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北海道十勝の深掘り 鎖塚と水俣をつなぐ

2021-11-09 05:00:00 | 投稿

北海道十勝の深掘り 鎖塚と水俣をつなぐ

全国の読者の皆様に、「北海道十勝ってどんなところ?」の疑問に深掘りしてお伝えしてまいります。


鎖塚と水俣をつなぐ

 自由民権運動など民衆史研究をけん引した歴史家の色川大吉さんが9月に96歳で亡くなった。3年前、山梨県の八ヶ岳山麓に暮らす色川さんを訪ねた。
その年はちょうど明治150年の節目だった。小池喜孝さん (2003年、87歳で死去)の労作「鎖塚-自由民権と囚人労働の記録」が岩波現代文庫から45年ぶりに復刊され、色川さんが解説を執筆した。
 北見市内で高校教員をしていた小池さんは1973年に「オホーツク民衆史講座」を立ち上げ、囚人労働やタコ部屋労働などを精力的に取り上げた。
色川さんは「小池さんの取り組みが私にとって民衆史という新たな歴史分野を切り開くきっかけになった」と話した。
70年代から80年代にかけて道内各地で民衆史掘り起こし運動が広がった。朝鮮人・中国人の強制労働やアイヌ、ウイルタなど先住民族や少数民族の差別にも目を向け、証言を記録した。
日本史からこぼれ落ちる底辺で生きる人々に光を当てた。


 10月、北見市端野町の「鎖塚」は赤い葉っぱで染まっていた。囚人を埋葬したであろう土まんじゅうの前に供養碑と地蔵があり、花が供えてあった。
 1891年(明治24年)に始まった網走-旭川間の道路工事では囚人が動員され、栄養失調などで200人以上が死亡した。遺体は鎖につながれたまま道路脇などに埋められた。
北見市の元中学教員佐藤毅さん(86)はかつて小池さんと色川さんを鎖塚に案内した。熱心に質問する姿が目に浮かぶ。

「色川さんは囚人やタコ部屋労働者の遺骨発掘にも参加し、いつも自らスコップを持って黙々と掘り続けていた」
明治政府は囚人を使えば工事費は安く済み、苦役に耐えられず死んだとしても国庫支出の監獄費が節約できると考えた。
 1970年代以降、民衆史運動が花開いた理由は何か。
北大大学院の水溜真由美教授 (日本近現代思想)は「高度成長も終わり、多数派の近代化や北海道史の捉え方にさまざまな批判が提起された。そういう大きな考え方の転換の流れの中に位置付けられる」と話す。



昨年、色川さんから遺作となつた「不知火海民衆史」が送られてきた。上下2巻で650ページ。
同封された手紙には「水俣に入った日から半世紀。心残りであった仕事がようやくまとまりました」と記していた。
色川さんは76年に学術調査団を結成し、歴史学や社会学、哲学などの専門家たちと協力しながら水俣問題を考察した。
 先月、米国の写真家ユージン・スミスを主人公にした映画「MINAMATA-ミナマタ-」を見ていて、「水俣の問題は終わっていない」という色川さんの言葉を思い出した。
水俣病は公害の「原点といわれる。患者たちの運動は人間を人間と思わない企業への強い怒りがあった。対応を怠った政府、自治体の責任も重い。
患者は病の苦しみに加え、チッソの企業城下町にあって市民からの差別に傷ついた。こうした中で色川さんは痛みを受けとめ、聞き書きに徹した。
 北見などでの遺骨発掘について、色川さんは「自らの良心を掘り返す営みだった」と振り返った。それは水俣も同じだ。
鎖塚と水俣はつながり、現代に生きる私たちに人間の尊厳とは何か、問いかけている。
 取材で歴史家はこんなメッセージも残していた。「世界中で公害が繰り返されている。地球温暖化、プラスチックの海洋投棄、核のごみもそうだ。まずは一人一人が自分の問題として向き合わなければならない」

 

 

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