先日、市民大学講座(AI時代を如何に生きるか?)を聞いてきた。これからの時代は、AIが人類を上回る時代が来るらしい。私は講師に囲碁や将棋に関して、人間とAIはどちらが強いかを尋ねたら、AIだという。SFにあるように人間がAIに支配されることにも?
「盛和塾」の塾長である稲盛氏が書いた「心」には、彼の経営哲学は、「人のこころ」にあるとしている。私は人間が次第に機械化していくのを感じて、人類の将来を心配している。なぜなら、最近の若者はすぐに切れたり、現実とバーチャル世界の混乱が見られるからだ。
確かにロボットが開発され、室内の掃除や工場などでロボットが使用され、人間は労働の負荷から解放されつつある。だが、これが人間の幸福につながっているのかは疑問だ。大切なものが置き去りになっているような気がする。
現に、いじめ、うつ病、引きこもりなどがゲーム、スマホなどの普及にも関係していると思うし、人間が機械化しているのも事実である。
そこで私は、アイヌ文化に注目したい。アイヌ民族は、自然崇拝、自然との共生のもとに必要以上の物を消費せず、そのことがアイヌ文化の特徴のひとつとみている。
それに対して、今の消費至上主義はどうであろうか。必要以上に物を消費していないか、飢餓で苦しんでいる人達もいるのに食べ物を捨てていないか? ゴミを増やし、そして燃やして地球温暖化を招いていないか? ゴミで海を汚していないか?
「十勝の活性化を考える会」会長
注)アイヌ文化
アイヌ文化とは、アイヌが13世紀(鎌倉時代後半)ごろから現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日本においては日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。前時代の擦文文化とアイヌ文化の違いについては、「蝦夷#えぞ」の項を参照。
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アイヌ文化という語には二つの意味がある。ひとつは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ民族の保持する文化様式を指す用法であり、この場合は現代のアイヌが保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もうひとつは考古学的な視点から、北海道や東北地方北部の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。
擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道に進入してアイヌ文化を形成したわけではないということである。これは、和人が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。
ここで問題となるのは、「アイヌ文化」という語が「ある民族集団の文化」と「歴史上のある時期に存在した文化様式」のいずれも意味するという状況のわかりにくさである。アイヌは現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送っているわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌは考古学的な意味でのアイヌ文化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌの保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。
瀬川拓郎は2007年にこうした問題の存在を指摘し、中世から近世にかけての(考古学的な文脈での)「アイヌ文化」を、北海道考古学史上最も重要な遺跡の1つである二風谷遺跡にちなんで「ニブタニ文化」と呼ぶことを提案している。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋)
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