連休になりました。大雨です。写真は嫁入りのとき持ってきた「国旗」、一度も出してませんね。
今日は「勤労感謝の日」です。子供のころは、学校で「明日は勤労感謝の日ですから、
毎日私たちのために働いているお父さんお母さんに感謝しましょう」なんて、言われませんでしたか?
なんかピンとこない名称ですよね。
「勤労感謝の日」の意味づけは祝日法には「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」と
書かれているのだそうです。ん~本当はとても大切なことだとはわかるけど、現状がねぇぇぇ。
なにしろこの法律がきまったのが、昭和23年、戦後すぐです。私の生まれる前。
ではなんで、こういう祝日ができたか。
母はいつもこの日は「ほんまは新嘗祭(にいなめさい)のことやねんで」と言ってました。
勤労感謝の日の元となった?「新嘗祭」は、元々宮中の行事で、全国あちこちの神社でも行なわれます。
ニュースでもやりますね。
日本は農業で成り立つ国でしたから、宮中でも一番大切な祭祀といわれ、天皇が今でも続けておられます。
これは農業国日本において、まずは「五穀豊穣」が国の民にとっての最大の幸せの素…
つまり翌年一年、民が食に困らないことが一番大事…だったからですね。
その年の五穀の新穀や、御酒などのさまざまなお供物を
天神地祇(てんじんちぎ・天つ神と国つ神、つまり神様全部)に、お供えお勧めし天皇自らもいただくという祭祀です。
今上天皇が、高齢で病の心配もでてきたとき、新嘗祭のやり方を省略する…というニュースがありました。
天皇の行なわれる新嘗祭は、夕方のお参りと、真夜中のお参りと2回あります。
まずは御身の精進潔斎と結髪(今はありませんが)、装束をつけ、神殿に入り祭祀を行なう。
平たく言えば、身支度整え、神様をお迎えしてご馳走し、御身もご相伴に預かり、その後神様にお帰りいただく…です。
これを夕刻と夜中と、2回行ないます。一回3~4時間もかかる行事ですから、高齢ではきついでしょうね。
一般人は、宮中のことは「雲の上」のことのようで、よく知らないわけですが、
こういった「祭祀」はほかにもたくさんあるわけで、レセプションやったり、視察に行ったりだけではないんですね。
新嘗祭は、飛鳥時代から…方式がかわったり、中断もあったりしたようですが、今に至るも続いているわけです。
さて、この祭祀はかつて毎年11月の二回目の卯の日と決められていました。もちろん旧暦。
旧暦は、今のように30日とか31日とか決まっていませんでしたし、毎年かわりましたから、
「何日か」ではなく「十二支を当てはめた、何の日か」を主にしました。
なにしろ年号だってコロコロ変わりましたから、例えば年齢も今のヒトのように「誕生日」ではなく「誕生年」が主。
時代劇などでも、大工留吉 戌年生まれ…なんて言い方をします。干支は一回り12年もありますから、
例えば30代で卯年、といったら当時の人はすぐ「あっ今年○○歳だ」とわかったわけ。
で、この11月の二番目の卯の日だったわけですが、明治5年に「太陽暦」が採用されることになり、
旧暦とのズレが大きくなってしまいました。それで太陽暦にあわせることにしたわけですが、
この太陽暦に合わせての最初の新嘗祭の卯の日が11月23日であったわけ。
これも母の話ですが「新嘗祭」には、学校で「新嘗祭の歌」というのを歌って、お祝いしたそうです。
母は天皇誕生日も「天長節」と、時々言ってました。
この天長節とか紀元節(神武天皇即位の日、2月11日今の建国記念日)など、
宮中の祭祀に関わる日は、天皇陛下の写真(御影)に最敬礼したり、教育勅語を奉読したり、
祭祀に合わせた歌を歌ったりしたのだそうです。母はよく「♪紀元は2600年」と歌っていました。
これは昭和15年にできた「奉祝国民歌」というそうです。当時母は16歳…。
西暦とは違う「神武天皇即位」を初年とする「皇紀」という暦。2600年が昭和15年だったのですね。
結局戦後になってGHQが「天皇行事」をきっちりわけるために、そういうことを廃止したわけです。
そこで「かかわりのある形」として「勤労感謝の日」を作ったわけですね。
本当は、神様に収穫を感謝し、またよき日をすごせるよう勤勉に働き、互いに助け合い、
収穫を絶やさずにすごして、幸せに暮らせるように…という意味合いだったのですね。
確かに今でも大筋は同じですが、農業が中心ではなくなった現代では、働くことは、即「報酬」です。
神様に感謝…より、働いてるおとうちゃんに感謝…のほうが実感あるわけで。
それにしても、リストラだの、ワーキング・プアだの、就職難民だの、ホームレスだの…
あげく「食料自給率40パーセントを切る」というわが日本。誰に何を感謝したらいいのか…。
以前は減反で田んぼが減り、後継者が育たずに農業従事の高齢者が嘆いていましたが、
先日のインタビューでは、高齢の農家の男性が「たとえ息子が跡を継ぐといってくれても、農業はやらせたくない。
作ればつくるだけ赤字だから」と…。跡継ぎを拒む農業国って…。
今「旗日(はたび)」と言っても、お若い方には通じないそうです。国民の祝日のこと。
この日は表に国旗を飾ったから。私の子供のころでさえ、国旗を出すのはお正月だけ…みたいになってました。
愛国心、なんていうと「戦争」を思い出したり、思想的な偏りを感じさせたり、
そういうこともあってか、口にすることはありません。
それでもじゃぁ国なんかどうでもいいのか、といったら、決してそうではないはずです。
自分の生まれた国って、どんな国なんだ?農業国だったのに、なんでも外国に頼る今って、寂しくないか?
日本はどうなっていくのでしょうね。
雨の「旗日」、そんなわびしいことを考えていました。
農業をもっと大切に考え、折り目節目を重んじると私の生活でさえ変わりそうです。
平和な意味で日本古来のものも新しいものも大切に、自分の生活を見直しているの今日この頃です。
とんぼさんのブログ、本当に楽しみにしておりますが、どうかお疲れ、お気をつけくださいませ。
いつもお気遣い、ありがとうございます。
節目のしつらいや飾りつけなど、だいぶ「変形」ではありますが、
できるだけしたいと思っています。
母が農家の娘でしたから、お米は大切にというのが当たり前に育ちました。
私が子供のころが、暮らしの中に便利なものが入ってくる時代でしたから、
昔のものと今のものを比べることが、実感としてできます。
あんまり便利すぎてもなあと、このごろはそれをよく思います。
「感謝」という言葉が、なにによらず浮いて聞こえてしまう世の中ですが、
本当は一番大切なことだと、いつも思います。
旗日だと気づく事が多々あります。
80代のお友達から新嘗祭という言葉をよく
聞きます。
子供の頃には田植えも稲刈りもまだ手作業でしたね。
向かいの子とコモを広げたり丸めたり、遊びの延長で
お手伝いしていた事を覚えています。
今のように機械でアッという間にではなく、何日も
掛かって・・だから喜びも大きかったんですよね。
叔母が歌っていたように思います~~
確か昭和2年か3年生まれだと思うのですが、昔の事をよく覚えていてイロイロと話してくれます。
国旗を立てる家も本当に見かけなくなりましたね。
今はどうか判りませんがうちの子供たちは学校で君が代をキチンと教わらなかったようで私はとても違和感を覚えました(当地では日教組が強いからだと言われましたが)。
その是非はともかく国旗や国歌に敬意を表するのはエチケットだと思うのですがねえ~
旗日という言葉も死語ですねぇ。
機械や先進技術を使うことは、生産量を増やしたり、
労働を軽減したりするには、有効なことだとは思いますが、
なんだかありがたみが薄れるといいますか…。
ご飯粒を残すと「お百姓さんに申し訳ない」と叱られたものですが、
今は、そういう苦労さえ、身近に感じられなくなりました。
君が代については、ほんとにいろいろややこしいことです。
敗戦のおかげで、GHQのいろいろな指図が入って…
そういうこともわからんでもないですが。
昔から歌っていたもの、深い意味など個人で感じればいいことで、
天皇制がどうのこうのより、子供の思い出…ということで
「仰げば尊し」とセットで教えてほしい?!