高い金属音に岩壁は楔を受入れていく、そしてカラビナとザイルをセットし確保支点を造り、登っていく。
見上げる傾斜は雪も積もり難いほど垂直に切れ落ちて、ゆっくり明けはじめる曙光に黒い山は耀きだす。

―アイガー、雅樹さんを憶えてるね?天使の笑顔した山ヤの医学生だよ、あなたのこと嬉しそうに話してくれた、だから俺は逢いに来たよ?

8歳の夏、梓川の畔で聴いたアイガー北壁。その3年前にも登頂した直後、雅樹は5歳の自分に話してくれた。
まだ自分は保育園児でなんのキャリアも無くて、医学部2回生の雅樹は三大北壁を2つと6,000峰2つに記録を持っていた。
けれど光一を子ども扱いせずに一人前の山ヤとして対等に話してくれた、そんな雅樹をもっと大好きになった。
幸せそうにアイガーを語る笑顔は心にあざやかで、今も登っていく先に蒼いウェアの背中を見つめている。

―雅樹さん、今日も一緒に登ってるよね?約束を叶えてくれてるね、

登っていく垂壁に集中しながら心深くは呼んでいる。
懐かしい笑顔と綺麗な深い声、穏やかで明るい眼差し、抱きしめてくれる懐の温もり。
そして山桜の香が時おり、ゆるやかな風になって頬を撫で髪を揺らし、そっと吹きぬける。
この気配に信じている、自分のアンザイレンパートナーは今も変わらずに、この心に生きて共に登っていく。

―信じてる、誰が違うって言っても俺は信じてる、俺の隣にちゃんと帰ってきて一緒に登ってるね?英二のことも守ってくれてるね?

祈りに笑いかけ登っていくのは、数々の栄光と悲劇を風の衣に纏わらせる岩壁。
けれど自分が見つめるのは19年前に駆け抜けた背中と、16年前の約束と夢と、大いなる垂壁への畏敬の想い。
モルゲンロートに耀く山の喜びを想い、手招くようオーバーハングする岩に導かれ、集中は深く壁を読みながら意識に雲と風を聴く。
三点確保で登攀して岩肌を撫で、ハーケンを撃ちこんでランニングビレイをとり、山懐に抱かれる歓びに笑ってハーケンの歌を聴く。
そうして山と向き合う胸と腰には赤いザイルが繋がれて、その先にアンザイレンパートナーの鼓動と呼吸が真摯に伝わってくる。

―英二、おまえを信じてる、生きて俺をビレイ出来るのは英二だけだね。雅樹さんの夢を叶えられる唯ひとりだ、雅樹さん、英二を護ってよ?

心の底から呼びかけながら登っていく、その右から太陽が生まれる。
陽光の届かない雪と氷と岩、蒼と白と黒の世界にも夜は薄れて青い翳の一日が目覚めだす。
明るんでいくゴーグルの視界に吐息は白く、規則正しいリズムで燻らせ朝の訪れを知る。
そして進んでいく岩壁の先、刻々と華やぎだす暁は蒼穹に向かうルートを顕わしだす。

この岩の向こう、約束の「点」はもう直ぐに。





(to be continued)

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