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意思による楽観のための読書日記

歴史を知る楽しみ 家近良樹 ***

歴史を学ぶとき、「なぜそうなったのか」と考えることが歴史学の楽しさだという筆者。ペリーの前にもビッドルや何隻もの外国船が日本の港に現れているのに、なぜペリー来航のときに江戸幕府は大慌てをしたのか。おまけに、オランダ商館長により、来航一年前からペリー一行の来日は予定されていたのに、という疑問。それ以前の外国船は水や食料、蒸気船に必要な石炭、薪などを求めて来航した1-2隻の商船だったのが、ペリー艦隊は多くの大砲を積んだ軍艦4隻だったことが、阿部正弘以下の老中、幕臣を大慌てさせた原因だった。中国がアヘン戦争で散々な被害に遭い、英国艦隊は日本にも通商を求めて来るとの情報もオランダや中国からもたらされていた。それにしても一年もの猶予があればなにか対策を考えられなかったのか、という疑問である。

ペリーが威嚇のために艦隊を江戸湾に侵入させたこと、兵士たちを日本側の制止を振り切って上陸させたことなどが、予想以上に効果を現したというのが、その理由。中国には宣教師のあとにアヘン戦争のため多くの軍艦が来た、日本にも同じ順序で、4隻も来てしまった、という恐怖心が幕閣をゆるがせたのだと。

歴史人口学は、欧州教会における膨大な資料から時代ごとの地域別人口を算出することで歴史を振り返るという学問で、近代以前の家族制度が大家族ではなく核家族が一般的だったこと、早死のために昔は早婚だったのではないかと思われていたのが、近代以前にも結婚は二十代後半の晩婚だったことなどが分かった。日本にも宗門人別改帳があり、経済史学者の速水融は封建制度における農民の実態を解明した。出稼ぎのため村を出て都会生活を知る農民は多かった、18世紀初頭までは人口は増加したがその後は停滞した、江戸期の男女は欧州、中国よりも多く離婚した、女性から申し出た離婚も多く、離婚はタブーではなかった、「三行半」は女性の再婚のために必要な書類だった、寒冷で飢饉が多かった東北地方の人口は増えなかったが、気候が温暖で二毛作と農業技術発達による収穫増加により西南諸藩が人口を増やした、ことなどが判明した。幕末から維新にかけての西南雄藩による幕藩体制転覆の伏線にはこうした人口変化があった。

高野山に行くと、全国の戦国大名の墓があるのはなぜ。それは、戦いにより墓所が荒らされる心配のない場所に葬られたいと思ったから。それを疑問に思ったのが松平春嶽。越前藩の歴代藩主の墓所が高野山だと聞いての疑問であった。

百姓一揆で鉄砲が使われなかった理由。百姓は秀吉の刀狩りで武器を取り上げられていたというのが通説だが、実際には百姓は自己防衛、害獣退治のために常に鉄砲を持っていた。それではなぜ双方ともそれを使わなかったのかという疑問。一揆側も領主側も、武器を使えば果てしない殺戮合戦になり、かえって救いようがない事態が出来することが分かっていたから。

朝鮮通信使は日本に来たのに、日本側は朝鮮には行っていない、その理由は。朝鮮サイドとしては、秀吉により行われたような出兵が繰り返されることを恐れ、日本の実情は知りたいが、自国の実情は知られたくなかった。日本サイドとしても秀吉の命令による朝鮮出兵の失敗に懲りていた。おまけに朝鮮半島への魅力と関心が薄かった、出兵の義が立たなかった、などがある。

疑問を持ちながら歴史を学ぶ姿勢こそが、真実に近づく方法である、という主張。まさにその通り。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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