先日、令和元年8月27日付け「北海道新聞」夕刊の『今日の話題』欄に、以下の記事が載っていた。
『言葉を失うとはこういうことを言うのだろう。京都市伏見区の京都アニメーション第一スタジオ。35人が亡くなり、34人が重軽傷を負った凄惨な犯罪の現場に立つと、形容しがたい重い空気に押しつぶされそうになる。
「どれだけの支援が必要となるかわからない。準備をしっかりと進めなければ」。
(中略)
人づくりを創業精神に掲げ、地域を大切にしてきた「京アニ」の作品は、国内外のファンを魅了した。その多くが異口同音にいう。「救ってくれた京アニさんに恩返しがしたい」と。
作品の舞台を中心に各地で支援の輪が広がる。募金活動、千羽鶴、メッセージカード募集。 「自分にできることは何か」、「供え物は迷惑にならないか」。試行錯誤が続く。
京都犯罪被害者支援センターの冨名腰事務局長が、心がけていることがある。相手の立場に自分を置き換えて寄り添うことだ。支援とは与えるものではない。
被害者と支援者の関係は対等ということだろう。大切なのは相手を思う想像力だ。きっとそこに、人が優しくなれる理由がある。』
私はこの記事を読んで、次のように思った。
今の日本人には、“本当の優しさ”が少なくなってきているのではないだろうか。その理由には、高度資本主義にも原因があるのではないだろうか。
資本主義は、資源を効率よく利用し、限りなく利益を追い求めるものである。利益を追い求めた結果、「こと」より「もの」、他者との比較、自己中心等により、本当の優しさを失ってきたのではないだろうか。
このことは、昨年に放映した連続テレビ小説“なつぞら”の高視聴率にも関係していたのだろう。その理由は、日本人に優しさがあった古き良き時代や助け合って生きてきた時代を、視聴者が懐かしく思ったからだろう。
日本で生まれ育ったので、社会主義国がどんなものかはよく分からないが、社会主義国も市場経済化し、資本主義国も社会保障に注力している。更に将来的には、共助的な「共用主義」(集団主義)も資本主義に加わってくると思う。
現に、カーシェアリング、シェアハウスなどが始まっており、そうすることによって廃車の数やゴミも減って、地球温暖化の進行が遅くなるかも知れない。
地球温暖化と比べればゴミのような小さい話であるが、「思いやり」や「共助」が重視されるような社会になってほしいものである。
「十勝の活性化を考える会」会長
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