十勝の活性化を考える会

     
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アイヌコタン

2021-07-12 05:00:00 | 投稿

アイヌコタンとは、アイヌの「集落」、または「」のことである。アイヌ民族の生活の本拠地であり、アイヌの社会を形成する最小単位である。一般に、狩猟や漁労などの採集生活をしている民族は、移動の必要があるため一箇所に定住しない。

しかしアイヌの場合、採集民族ではあるが漁労への依存が強かったため一箇所に定住し、住むところも決められていた。たとえば、サケの産卵地などの河川沿いにコタンはあり、だいたい5~ 7kmほどの間隔で存在していた。コタンにはそれぞれ名前があり、そのコタン名がのちに和人によって地名とされたケースも見られる。例えば、シャコタン(積丹)やカムイコタン神居古潭)、北方四島のひとつであるシコタン(色丹島)などである。

コタンは数軒の家により構成されており、たいていは5戸~ 7戸から成る。10戸以上の場合は例外的な大集落で、20戸を超えるものは場所請負制などの影響による労働力確保の結果である。

1909年(明治42)の十勝には、アイヌコタンは538戸、アイヌ人口1,762人であった。コタン数は、推定で70個ぐらいあったとみられるが、本州から来た和人や本州アイヌと北海道アイヌとの混血した人は入っていないので、正確な数字は把握できないのが実態だろう。なお、十勝の人口は分かる限りでは、1897年(明治30)の約1万人から1927年(昭和元年)の30年間に約15万人と、異常な勢いで増えている。(アイヌ戸数とアイヌ人口:吉田巌著「愛郷誌料より」)

十勝の開拓は、明治16年の民間団体「晩成社」による開拓で実質的に始まるが、北海道の名付け親である松浦武四郎が書いた“十勝日誌”でも分かるとおり、アイヌの人たちの貢献が無ければ、開拓できなかったことを忘れてはいけない。

ところで、本州アイヌのことであるが、関東以北にはエミシ(後のアイヌ)が住んでいたが、一部のエミシは北へ北へと逃れて、明治時代には北海道アイヌと共に蝦夷地に住むだけの人数になり、そうした人々が「アイヌ」とよばれるに至ったのである。 

 アイヌ語に詳しい作家であった菅原進氏(アイヌ語の本を多数出版)によると、東北地方に住んでいたアイヌは、和人との同化によりアイヌ語も奪われ、昔の面影を全く残していないそうで、十勝にあったアイヌコタンもすべてコタンの名前と共になくなり、別の土地へ移住している。これは最盛期の1960年に、人口が約12万人弱を有していた炭都“夕張市”と同じで、夕張に住んでいた人の多くは別の場所に移住しており、現在の人口は最盛期の1/17で、2021年5月末現在では8千人を割っている。                          「十勝の活性化を考える会」会員T

 


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