
写真は、近くの公園の桜…ついこの前まで青々と繁っていたのに、
セミが大合唱していたのに…いつのまにか剪定されてしまいました。
これでも剪定?丸裸じゃありませんか。目を凝らしても、セミは見えませんでした。
セミは葉のない木にはあまり止まりません。天敵から丸見えですしね。
わずかに残ったほかの椿などに移ったようです。
なんだか燃え残った木のようだ…と思ったのは、こんな時期だからでしょうか。
今日は「長崎」の日です。
私が「原爆」を身近に感じることになった町です。
今も大浦天主堂やグラバー邸の庭が思い出されます。
義父が亡くなって、もう少しで15年になりますか…。
その義父も、私の実父と同じ年頃で、存命なら100に近いです。
義父はただただ勤勉で、毎日決まった時間に家を出て、同じ時間に帰宅する…。
わずかな晩酌と、庭弄りだけが楽しみ…という人でした。
私は息子のことで、義父母には全く何も役に立てない状況でしたが、
なにがあっても「お前は息子を育てよ、いつもそばにいてやれ」というだけで、
私に何一つ「やれ」とも「やってくれ」とも言いませんでした。
義父は戦争のことはそれこそ一言も言葉に出しませんでしたが、
遺品の整理をしていて、出てくるのは「戦友会」の資料やらハガキばかり。
そして「相続」のことになって、初めて義父の「人生」を
文書にしたものを目にしました。義父は三度も召集されておりました。
義父は戦後ずっと「電電公社」に勤務し、定年後も嘱託で関連会社に
引っ張っていかれた人です。70過ぎても働いてました。
そんなわけで、戦中の仕事はもちろん「通信兵」、
三度目の召集で捕虜となってシベリアに抑留されました。
シベリアの抑留については、NHKなどでも放映されていますが、
まさしく「飢えと寒さ」が最大の敵、亡くなった人を葬ろうにも、
凍った土はなかなか掘れない…浅く掘って重ねては、春になって土が軟らかくなると、
掘り返して埋めなおす…そんな暮らしだったそうで、
「明日は自分が埋められるのかもしれない」と、毎日考えていたようです。
その凍土に戦友たちを残して、義父が生還したのは昭和24年、
4年間も持ちこたえたのですね。帰国時すでに38歳。
私の実父はそのころ「新しい時代に向けて」と行動していました。
義父は別の形で、つまり「電話通信」という技術の貢献で、
平和な国の建設に携わりはじめたわけです。ひたすら働きづめに働いて…。
義父のアルバムの戦後の写真は、たしかに家族で庭に立っていたり、
たずねてきた身内と輪になって写ったりはしていますが、
それ以外に旅行の写真や遊びの写真があまりありません。
笑顔が多いのは年に一度の「戦友会」、毎年真鶴での写真です。
また遺品を整理するために実家を片付けたわけですが、
必要最低限度のものしかなく、押入れの上段が空っぽなのを見てガクゼンとしました。
オットが言うには「俺に贅沢するなと言ったことは一度もないが、
自分はいつも何も楽しまない、何も遊ばない人だった」と。
よく耳にします、戦友を置いてきたものは、
みな「自分が助かったことを申し訳なく思う」と。
大きな事故や災害など、あの福知山線の脱線事故とかサリン事件とか、
そういう事件や事故などに遭遇してしまった人で運良く助かった人たちは、
みんな「私だけ助かってしまって」と、PTSDになる場合が多いそうです。
PTSDなんてことが言われだしたのは最近のことです。
戦争から無事帰還した人たちの中で、どれだけの人が「罪悪感」を抱えて
生き続けているのでしょうか。誰も「許す」とは言ってくれないし、
いってもらったところで、自分で自分が許せない…。
義父もきっとそうだったのだと思います。
ゴルフなどにも誘われたらしく、一応道具などもありましたが、
ほとんど使われていませんでした。昔の家ですから、庭が広く、
たくさんの木が植わっていましたが、植木屋さんをいれることもなく、
自分でこつこつと手入れをしていました。
できるだけ誰の世話にもならず、できるだけつましく…。
義父の遺骸が戻ったとき、荷物の中に私が送った「羽毛の肩あて」がありました。
寝るとき首から肩を覆うあれです。そのときより何年か前のお歳暮に贈ったものです。
義父の家は暖房も居間に小さなガスストーブがあるっきりで、
寝ていた部屋には、古いさびついたような石油ストーブがひとつ。
そんな中で、肩あてをつけて寝てくれていたんだと思うと、
首筋が汚れ、使い込んで少し羽毛が飛び出しているそれを見て胸が詰まりました。
16年の開戦前から軍に従事し(シナ事変)、何度も召集され、
戻ったときには「あの戦争はなんだったんだ」の状況です。
本人から聞いたわけではありませんが、きっと「残りの人生は余分」と
そんなキモチだったんじゃないでしょうか。
生き残ってしまったのだから、戦友の分も生きなければならない、
だからただ「生きるだけ」でいい…そんな感じでしょうか。
実は、オットは養子、つまりもらいっ子です。母方の身内ですが…。
その話があったとき、義父母には子供がいませんでした。
すでに義母ももう40近かったですから、本来なら「跡継ぎ」という意味で、
いい話であったと思うのですが、義父は最初「うちは子供を持つ気はない」と
断ったのだそうです。「子を持ち、それを育てる」というシアワセも、
最初は「持ってはいけない」と思ったのだと思います。
紆余曲折があって、結局オットは養子として入りましたが、
義父はオットに「何になれ」とか「家をつげ」とか、一切言わなかったそうです。
自由に好きなようにすればいいと。
休まず、楽しまず、ひたすら働いて、ガンになってたった一人でなくなりました。
看護士さんからの電話で容体急変といわれて、すぐにいきますと返事をしたのに、
ちょっとお待ちくださいと言われ、医師に電話を変わったら、
「たった今…」と告げられました。
手術も拒否し、延命もするなといい、最後は突然の悪化で、
オットにも私にも会わないまま逝きました。
義父にとっては、思い通りの最後だったでしょうか。
戦友の無念な死を思えば、病院のベッドの上で最後の時を迎えられるだけでも、
贅沢なこと、だったのかもしれません。
いつも私が話しかけても、照れくさかったのかどうなのか
「ウン」とか「いいや」とかそれだけ…
たまに言葉が出るときは「息子、頼むよ」「体、きをつけろ」…。
生まれて、生きて、働いて、愛して愛されて、
子供を産んで育てて、おいしいものを食べて、
お酒飲んだり温泉行ったり、そして穏やかに趣味を楽しんで…。
そんな「当たり前」の人生を送ることができなかった義父。
戦地から還ってきてからの40年の余、贖罪の思いが消えることは
なかったのだと思います。
我が家の仏壇には、両親の並んだ写真が飾ってあります。
姪の結婚式のときの写真で、義母はジミ目の留袖です。
いつも眉間にしわのよったような無表情な義父でしたが、
この写真だけば、なんとなくやわらかい表情をしているのです。
本当は人並みの幸せなんて味わっちゃいけないと思いつつ、
そういう幸せの場面に自分が居られることを感謝していたのだと思います。
私は毎日仏壇に手を合わせるとき、
「お義父さんお義母さん、今日も私たちは平和で元気ですよー」と
それを必ず言うようにしています。それが一番安心すると思うから。
戦争は、やっている間だけがつらいのでは、決してない、ということを、
その人のその後の生き方にまでも、大きな影響を残すのだということを、
義父の写真をみるたび思います。
世は「当たり前に生きられること」が、一番大切なんだと思います。
真の平和を、心から祈ります。
セミが大合唱していたのに…いつのまにか剪定されてしまいました。
これでも剪定?丸裸じゃありませんか。目を凝らしても、セミは見えませんでした。
セミは葉のない木にはあまり止まりません。天敵から丸見えですしね。
わずかに残ったほかの椿などに移ったようです。
なんだか燃え残った木のようだ…と思ったのは、こんな時期だからでしょうか。
今日は「長崎」の日です。
私が「原爆」を身近に感じることになった町です。
今も大浦天主堂やグラバー邸の庭が思い出されます。
義父が亡くなって、もう少しで15年になりますか…。
その義父も、私の実父と同じ年頃で、存命なら100に近いです。
義父はただただ勤勉で、毎日決まった時間に家を出て、同じ時間に帰宅する…。
わずかな晩酌と、庭弄りだけが楽しみ…という人でした。
私は息子のことで、義父母には全く何も役に立てない状況でしたが、
なにがあっても「お前は息子を育てよ、いつもそばにいてやれ」というだけで、
私に何一つ「やれ」とも「やってくれ」とも言いませんでした。
義父は戦争のことはそれこそ一言も言葉に出しませんでしたが、
遺品の整理をしていて、出てくるのは「戦友会」の資料やらハガキばかり。
そして「相続」のことになって、初めて義父の「人生」を
文書にしたものを目にしました。義父は三度も召集されておりました。
義父は戦後ずっと「電電公社」に勤務し、定年後も嘱託で関連会社に
引っ張っていかれた人です。70過ぎても働いてました。
そんなわけで、戦中の仕事はもちろん「通信兵」、
三度目の召集で捕虜となってシベリアに抑留されました。
シベリアの抑留については、NHKなどでも放映されていますが、
まさしく「飢えと寒さ」が最大の敵、亡くなった人を葬ろうにも、
凍った土はなかなか掘れない…浅く掘って重ねては、春になって土が軟らかくなると、
掘り返して埋めなおす…そんな暮らしだったそうで、
「明日は自分が埋められるのかもしれない」と、毎日考えていたようです。
その凍土に戦友たちを残して、義父が生還したのは昭和24年、
4年間も持ちこたえたのですね。帰国時すでに38歳。
私の実父はそのころ「新しい時代に向けて」と行動していました。
義父は別の形で、つまり「電話通信」という技術の貢献で、
平和な国の建設に携わりはじめたわけです。ひたすら働きづめに働いて…。
義父のアルバムの戦後の写真は、たしかに家族で庭に立っていたり、
たずねてきた身内と輪になって写ったりはしていますが、
それ以外に旅行の写真や遊びの写真があまりありません。
笑顔が多いのは年に一度の「戦友会」、毎年真鶴での写真です。
また遺品を整理するために実家を片付けたわけですが、
必要最低限度のものしかなく、押入れの上段が空っぽなのを見てガクゼンとしました。
オットが言うには「俺に贅沢するなと言ったことは一度もないが、
自分はいつも何も楽しまない、何も遊ばない人だった」と。
よく耳にします、戦友を置いてきたものは、
みな「自分が助かったことを申し訳なく思う」と。
大きな事故や災害など、あの福知山線の脱線事故とかサリン事件とか、
そういう事件や事故などに遭遇してしまった人で運良く助かった人たちは、
みんな「私だけ助かってしまって」と、PTSDになる場合が多いそうです。
PTSDなんてことが言われだしたのは最近のことです。
戦争から無事帰還した人たちの中で、どれだけの人が「罪悪感」を抱えて
生き続けているのでしょうか。誰も「許す」とは言ってくれないし、
いってもらったところで、自分で自分が許せない…。
義父もきっとそうだったのだと思います。
ゴルフなどにも誘われたらしく、一応道具などもありましたが、
ほとんど使われていませんでした。昔の家ですから、庭が広く、
たくさんの木が植わっていましたが、植木屋さんをいれることもなく、
自分でこつこつと手入れをしていました。
できるだけ誰の世話にもならず、できるだけつましく…。
義父の遺骸が戻ったとき、荷物の中に私が送った「羽毛の肩あて」がありました。
寝るとき首から肩を覆うあれです。そのときより何年か前のお歳暮に贈ったものです。
義父の家は暖房も居間に小さなガスストーブがあるっきりで、
寝ていた部屋には、古いさびついたような石油ストーブがひとつ。
そんな中で、肩あてをつけて寝てくれていたんだと思うと、
首筋が汚れ、使い込んで少し羽毛が飛び出しているそれを見て胸が詰まりました。
16年の開戦前から軍に従事し(シナ事変)、何度も召集され、
戻ったときには「あの戦争はなんだったんだ」の状況です。
本人から聞いたわけではありませんが、きっと「残りの人生は余分」と
そんなキモチだったんじゃないでしょうか。
生き残ってしまったのだから、戦友の分も生きなければならない、
だからただ「生きるだけ」でいい…そんな感じでしょうか。
実は、オットは養子、つまりもらいっ子です。母方の身内ですが…。
その話があったとき、義父母には子供がいませんでした。
すでに義母ももう40近かったですから、本来なら「跡継ぎ」という意味で、
いい話であったと思うのですが、義父は最初「うちは子供を持つ気はない」と
断ったのだそうです。「子を持ち、それを育てる」というシアワセも、
最初は「持ってはいけない」と思ったのだと思います。
紆余曲折があって、結局オットは養子として入りましたが、
義父はオットに「何になれ」とか「家をつげ」とか、一切言わなかったそうです。
自由に好きなようにすればいいと。
休まず、楽しまず、ひたすら働いて、ガンになってたった一人でなくなりました。
看護士さんからの電話で容体急変といわれて、すぐにいきますと返事をしたのに、
ちょっとお待ちくださいと言われ、医師に電話を変わったら、
「たった今…」と告げられました。
手術も拒否し、延命もするなといい、最後は突然の悪化で、
オットにも私にも会わないまま逝きました。
義父にとっては、思い通りの最後だったでしょうか。
戦友の無念な死を思えば、病院のベッドの上で最後の時を迎えられるだけでも、
贅沢なこと、だったのかもしれません。
いつも私が話しかけても、照れくさかったのかどうなのか
「ウン」とか「いいや」とかそれだけ…
たまに言葉が出るときは「息子、頼むよ」「体、きをつけろ」…。
生まれて、生きて、働いて、愛して愛されて、
子供を産んで育てて、おいしいものを食べて、
お酒飲んだり温泉行ったり、そして穏やかに趣味を楽しんで…。
そんな「当たり前」の人生を送ることができなかった義父。
戦地から還ってきてからの40年の余、贖罪の思いが消えることは
なかったのだと思います。
我が家の仏壇には、両親の並んだ写真が飾ってあります。
姪の結婚式のときの写真で、義母はジミ目の留袖です。
いつも眉間にしわのよったような無表情な義父でしたが、
この写真だけば、なんとなくやわらかい表情をしているのです。
本当は人並みの幸せなんて味わっちゃいけないと思いつつ、
そういう幸せの場面に自分が居られることを感謝していたのだと思います。
私は毎日仏壇に手を合わせるとき、
「お義父さんお義母さん、今日も私たちは平和で元気ですよー」と
それを必ず言うようにしています。それが一番安心すると思うから。
戦争は、やっている間だけがつらいのでは、決してない、ということを、
その人のその後の生き方にまでも、大きな影響を残すのだということを、
義父の写真をみるたび思います。
世は「当たり前に生きられること」が、一番大切なんだと思います。
真の平和を、心から祈ります。
事の喜びよりも助ける事の出来なかった戦友
への罪悪感が大きかったのでしょう。
贅沢もせずつつましく暮らしてこられた
多くの戦争経験者、終戦後64年経っても
心の傷は癒えずに暮らしておられるのかと
思うと胸が痛みますね。
「戦争は絶対してはいけない、世界中から戦争がなくなればいいのに」
という思いは一番強くあります。
日々の不平不満は受け入れても、戦争だけは絶対に嫌です。
常に思い続けていますが、夏は特に、胸が痛くなるほど思う季節です。
結局「終わった終わった」では、すまないんですね。
この前の番組で、集団自決わやったのですが、
自分の親を殺した人がいました。
どんなにか思いものを背負っていることかと
そう思います。
多少いろいろあっても、戦争のない暮らしが、
一番いいですね。
夏になると、特に戦争関係の番組など、
放映されたりしますので、
ことのほかひしひしと感じます。
特に、戦争をやっている地域の子供たちの
おびえて笑顔もない、血走った目で武器を
平気で手にする、そういう顔を見ると、
オネガイだからやめて!と思うんです。
全て大人の責任です。
平和に笑って、子供が子供らしく遊びまわる、
そういう世界が保障されなければと、
そう思うんですよ。