今日は写真はありません。
ちょっと乗り遅れた話題ですが、「いじめによる自殺」。
私にはひとつだけわからないことがあります。
こういうことがあったとき、また、命ながらえて大人になっての思い出話で
当人の「親にはゼッタイ言えない、言えなかった」…という言葉。
なんという優しさ、という評もありました。
そういうときのための親じゃないか…という意見もありました。
どちらもそう…だよなと思うのですが、やっぱりわかりません。
命を絶つほどの苦しみを、なぜ親にいえないのか、
これは親の方に問題があるのだろうか…。
いやいや、既にわが子は22歳、しかも重度の障害があり、
その育て方は、健常児を育てるのとは大きく違いました。
正直なところ、私の知る「思春期の親子関係」は、既に記憶の彼方である
「自分と母」の関係のみ、おまけに兄弟姉妹のいない私には、自分以外は
いつの場合も「他人様の家の垣根の外から」見聞きしたことしかありません。
そんな状態で、現代の親子関係について何か言うのは、少々憚られます。
それで、もうひとつ、これはもう言い古されたこと「命を大切に」という
そのことについて、私なりの思いを書いてみようと思います。
そのとき、息子は1歳半くらいでした。
このブログに以前から来てくださっていらっしゃる皆様はご承知と思いますが、
私の息子は障害のほかに心臓病なども持っております。
学校へ上がるまではたいへんな虚弱体質で、ほとんど週の半分は病院通いでした。
赤ちゃんは母親から免疫をもらっていて、1年くらいは大丈夫といわれます。
全くその通りで、熱をだしても下痢をしても、なんとか通院で
持ちこたえていた息子が、1歳のお誕生日祝いをやった次の日から、
初めての入院をしました。本人は最悪の状態、親は面会時間がすぎれば帰ります。
幸い10日ほどで退院できましたが、息子は初めての入院のストレスから、
退院してきても情緒不安定になり、少しずつ進んでいた離乳も全く元に戻り、
そばにいないと泣き続ける…。そうこうするうちにまた熱を出して入院…。
これの繰り返しでした。そんなときに、ベランダから見える青空を見ていたら、
ふっと「ラクになりたい」と思ったのです。
当時のマンションは灯台のように、丘のハズレのてっぺんに立っていましたので、
景色がたいへんよかったのです。部屋にすわってベランダを見ると、
空しか見えないのです。綺麗な空だった、それだけは覚えています。
でも私は「ラク」になることを選びませんでした。
そんなことふと思った自分が怖かったです。腕の中のやせ細った息子の、
心臓が動いていました。あったかかったです。
「生きたもん勝ちじゃん!」それが結論でした。
息子のカルテは、一人で5センチくらいの厚さになったけど、
入院も徐々に減って、当時の地元の養護学校に入学しました。
肢体不自由課程、つまり「身体障害」の養護学校でしたから
よけいに人数は少なく、クラスメイトは5人でした。
身体障害と言っても、ほとんどが「知的」にも障害を持つ「重複障害児」です。
そういう子は多くの場合、障害のほかに持病があります。
内臓の病気全般、てんかん、血液の病気、ホルモン関係、染色体異常、
ギランバレーだのなんだの、きいたこともない病名の子も…。
100人ほどの生徒のうち、歩ける子は数人、しゃべれる子もにたようなもの。
一つの学校に、小・中・高等部まであります。ずっと通えば12年。
PTAの委員役員は、順番で持ち回りが当然でした。
私が最初にやった委員が「総務委員」という仕事、
これは「会長」の秘書みたいな役目の委員で、いつも会長と一緒に行動しました。
初めての顔合わせの日、会長が「あなたブラックフォーマル持ってる?」と
私に聞きました。突然でしたから面食らいましたが、
とりあえず古いスタイルのを持ってましたのでそう答えると、
「いつも私と一緒の行動になるから、いつでも出せるようにしておいてね」と…。
理由はすぐにわかりました。それからまもなく、上級生が一人亡くなりました。
顔しか知らない子でしたけれど、哀しくてショックでボロボロ泣きました。
たった15です。帰り道会長が言いました。
「ウチは卒業生のお葬式もでるから、1年のうちに必ず2回や3回はあることよ
覚悟しておいてね」そういう会長の目も真っ赤にはれていました。
息子には、「病院友達・施設友達」というのもいました。学校に上がる前から、
入院だのリハビリだので、いろいろな子に会いましたから。
年上、年下、同い年、病気も障害もさまざまです。
別の養護学校に行った子、同じだけど重度で通えなくて月に1度しかあえない子、
知的にモンダイがなくて、普通小学校へ行った子…。
そして、この22年の間に両手で足りないほどの子と「さよなら」しました。
特にショックだったのは、こちらに越してきて2ヶ月の間に、
同じクラスだった子が二人、続けて亡くなったことでした。
おいそれと遠くまでお別れにいかれない状況でしたから、
同じクラスだったお母さんにお花を頼みました。
ほんの半年前に行った修学旅行、ディズニーランドでの写真を見て泣きました。
そのうちの一人のお母さんが、お花ありがとう、と電話をくれたのです。
肺炎で入院して一度退院したのに、家で容態が急変したのだそうです。
救急車待ってるより早い、とご主人の運転する車で病院へ急いだのだそうですが、
「病院に着く前に私の腕の中で逝ったのよ、あっ今逝ったなってわかったの」、
おかあさんは淡々と話してくれました。息がコトンと切れてね…と。
電話口でオイオイ泣いたのも私、励まされたのも私でした。なしゃけない…。
それからまもなくに、男の子と女の子の先輩が二人、逝きました。
男の子の方は脳性マヒ、脳性マヒの子は「便秘」になりがちなのです。
毎日浣腸していましたが、やがてそれもきかなくなりました。
彼は「血友病」でした。便秘だとどうしても「痔」になります。
でも出血すると、なかなか血が止まらないのです。毎月輸血してました。
医師にできるだけ自然排便を…といわれてお母さんは水分や繊維質を多くとらせ、
毎日朝と夜2回、トイレに彼を座らせて一時間、うしろから支えていたそうです。
毎日の薬があまりにも多量のため、給食後に教師がのませられず、
お母さんが毎日やってきて、40分くらいかけて飲ませていました。
また染色体異常の進行性の病気で、小学生の頃は走り回っていたのに、
高校生のときは車イス、と言う子もいました。
彼は、もう少しで卒業というときに病状が悪化し病室で卒業証書をもらって、
数日後になくなりました。音楽・写真葬で、祭壇はたくさんの写真と
お花でかざられ、その中に「卒業証書」も飾られていました。
ちゃんと卒業して逝きました…というお母さんは誇らしげでした。
息子の卒業が近くなって、もうつらい参列はないかと思っていたら、
卒業生の女の子が亡くなりました。もうすぐはたち。
彼女は、この世で着ることのできなかった
「ウェディングドレス」を着せてもらって旅立ちました。
春と言うにはまだ寒いお天気のいい日でした。
私はこんな人たち、こういう親子の中で暮らしてきました。
だからわからないのです。
なぜ、いじめなんていうことができるんだろう?
なぜ人の命を縮めるほどの毒が吐けるんだろう?
なぜつらかったら親に言わないんだろう?
みんな五体満足で、お互い自分の思いを言葉にして言うことができる、
言葉で意志の疎通ができる、それなのになぜ、毒のある言葉しかでないんだろう。
お互いに一番だいじなところが見えないまま
まにあわなくなってしまうんだろう?
昨日は、就学前に療育センターで一緒だったM君の4回目の命日でした。
生まれた直後の脳内出血で、ほとんど動けなかった彼は16歳で逝きました。
お願いだから、お願いだから自分の命も、人の命も大切にしてください。
彼らはみんな短い人生だったけど、最後まで「生きること」をがんばったよ!
ちょっと乗り遅れた話題ですが、「いじめによる自殺」。
私にはひとつだけわからないことがあります。
こういうことがあったとき、また、命ながらえて大人になっての思い出話で
当人の「親にはゼッタイ言えない、言えなかった」…という言葉。
なんという優しさ、という評もありました。
そういうときのための親じゃないか…という意見もありました。
どちらもそう…だよなと思うのですが、やっぱりわかりません。
命を絶つほどの苦しみを、なぜ親にいえないのか、
これは親の方に問題があるのだろうか…。
いやいや、既にわが子は22歳、しかも重度の障害があり、
その育て方は、健常児を育てるのとは大きく違いました。
正直なところ、私の知る「思春期の親子関係」は、既に記憶の彼方である
「自分と母」の関係のみ、おまけに兄弟姉妹のいない私には、自分以外は
いつの場合も「他人様の家の垣根の外から」見聞きしたことしかありません。
そんな状態で、現代の親子関係について何か言うのは、少々憚られます。
それで、もうひとつ、これはもう言い古されたこと「命を大切に」という
そのことについて、私なりの思いを書いてみようと思います。
そのとき、息子は1歳半くらいでした。
このブログに以前から来てくださっていらっしゃる皆様はご承知と思いますが、
私の息子は障害のほかに心臓病なども持っております。
学校へ上がるまではたいへんな虚弱体質で、ほとんど週の半分は病院通いでした。
赤ちゃんは母親から免疫をもらっていて、1年くらいは大丈夫といわれます。
全くその通りで、熱をだしても下痢をしても、なんとか通院で
持ちこたえていた息子が、1歳のお誕生日祝いをやった次の日から、
初めての入院をしました。本人は最悪の状態、親は面会時間がすぎれば帰ります。
幸い10日ほどで退院できましたが、息子は初めての入院のストレスから、
退院してきても情緒不安定になり、少しずつ進んでいた離乳も全く元に戻り、
そばにいないと泣き続ける…。そうこうするうちにまた熱を出して入院…。
これの繰り返しでした。そんなときに、ベランダから見える青空を見ていたら、
ふっと「ラクになりたい」と思ったのです。
当時のマンションは灯台のように、丘のハズレのてっぺんに立っていましたので、
景色がたいへんよかったのです。部屋にすわってベランダを見ると、
空しか見えないのです。綺麗な空だった、それだけは覚えています。
でも私は「ラク」になることを選びませんでした。
そんなことふと思った自分が怖かったです。腕の中のやせ細った息子の、
心臓が動いていました。あったかかったです。
「生きたもん勝ちじゃん!」それが結論でした。
息子のカルテは、一人で5センチくらいの厚さになったけど、
入院も徐々に減って、当時の地元の養護学校に入学しました。
肢体不自由課程、つまり「身体障害」の養護学校でしたから
よけいに人数は少なく、クラスメイトは5人でした。
身体障害と言っても、ほとんどが「知的」にも障害を持つ「重複障害児」です。
そういう子は多くの場合、障害のほかに持病があります。
内臓の病気全般、てんかん、血液の病気、ホルモン関係、染色体異常、
ギランバレーだのなんだの、きいたこともない病名の子も…。
100人ほどの生徒のうち、歩ける子は数人、しゃべれる子もにたようなもの。
一つの学校に、小・中・高等部まであります。ずっと通えば12年。
PTAの委員役員は、順番で持ち回りが当然でした。
私が最初にやった委員が「総務委員」という仕事、
これは「会長」の秘書みたいな役目の委員で、いつも会長と一緒に行動しました。
初めての顔合わせの日、会長が「あなたブラックフォーマル持ってる?」と
私に聞きました。突然でしたから面食らいましたが、
とりあえず古いスタイルのを持ってましたのでそう答えると、
「いつも私と一緒の行動になるから、いつでも出せるようにしておいてね」と…。
理由はすぐにわかりました。それからまもなく、上級生が一人亡くなりました。
顔しか知らない子でしたけれど、哀しくてショックでボロボロ泣きました。
たった15です。帰り道会長が言いました。
「ウチは卒業生のお葬式もでるから、1年のうちに必ず2回や3回はあることよ
覚悟しておいてね」そういう会長の目も真っ赤にはれていました。
息子には、「病院友達・施設友達」というのもいました。学校に上がる前から、
入院だのリハビリだので、いろいろな子に会いましたから。
年上、年下、同い年、病気も障害もさまざまです。
別の養護学校に行った子、同じだけど重度で通えなくて月に1度しかあえない子、
知的にモンダイがなくて、普通小学校へ行った子…。
そして、この22年の間に両手で足りないほどの子と「さよなら」しました。
特にショックだったのは、こちらに越してきて2ヶ月の間に、
同じクラスだった子が二人、続けて亡くなったことでした。
おいそれと遠くまでお別れにいかれない状況でしたから、
同じクラスだったお母さんにお花を頼みました。
ほんの半年前に行った修学旅行、ディズニーランドでの写真を見て泣きました。
そのうちの一人のお母さんが、お花ありがとう、と電話をくれたのです。
肺炎で入院して一度退院したのに、家で容態が急変したのだそうです。
救急車待ってるより早い、とご主人の運転する車で病院へ急いだのだそうですが、
「病院に着く前に私の腕の中で逝ったのよ、あっ今逝ったなってわかったの」、
おかあさんは淡々と話してくれました。息がコトンと切れてね…と。
電話口でオイオイ泣いたのも私、励まされたのも私でした。なしゃけない…。
それからまもなくに、男の子と女の子の先輩が二人、逝きました。
男の子の方は脳性マヒ、脳性マヒの子は「便秘」になりがちなのです。
毎日浣腸していましたが、やがてそれもきかなくなりました。
彼は「血友病」でした。便秘だとどうしても「痔」になります。
でも出血すると、なかなか血が止まらないのです。毎月輸血してました。
医師にできるだけ自然排便を…といわれてお母さんは水分や繊維質を多くとらせ、
毎日朝と夜2回、トイレに彼を座らせて一時間、うしろから支えていたそうです。
毎日の薬があまりにも多量のため、給食後に教師がのませられず、
お母さんが毎日やってきて、40分くらいかけて飲ませていました。
また染色体異常の進行性の病気で、小学生の頃は走り回っていたのに、
高校生のときは車イス、と言う子もいました。
彼は、もう少しで卒業というときに病状が悪化し病室で卒業証書をもらって、
数日後になくなりました。音楽・写真葬で、祭壇はたくさんの写真と
お花でかざられ、その中に「卒業証書」も飾られていました。
ちゃんと卒業して逝きました…というお母さんは誇らしげでした。
息子の卒業が近くなって、もうつらい参列はないかと思っていたら、
卒業生の女の子が亡くなりました。もうすぐはたち。
彼女は、この世で着ることのできなかった
「ウェディングドレス」を着せてもらって旅立ちました。
春と言うにはまだ寒いお天気のいい日でした。
私はこんな人たち、こういう親子の中で暮らしてきました。
だからわからないのです。
なぜ、いじめなんていうことができるんだろう?
なぜ人の命を縮めるほどの毒が吐けるんだろう?
なぜつらかったら親に言わないんだろう?
みんな五体満足で、お互い自分の思いを言葉にして言うことができる、
言葉で意志の疎通ができる、それなのになぜ、毒のある言葉しかでないんだろう。
お互いに一番だいじなところが見えないまま
まにあわなくなってしまうんだろう?
昨日は、就学前に療育センターで一緒だったM君の4回目の命日でした。
生まれた直後の脳内出血で、ほとんど動けなかった彼は16歳で逝きました。
お願いだから、お願いだから自分の命も、人の命も大切にしてください。
彼らはみんな短い人生だったけど、最後まで「生きること」をがんばったよ!
私も連日のように「いじめによる自殺」のニュースを
見ていてやりきれない気持ちです。
自らの命を絶つほどの苦しさ、辛さ・・・
なぜ解ってやれなかったのかと親や周りの人は、自責の念にかられ、苦しみ続けます。
またいじめた方も「まさか!」と思っていじめている
のかもしれませんが、命を絶たれたら自分のせいでと
一生重い十字架を背負わなければなりません。
楽しいはずの青春をこんな風に過ごしてほしくないと
切に願っています。
ボクの叔母はそういう施設で働いてたんです。
で、ボクもチョコチョコとグランドピアノ弾きたさに遊びに行ってたんです。
今頃はそんな事は出来ないかもしれないですけどね。(苦笑)
で、一緒に施設の生徒とピアノ弾いたりして遊んでたんです。
時には一緒に遊んでた生徒さんが事故や病気で亡くなられたという事も聞いたりしてました。
そんな事を経験していたのにその後のボクは「楽になりたい」って思ったりしたんですよね。。。
親に言えないのは心配させたくないからです。
我が子が弱い人間だと知られたくないからです。
悪態をつくのは自分を守るためです。
でもそうやって追い詰めるのは自分なんです。
さらに自分を追い詰めると「楽になりたい」って思ってしまうんです。
でもこの自分中心の考え方は間違ってます。ふむ。
ちょっとね、文章を読んで「自分を客観的に見る事が必要だな」って思いついたので感謝です。(笑)
ですが 今の子のように よってたかって
一人の子をいじめるなんて事はなかったです。
いじめられてる子がいれば 助け船を出す子もいた。
だから登校拒否の子はいなかった。
親を親とも思わない、先生と信頼関係を結べない
子が多すぎます。昔は何か事件や事故があっても
学校のせいばかりにする親なんていませんでした。
男の子の親は 言うこと聞かなかったらゲンコツOKと
先生に言ってましたよ。だから先生も真剣に仕事した。
私の世代は家で怒られ 学校で怒られ でも毎日
楽しかった。20年位前から世の中おかしいです。
障害を持っていることによって、生きること自体がそこまで大変なのだと言うこと、知りませんでした。
私たちは、生まれてきたら、何があっても、どんな運命を背負わされようとも、やはり、生きぬかなければならない、と、思いました。
せっかく生まれてきたのに、人を傷つけることでしか自己表現できない、人をいじめることでただストレスを発散する人、そんな人たちは本当には生きてるとはいえません。そんな人たちのために死ぬなんて、本当にばからしいことです。
ただ、いじめる側の子供をつくっているのも、大人であり、社会であり、彼らも犠牲者であると、最近思っています。
イジメにあった自分の子に対して、
これだけケアしてあげているのに、とか
○○してあげているのに、なぜ、とか、
疑問に思うばかりで、とにかく、
注意深く見守ることができない親だと、
子も心底から、親に信頼を寄せられない。
そのような親子関係は、かなり表面的な関係。
子の苦しみを正面から受け止められない親。
とんぼ様の場合、注意深く見守る子育てが、即ち、
親子関係ですので、表面的な親子関係など
あり得ないかと。
ですので、理解しがたいと仰るのかも~
なんで、こんなに断言できるのと疑問でしょうが、
守秘義務がありますので、これ以上は、堪忍~~
その時に半年くらいいじめに遭いました。
小学校5年生の時です。
家族以外知っている人がいない中に飛び込み、友達もできず、クラスの人から無視され、半年くらい本当に苦しかった記憶があります。
でも、やっぱり親には言えなかったですねー
きっと親は言ったら助けてくれようとする、と分かっていました。
けど、親に言っても何も解決しないということも、子供心に知っていました。
「いじめられる方も悪い」というのは、あり得ないとは思いますが、子供達にも先生にもあったのを感じていましたので。
どんなに親が戦ってくれても、結局子供の世界のルールに従わなければ、私は受け入れられない、そう思っていました。
なので、親には心配をかけたくなかったです。
自分なりに半年くらい戦って、いつの間にか子供の世界のルールにのっとり、受け入れられるようになりました。
その後、母親は他のお母さんから、私がいじめられていたことを聞き
「何で言ってくれなかったの?」
と私に聞きました。
だって、心配かけたくなかったもん。
絶対に母は、私のために戦ってくれる人です。
でも、やっぱり大切な人に心配をかけたくない、子供だからこそ思うのだと思います。
大人になった今、いじめを乗り越えた今、思います。
いじめられて自殺したいって思う子たちに伝えたい。
いじめって小学生や中学生の間だけのこと。
(私が受けたいじめは、今問題視されるほどの悪質なものではなかったけど)
だから、学校に行かなくなったっていいから、なんとかあと数年、死なずに頑張って欲しい。
大人になれば、それぞれの個性って否定されなくなるから。
自分なりのスタイルを認めてくれる人が現れるから。
そんなことを最近思ってしまいます。
理由は桜花さんとtokoさんが仰ってくださったので
いじめる方の理屈ですけど・・・
自分はいじめる側になった事が無いので推測ですが
あの人たちは、多分罪の意識なんてこれっぽっちも無いのです
それどころか良いことをしていると思っていたんだと思います
だって、クラスから浮いてる子を教室から排除してるんですから
そんな間違った正義感があるからこそ
いまだに在日外国人や出身者に対する差別が残っているのだと思います
これは子供だけの問題では無いはずです
職場、自治会、色々なところで、今もいじめは起こっています
いじめについて皆さんが一人一人
自分はなにをできるか、少し考えてみてください
それだけでいじめは無くせるかもしれません
いじめられる子は、例えば太っていたり、ちょっとトロいと思われていたり、おとなしくてからかわれても何もいわない子だったように思います。一方いじめる側の子は、どうしようもなく自分中心で我儘な子、お家でいろいろな悩みを持っている子、ご両親が忙しくてほとんど独りの子、劣等感をもっている子、いじめろと脅されてる子などだったかと思います。
言葉で傷つけるだけでなく、肉体的に傷つける場合も稀でしたがありました。リンチと呼んでましたが。そんな時、親や先生でなくても、周りの子、近所の人たちの誰かが必ず気づいて、どうしたのか聞いたものでした。クラスの子が気づいた場合は、職員室へチクリにいったし、学級委員やクラスの強い子達が、「やめろよ!」と立ち上がりましたし、いじめる子が逆にコテンパンにされた。先生も怖かった。体罰もありました。なんというか、クラスの子達も、先生達も、連帯感があったように思うし、先生の威厳もあったと思うし、やっていいことといけないことの区別がついていたと思うんですね。
登校拒否とまではいかなかったけど、しばしば休む子がいて、その子はからかいの対象でした。お腹が痛いといって休むのだけど、先生も、みんなも、心配してお見舞いに行ったり、からかいをやめようとみんなで話し合ったりして、なんとか学校に来てくれるように励ましにいったものです。みんな、周りに注意を払っていたと思うんですね。交換日記なんてのもやってて、誰かにいうことができたし、誰かが助けるというルールみたいなものがあったと思う。
いじめられても気づかない親や教師は、それだけ子供をみつめる時間も心の余裕もないのでしょうか。子供たちも、いじめる子にもいじめられる子にも、関心がないのでしょうか。今より学習のカリキュラムはもっとシビアだったし、生徒数も多かったはずで、先生の負担は決して軽くなかったと思うし、我々も塾通いとクラブ活動で忙しかったけれど、どんなに忙しくても誰かが行きましたね。人のことには関知しない、自分だけで精一杯。今の大人のまねをしているのかもしれないですね。