《11/29読了 小学館文庫(2007年に小学館から刊行された単行本を文庫化) 2010年刊 【評伝 クレイジーキャッツ 植木等】 とい・じゅうがつ(1948~)》
無責任男・植木等の実像は、真面目で堅物で…という話を見聞きするたびに、なんだか腑に落ちないなあ、と思ってました。
いくらなんでも、あれが100%演技ってことはないんじゃないかと。ねえ。
で、読んでみると。
性格的にはむしろ激しい方で、理知的で、明るくて、意外と短気な面もあって、機転が利いて野性的。
つまり、「無責任男」は植木等の実像と乖離していたのではなく、植木等のセルフイメージとかけ離れていたわけです。
他人が見た姿こそが真実に近い、そういうもんだと思います。
「植木さんの本質は三の線ですよ。(略)陽気でうるさくてね」(サックス奏者・稲垣次郎)
そして元付き人・小松政夫との対談で筆者が言う「清潔とか謹厳実直とかいうのじゃなくて、本当の意味で人間的センスがあったんでしょうね。ダンディでスマートな人。今風に言えばクールな人。要するに素の自分に自信があったんじゃないでしょうか」というのが結論でしょう。
本作は、筆者が晩年の植木等を何度もインタビューし、あちこち裏付け取材をしたものですが、
こういう本で鍵になるのが、対象と書き手との関係です。
「まだ運はあるか」の萩本欽一と斎藤明美とのヒリヒリするような真剣勝負、
「島倉千代子という人生」の筆者が抱き続ける切なさと悲しみ、
「細木数子の黒い真実」での記者が見せたある種の畏怖(細木の、もし乱世に生きていたら国を動かしてたんじゃないかってくらいの手腕と機知に対して)、などなど。
書き手はベッタリのファンじゃだめだし、批判一辺倒でも読み通せません、2者の間にドラマがあるのが理想的。
ではこの本はどうかというと、
植木等―父・徹城という物語の背景に、戸井十月―父という関係があり、
そして植木等と戸井十月がちょうど父と息子のように向き合っていて、
信頼や情、ちょっとした緊張感もあって作品に厚みが増したと思います。
だからじーんとするんですね。
無責任男・植木等の実像は、真面目で堅物で…という話を見聞きするたびに、なんだか腑に落ちないなあ、と思ってました。
いくらなんでも、あれが100%演技ってことはないんじゃないかと。ねえ。
で、読んでみると。
性格的にはむしろ激しい方で、理知的で、明るくて、意外と短気な面もあって、機転が利いて野性的。
つまり、「無責任男」は植木等の実像と乖離していたのではなく、植木等のセルフイメージとかけ離れていたわけです。
他人が見た姿こそが真実に近い、そういうもんだと思います。
「植木さんの本質は三の線ですよ。(略)陽気でうるさくてね」(サックス奏者・稲垣次郎)
そして元付き人・小松政夫との対談で筆者が言う「清潔とか謹厳実直とかいうのじゃなくて、本当の意味で人間的センスがあったんでしょうね。ダンディでスマートな人。今風に言えばクールな人。要するに素の自分に自信があったんじゃないでしょうか」というのが結論でしょう。
本作は、筆者が晩年の植木等を何度もインタビューし、あちこち裏付け取材をしたものですが、
こういう本で鍵になるのが、対象と書き手との関係です。
「まだ運はあるか」の萩本欽一と斎藤明美とのヒリヒリするような真剣勝負、
「島倉千代子という人生」の筆者が抱き続ける切なさと悲しみ、
「細木数子の黒い真実」での記者が見せたある種の畏怖(細木の、もし乱世に生きていたら国を動かしてたんじゃないかってくらいの手腕と機知に対して)、などなど。
書き手はベッタリのファンじゃだめだし、批判一辺倒でも読み通せません、2者の間にドラマがあるのが理想的。
ではこの本はどうかというと、
植木等―父・徹城という物語の背景に、戸井十月―父という関係があり、
そして植木等と戸井十月がちょうど父と息子のように向き合っていて、
信頼や情、ちょっとした緊張感もあって作品に厚みが増したと思います。
だからじーんとするんですね。