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意思による楽観のための読書日記

違和感の日本史 本郷和人 ***

筆者は中世史を専門とする東大史料編纂所の教授で、多くの書物を出している人気学者。中世の日本では、皇室と貴族・公家階級が、律令時代以来握ってきた公領・荘園からの税収権を保持。それを南都北嶺の僧侶・寺社勢力は常に横から掠め取り、鎌倉時代以降には勃興してきた武家階級が、東国から所領安堵と国司設置の権利を徐々に広げていった。これら3つの権門体制が競合しながら、一部は機能補完しながら農民階級を支配し続ける、という認識が「権門体制論」。筆者は、これに反論し東国国家論を主張。鎌倉幕府は、相模、武蔵、上野、下野、安房、下総、上総、常陸を東国武士集団で自主統治したいという武家の総意に基づいて樹立されたとする。頼朝の鎌倉政権は、京の朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の存在であり、三河、甲斐、越後以西を管轄する王朝国家からの自立を目指した、というのが東国国家論。視点を京都に置くか東国に置くかの違いのような気もするが、中世史を専門とする筆者にとっては重大事。

南北朝の北朝を先祖とするのが現天皇家だが、明治政府は水戸学の流れを重視して南朝正統論をとった。この矛盾をどう説明するのか、という現代ではあまり生産的ではない議論があるが、天皇家と現職天皇の譲位、皇位継承問題が絡んでくると、そもそも論の中で説明が求められることになる。上皇を院と呼ぶと、中世の「院政」を思い浮かべる人が多く、平成天皇が上皇となるときにも呼び名が問題となった。そもそも中世、近世期間は現職でも天皇とは呼ばず院と呼んだ。ここらであまりに正論を主張すると、右陣営から掣肘を食らうこともあったことだろう。そのような環境下で、盛んに持論を展開するのが筆者、ちょっと応援したくなる。本書は、そんな主張が強めの筆者が講演で小出しに繰り出すような、歴史エピソードをひとまとめにした小ネタエッセイ集。

疫病と古代政権という視点から、聖武天皇が建立した奈良の盧遮那仏は当時猖獗を極め、藤原4兄弟をも死に追いやった天然痘の退散祈願だったという説。そもそも、神道でお清め、お祓い、血の穢れ、などとして穢れを嫌うのは疫病対策だったのかもしれないという。日本に入ってきた感染症では天然痘と幕末以降のコレラがあるが、12世紀のペストは入ってこなかったとされる。しかし天平年間の天然痘は当時の日本人口の3分の1ほども奪ったと推計できるという。

江戸時代の鎖国政策について、実際には中国、琉球、オランダとの通商は行われており、唐物は大量に博多や堺、京にまで入ってきていたのだから、江戸幕府として鎖国していたというのは、明治になってからの後付の解釈ではないかという説がある。筆者はこれを否定、人と人をつなげる交易、商売はされていたとしても、江戸幕府は1633年以降数回に渡り、異国との接触を禁じキリスト教を禁止してきた。つまり国家として統一的に鎖国政策をとってきた事実は重いというのが主張。

公武合体論と尊王攘夷論が幕末、衝突を繰り返した、という認識があるが、そもそも、倒幕を主張する勢力でも、天皇家に政権を統一し、徳川家も生き残る、という認識を持っていた勢力も多かったはず。攘夷、というのはアヘン戦争で良いようにされた中国の状況再現を憂いて声高に叫ぶ勢力。これに対して、実力的にそれは無理だ、外国人と見れば斬りつけるような野蛮な攘夷には反対、と思っていた人たちだって多かったはず。結局、明治政府でも、臥薪嘗胆、和魂洋才などという現実受認の路線となる。キャッチフレーズに惑わされることなく、藤田幽谷、東湖が進めた水戸学に心酔する一派を現実路線の勢力がどのように方向転換させていくのか、これが幕末から維新にむけた大きな動きだった、と理解する。

信長が唱えた「天下布武」、この時点での「天下」とは京と畿内のことであり、日本全国ではなかった、という説がある。筆者は、信長が儒教の「修身斉家治国平天下」の概念を知っていたはずと考え、このコンセプトで言う天下とは、中国で言う群雄割拠する各国王を束ねる皇帝、つまり列島全体の天下でなかればならないはずだと主張。しかしながら、室町時代においても、幕府が統治する範囲は越後、信濃、三河のラインより西で、それより東は鎌倉公方と奥州総大将に丸投げ。概念としての天下と実態はかけ離れていたことは事実。室町幕府の政権運営を理論的に支えたとされる三宝院満済が使う「都鄙」という概念では、中心たる地点とは都は京で、九州、四国、中国地方も含んでいた。鄙は鎌倉であり、東国と東北の多賀城ー酒田ラインより南だった。

百人一首の坊主めくり、坊主なのかの判断が難しいのが
1.法性寺入道前関白太政大臣で保元の乱の主要人物藤原忠通で晩年出家。
2.入道前太政大臣は西園寺公経、こちらも晩年出家。
3.蝉丸は出自不明で僧侶ではないはずなのに見た目から坊主あつかい。
姫は21人、畳に座るのが上流で、繧繝縁の畳が持統天皇と式子内親王。白黒の高麗縁の畳が赤染衛門と鳥羽院の中宮待賢門院に仕えた女官の堀河。赤染衛門と紫式部や清少納言との違いは不明とか。

ちなみに、天皇の子女で男性女性とも親王宣下を経た子女を親王、内親王と呼ぶため、親王宣下されたかった以仁王は親王とは呼ばれない。天皇の妻が后妃で、出家すると待遇が変わってしまうのが普通だが、特別な場合には女院宣下を受けることがある。鳥羽院と美福門院の内親王璋子は皇妃とならずに女院宣下されて八条院となり、美福門院は近衛天皇を産んで女院となる。皇后は皇太后、太皇太后となる。

その他のエピソード。北朝の天子、光厳ー光明ー崇光ー後光厳と「光」が連続するのは、皇位継承に問題がある際に「光」をつけていたから。光仁天皇は道教で有名な称徳天皇崩御時に62歳で即位、その子が桓武となる。光孝天皇も55歳で即位、陽成天皇に奇矯な振る舞いが目立ち急遽即位したという。後水尾天皇と後陽成天皇親子の諡号の謎については、親子不仲説を唱える。後西天皇は江戸時代まで「後西院」と呼ばれていた。本来は「後西院天皇」のはずが、大正時代に院を天皇とお呼びしようということになり、院を外してしまい、諡号の意味が変わってしまった。大塔宮護良親王の読み方は「おおとうのみやもりよししんのう」、江戸幕府では役職がつく譜代は石高が少なくて、役職に就かない外様の石高が多いのはなぜ。家康の娘を娶った大名はご一新まで生き延びた、などなど小ネタの宝庫。本書内容は以上。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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