みみずのたはごと 徳冨健次郎(蘆花)
『明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。
北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の様に小さな可愛い眼をして、十四、五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顎に些の疎髪をヒラヒラさせ、木綿ずくめの着物に、下駄ばき。
年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我(が)を折った。
兎も角も上に請じ、問わるるままにトルストイの消息などを話す。
爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごりごりした無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。
面白い爺さんだと思うた。
(略)
牧場主任の四男は日露戦争に出征する。爺さんは一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、知識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。
読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状など持っては往かぬ。先日の来訪も、型の如く突然たるものであった。』
トルストイは、五郎の示唆がきっかけとは云え寛斎にとって芦花は全く無縁な人ではない。 明治四十年と云えば、徳冨芦花は、ゆるぎなき明治の文豪であり、名作「不如帰」は、超ベストセラー。その薄幸のヒロイン浪子は、老咳(結核)で若き命が不帰。それまで、老咳は、疱瘡、梅毒、コレラ、脚気などのように怖れられた病ではなかったが、この物語によって、「肺病」の名が広く世間に膾炙され、また、社会的に蔓延する亡国病になったのである。
興のおもむくまま、寛斎は芦花に、トルストイの文学、ヤスナヤ・ポリヤナの暮し、素顔の卜翁、敷地内の耕地と耕作、小作人の様子、彼の思想と苦悩などについて、気のむくまま脈絡もなく質問し、芦花の語り口に耳を傾けた。
特に、トルストイの農本主義と、膨大な領地を農奴・小作人に分与する農地解放には、眼を輝かすように強い興味を示し。芦花の話に耳をそばだてて聞き入った。
芦花は卜翁が、
「儂の理想は、家族には全く理解されず、私の財産は総て封印され、禁治産者にされてしまった」と述べたことに、寛斎も一瞬、気持ちが揺らいだ。
時刻の針を早送りして語ると、この二年後の明治四十三年十一月二十日、トルストイは、思想の遍歴と苦悩、社会的矛盾、自己の偽善生活に懊悩のすえ家出。モスクワ近郊のアスタボーバ駅長室で肺炎のため八十二歳で死去した。
渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編
「十勝の活性化を考える会」会員 K