アイヌの強制移住
西暦1669年、北海道史上で一番大きな戦いであるアイヌ民族と松前藩の戦いがあった。「シャクシャインの戦い」という。その戦いの先頭に立ったのが、アイヌ指導者のシャクシャインであり、その像が新ひだか町(旧静内町)の小高い丘の上に立っている。
先日、新ひだか博物館学芸員にアイヌの強制移住について質問したところ、同化政策のひとつである「新冠村御料牧場アイヌの強制移住」について、以下の回答がありました。
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「大正5年(1916年)、新冠村姉去にいた御料牧場アイヌ80戸が、新冠御料牧場の都合と同化政策の一環から、平取村上貫気別に強制移住させられた」という。これは、『新北海道史』第9巻資料3(北海道、昭和55年)413ページの記載文を書き改めたものです。
なお、この『新北海道史』第9巻資料3は、図書『小伝浅川義一』(津久井信也 著)を参照しておりますが、これまで『小伝浅川義一』について詳細に検討することなく、『新北海道史』第9巻資料3を引用して、新冠村字姉去のアイヌに関する強制移住について語られてきた感があります。
「新ひだか博物館」学芸員
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注1) 同化政策:「北海道旧土人保護法」に定められている。
注2)新冠御料牧場:出典「もうひとつの日本文化(アイヌ文化)徒然ブログ」
① 明治5年(1872)、アイヌが住んでいた北海道日高地方南部(新冠村)の約7百平方kmが日本政府(北海道開拓使)により「新冠牧馬場」とされた。これは「東京23区全体の621平方km」より広い面積である。明治21年(1888)「新冠御料牧場」と改称される。(宮内庁所属牧場、皇室財産)
② ここは古くからアイヌコタンが存在していた地域で、11個のアイヌコタンがあり535人のアイヌが住んでいた。(明治6年「地誌提要 浦川支庁原稿 上」)それをアイヌには何の協議(相談)もないまま牧場用地に、そのまま編入されたということだ。そして、明治10年(1877)、牧場内のアイヌの土地は国有地とされ、自由売買は禁止される。
③明治34年(1901)8月22日、閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王が牧場に来場し、視察を行った。その際に、白髪のアイヌエカシ(古老)が進み出て「この地方は我ら祖先の開墾せしものなるをお取上げとなり、為に我らは今日難渋を極めいるを以って、何とぞ返還あらんことを請う。」と明晰に陳情した。(この件は、浦河支庁長により「当該エカシの失言」として処理された)
④最終的には、「大正5年(1916)、姉去(あねさる)コタン74戸の平取村上貫別(かみぬきべつ)への強制移住」をもって、この地域の全てが「地区外への転居」を強制移住されたことになり、この地域のアイヌ社会はほぼ崩壊した。
「十勝の活性化を考える会」会員
11のコタンをそのまま村の名前にした。大狩部(おおかりべ)、葉朽(はくち)、受乞(うけこい)、元神部(もとかんべ)、比宇(ひう)、高江(たかえ)、泊津(はくつ)、姉去(あねさる)、去童(さるわらんべ)、萬揃(まんそろ)、滑若(なめわか)である。
1873年(明治6年)には新冠のトキット(姉去)に厩舎・監守舎を設置した。1877年(明治10年)「新冠牧馬場」と名を定め、エドウィン・ダンにより放牧地は約68平方キロ(旧牧場)に縮小された。
1882年(明治15年)農商務省の直轄となり、約66平方キロの敷地拡大(新牧場)が計画された。(現在の御料牧場跡)
1885年(明治18年)に作られた「旧土人救済方法」では1887年に「132戸」のアイヌ民族を強制移住・農業強制を計画していた。『北海道殖民状況報文 日高国』に記された強制移住は以下のとおりである。1889年(明治22年)に大狩部村ポロセプにから数戸のアイヌ民族を高江のポンセプに強制移住した。比宇からは何年かの詳細は不明だが、葉朽と元神部に4戸ずつを強制移住した。強制移住の記録がないアイヌ民族を含め、土地の利用の自由を取り上げ、後に洪水の被害を受けた河岸の給与地を「貸与」し、農業を強制した。
1895年(明治28年)滑若から萬揃と姉去へ十数戸ほどの強制移住があったことが読み取れる。その結果、小さいコタンの萬揃が23戸92人にふくれあがり、御料牧場の貸付地を耕して生計を行っていたと言う。そのような状況からか、萬揃から数戸のアイヌ民族が姉去に移ってきた。(1897年の姉去は萬揃から数戸を除き36戸で119人)
貴重な情報、ありがとうございます。
『北海道殖民状況報文 日高国』は国立国会図書館にありましたので挑戦したのですが、とても難解で読み解けません
解りやすくご教示いただき感謝します