十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その29 命の洗濯

2020-04-24 05:00:00 | 投稿

 『命の洗濯』
 医者の不養生という言葉がある。寛斎はそのことを自ら戒めたのであろうか。彼の後半生は、『養生心得草』の彼自身による実証の歩みとも言える。

『心得草』第六の「冷水浴」は、ポンペに示唆されたもので、彼独特の健康法でもあった。
寛斎はのちにその体験を一九〇一(明治三四)年『命の洗濯』、一九〇五(明治三八)年「命の鍛錬」という文章にまとめている。
それらの中で、彼は「二十五六歳の頃……頭痛甚しき時は臥床に就きし事屡々なりしが……全身冷水潅漑を行ひ……爾来数十年間頭痛を忘れ、胃は健全となり感冒に犯されたる事未だ一度もあらず。」とその成果を自賛している。
 『命の洗濯』では、「浴潮灌水に関する故事及び来歴」から説き起こし、次に「浴潮に関する諸大家の学説・同予の経験及び私見」と続けて、海水浴の医学的効果、海水浴楊の条件と適地、その際の方法や医学的注意などが述べられている。さらに「灌水」つまり冷水浴についても、同様の記述が続く。文中、海水浴の適地として「下総の銚子」があげられているが、『命の洗濯』の再版序文に笹倉新治は「銚子海水浴場のごときも、亦実に翁の指示に始まる」と書いている。
 これを裏付けるものとしては、銚子の旧知岩崎明岳が、明治三四年に寛斎に宛てた「本年ハ避暑可年テ海水浴御遊御越相成候様御待申上侯」との書状や、田中玄蕃家に所蔵されている、明治三〇年代の、銚子高神海水浴場の写真などがある。


 ともにポンペの示唆を受けた松本良順が、日本で初めて大磯に海水浴場を開いたとされるのが一八八五(明治一八)年。一方、寛斎の年譜同年付けには「これより先、夏期毎に、家族とともに海水浴を行われ、これを例とせられたり」とある。またこの二年後として、『銚子医師会史』に「寛斎の指示により、銚子犬吠海岸(前記、高神海水浴場と同一場所)に、旧知士谷某の結核治療用の小屋が建てられた」と記されていることなどからすると、彼の指示による銚子海水浴場の開設も、当時の日本としては最も旱いころのものの一つではないかと思われる。
 冷水浴も晩年まで励行された。いま日本でいちばん寒いとされる、北海道陸別の零下三〇度Cの厳冬にも「冬暁早く蓐(しとね)を離れて斗満川に行き、氷穴中に結べる氷を手斧を以て破り(この氷の厚さにても数寸余あり)身を没し、暁天に輝く星光を眺めながら灌水を爲す時の、清爽なる情趣は、実に言語に盡(つく)す能わず。」という、八十翁の超人ぶりだった。

戸石四郎著「関寛斎 最後の蘭医」

『命の洗濯』について
これは1901(明治34)年に初版され、その後1906年喜寿を記念して「命の鍛錬」及び「養生心得」を加えて再版、1910(明治43)年3版が出ている。その後、「旅行日記」「目ざまし草」を加え、1912(明治45)年、警醒社から刊行されている。

国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/836588

 

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