黒い獣はもったりつづみに飛びかかろうと、太い四本の足に力をこめる。
「下がりゃんしゃい」
そう言って前に進み出てのは、棺桶に片足を突っ込んだような爺さんだった。
「これでも若い頃は警察犬を訓練しとったからの。犬のしつけは大の得意じゃ」
爺さんが犬と称する獣に一歩一歩ゆっくりと近づく。南大門の脳裏に老人が食い殺される光景が浮かんだ。
黒い獣はいっそう口を大きく開ける。まるで笑っているようだ。
「お手」
爺さんが言うと同時に獣は地を蹴った。
驚いたことに爺さんは瞬時にかがみこむと地面から何かを拾い、それを獣に投げつけた。
「ギャウッ」
獣は短く悲鳴をあげた。爺さんの投げつけたもので視界をふさがれているようだ。茶色の粘液が顔中を覆っている。
こうなってはただの犬っころ同然だった。
「おすわり!」
気合と共に爺さんは、犬の眉間に掌底を叩き込む。
「南無さん」
獣は地面に崩れ落ちた。
「あの、ゲンさん……今のは?」
しな子が尋ねると犬に楽勝したゲンさんは答えた。
「捨てられた野良犬が、凶暴化したんじゃろうなぁ。最近特に汚染も進んどるしな。かわいそうに……」
「さっき犬に投げたのは何だったの?」
南大門もおずおずと聞く。
「おう、これじゃ」
そう言ってゲンさんはまた近くの地面から何かを拾って見せた。
南大門は老人の手の中の物を見て素っ頓狂な声をあげた。
「これ、カエルなの!?」
「そうとも。ヒキガエルの変種じゃな」
手に握られたカエルは、カエルとはとても言いがたい茶色のネバネバした、軟体動物のような生き物だった。
「ここ十数年来、よく見かけるようになった。おそらく、あの事故の影響じゃろうて」
二十年前、日本最大の原子力発電所が大爆発を起こした。表向き、人体に害は無いといわれ続けてきたが、各地で異変は今でも続いている。
「坊やも、ここに来る途中で踏んじまったりしたんじゃないか?」
南大門は首を縦に振った。途中で靴を汚した得体の知れないものはこれだったのだ。
「かわいそうに……。誰が悪いわけでもないのにねぇ。ほらこれが食べたかったんだろう。一緒に埋めてやりましょうよ」
しな子はもったりづつみから牛タンを取り出すと、ゲンさんにあの世行きにされてしまった犬のかたわらにそっと置いた。
ゲートボール仲間達が手伝って犬と牛タンは地の底に埋められた。
西暦2050年。老人たちは今日も健在だった。
シュタッ シュタッ シュタッ!
グエーーーッ!
なんの鳥なのか皆目見当もつかない叫び声がこだまする山道を、青年の軽快なスニーカーの音が進んでいく。
『おばあちゃあん、どこへいくの?』
52年前のあの日、祖母・しな子に連れられてこの山を登ったことが、鮮やかに思い出されて南大門はかすかに笑った。
シュタッ シュタッ シュタッ!
グエエエエエーーーーーッ!
不気味な足音も獣の鳴き声も、今年17歳の青年には何の不安もおこさせない。
(ぎゅうたん、いぬ、ヒキガエル……)
17になった今も、舌っ足らずな口調とコアラに似たアホっぽい容姿はそのままだ。
{説明しよう(タイム○カン)。73年前、日本最大の原子力発電所が大爆発を起こした。表向き、人体に害は無いといわれ続けてきたが、そうではなかったのだ。肉体の成長は著しくスピードを落とし、今では4年に一度年齢を数えていくと方で定められている。
民法第九十七条}
山の頂上にさしかかり、南大門の太もももそろそろ限界をうったえかけはじめていた。前方から複数の笑い声が、木々の間からもれ聞こえている。
「おや、南大門。早かったね」
祖母のしな子の声が、南大門を呼んだ。
「うん、むかえにきたよ、おばあちゃん」
なにかジュージューいう音と、食欲を刺激するいいにおい。
「またバーベキューしてるの?」
南大門の素朴な質問に、しな子は笑って頷いた。
「牛タンのいいものを見つけてね、皆で食べていたんだよ」
ほら、と目の前に差し出された深皿の中には、ほどよく脂ののった牛タンが、焼き色もすばらしく、タレにひたひたと浸かっている。
(おいしそう……)
南大門はひょいとその牛タンをつかんで、ぱくっと一口に飲み込んだ。上等のタンの、豊かな香りが口内にむわっと広がった。
「ああっ何てことするんだい」
しな子があわてて皿をひっこめた。
グウエエエエーーーーッ ギャッ ギュギュッ!
けたたましい叫び声がして二人は身をちぢこませた。
「山神様が怒っとるよ」
しな子のゲートボール仲間ゲンさんが、厳しい顔で言った。
「あの日埋葬した山犬が長い時を経て神となり、一緒に埋められていた牛タンは時と共に地上に出てきてしまった。そう、それがその牛タンじゃ!」
「なんでそんなことがわかるのっ!?」
「ゲンさん! なんとかしてくれ!」
取り乱して騒ぐ祖母、孫を制しながら、
「もう無理じゃ……わしらはたたられるしかないんじゃ」
とゲンさんは呟いた。
(なんでこんなことになったんだろう……)
南大門は力なく地にふせた。こんもりと土がもりあがった所に無造作に拳を叩きつける。
もう何の打つ手もなく思われた。
「すまん……実はわしが牛タンを掘り返してしまったんじゃ。だから……」
ゲンさんが申し訳なさそうに謝罪した。しな子は、
「いや、わたしもいけなかった。そんな土から掘り出したもんを食べようなんて言わなければ……」
南大門はハッとして祖母を仰ぎ見た。
「そうだよ! つちのなかのものをたべるなんて、かんがえつかないよっ」
(めちゃくちゃだよっ……)
しな子とゲンさんは、顔を見合わせ、そして深くうなだれた。
「だって……」
「だって?」
「……だって……うまそうだったんじゃ」
終
『お盆に、山の中で、老婆と孫が、牛タンを、埋めた』
をお送りいたしました。