十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

地域の可能性

2021-06-02 05:00:00 | 投稿

二年前、音更町文化センターで、経営者 伊藤亜由美氏の講演を聞いてきた。演題は、“北海道の魅力を再認識し、新たに創造する力”~地域の可能性~であった。十勝の面積は東京都の約5倍、人口は東京都の4%の34万人。  十勝には、十勝一丸となって発展しようとする「十勝モンロー主義」という言葉がある。これは明治16年、十勝に入植した民間団体“晩成社”の代表で、十勝開拓の祖とも言われる依田勉三が詠んだ俳句、開拓の はじめは豚と ひとつ鍋に通じるものがある。その理由は一つ鍋を囲んで一緒に頑張ろうということであろうか・・・。

地元への愛着や結束力の強さから、十勝以外から来た人や企業にとって十勝モンロー主義は、起業や商売が難しい地域というネガティブに解釈されることもある。しかし、十勝は人とのつながりが強く、何かを話しているうちに何かでつながることがある。全国各地から団体を組んで十勝へ入植したたが、十勝の寒さは厳しく、お互いに助け合って生きようとする開拓者魂が培われたのである。

依田勉三の碑は、帯広市の中島公園にある。名前の由来は、歌手中島みゆきさんの祖父中島武市氏が依田勉三の銅像を寄贈し、その功績をたたえて名づけられたそうである。 講師の方は、北海道の各地で講演するそうであるが、十勝に来ていつも感じるのは会場の熱気だという。多少のお世辞はあるとしても、そのことは相当にあたっているのではないだろうか。なぜなら十勝は、既述のとおり人とのつながりが強いからである。

今、新型コロナ禍の三蜜対策から“ソーシャルディスタンス”がとられ、人との距離が遠くなりつつあるが、人間は繋がることで大きな力を発揮し、コロナウイルスの撲滅が可能となる。ワクチン接種までは、ワンチームになってコロナと戦う必要があるが、日本は自由主義国家で百人百様なのでまとまらない。

一方、中国は共産主義国家なので有無を言わせず何事もスピード感があって、早期に経済を立て直したのだろう。来年2月に開催予定の冬の北京五輪は予定どおり開催されると思うが、東京五輪の開催は危ぶまれている。

しかし、今のような緊急事態の時には、日本は一致団結しなければならず、その力量が世界中から注目されている。東京五輪が開催されるならば、世界中の人々から「日本人はまとまりも良く、日本はやっぱり別格だ」と言われるようにしたいものである。

「十勝の活性化を考える会」会員T

注)十勝モンロー主義

北海道の開拓を振りかえると、アイヌは、1669年、シャクシャインの激により一斉蜂起したものの、鉄砲の前になすすべもなくズルズルと後退を余儀なくされました。そして、和議の酒宴の席で仲間と共にシャクシャインは騙され殺されてしまった。

その後、1789年のクナシリ・メナシの戦いがあったが、和人による開拓が進んだのは函館のある松前藩の支配地である和人地からでした。函館は、江戸時代のはじめの松前藩時代から開けていましたが、明治政府が蝦夷地に開拓使を設置、明治2年の版籍奉還、「廃藩置県」から明治15年までは、”函館国“、 ”札幌国“、”根室国“の三県が置かれ、北海道の開拓は、「屯田兵」(旧士族)による官主導で進められました。根室の人たちが、根室に誇りを持っているのは、北海道の中でも開拓が早かったからです。

北海道の名付け親である松浦武四郎は、アイヌを案内役に通算5回の探検により1869年(明治2年)、蝦夷地を”北海道“という名前にしました。海岸線だけは伊能忠敬(1745-1818)や間宮林蔵(1780-1844)によって作られたものを利用したが、その集大成として、「東西蝦夷山川地理取調図」という地図を、安政6年(1859)に発行しております。この地図には多くのアイヌ語地名が記されており、内陸部の状況を詳しく示したのは松浦武四郎が初めてでした。

一方、十勝の開拓は1883年(明治16)、静岡県出身の依田勉三が率いる民間会社「晩成社」の人々でした。天候不順や五年間にわたるイナゴの大発生もあり、開拓は思うように進みませんでしたが、艱難辛苦を乗り越え小麦の栽培や酪農事業、そしてバターの製造などで、日本の食料基地である十勝の礎を築きました。この“イナゴの大発生”が意外にも、十勝が肥沃の地であることが知られることになりました。

モンロー主義とは、アメリカの第5代大統領 モンローが、自国とヨーロッパは相互不干渉でいこうと言い出したものですが、「十勝モンロー主義」とは、他の地域とは関係なく、十勝は十勝の仲間だけで上手くやっていこうというものです。

 


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