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意思による楽観のための読書日記

父のおともで文楽へ 伊多波 碧 ***

離婚してシングルマザーになり小学4年生の娘梨々花を育てている清川佐和子は37歳。別れた元夫の義彦は弁護士、やりての弁護士だったらしいが、女性弁護士と仲良くなっていて、佐和子は相手の事務所に文句を言いたくて押しかけたこともあった。慰謝料代わりに残していったのが武蔵小杉のマンションと一時金、それに毎月の養育費なのだが、相手は弁護士であり、なんだかうまく丸め込まれて納得させられたような気もする。月に一度は梨々花と会うことも約束のうちの一つ。梨々花はその日を楽しみにしているらしい。

佐和子は一人っ子、両親はともに教師、母は私立高校で英語を教え、父は公立高校の国語の教師だったが、その母は3年前に旅立ち、父は柿生の家に一人で暮らしていた。佐和子はなんの不自由もなく育てられ、進学校から推薦入学で有名私立大学の文学部に進んだ。大学の法学部生だった義彦と知り合い、その後結婚したときには正社員として働いていたが、梨々花の妊娠と同時に退職していた。まさか夫が浮気して別れるなんて考えてもいなかった。

別れることになったのは母が亡くなる直前、不幸はまとまってやってくるものだと、そういえば母に教わっていた。"Misfortunes never come singly"。父は頑固で人付き合いに疎く教頭止まりだったが、母はキャリアウーマンであり、校長にまでなって退職した。家族にとっても娘にも頼りになる存在であった。母の三回忌で訪れた実家、父に文楽に一緒に行こう、と誘われ行くことになる。父とじっくり話すのは久しぶりのことだった。

父と一緒に行った国立劇場、演目は『心中天網島』。天満で紙屋を営む治兵衛が曾根崎新地の遊女と恋仲になり、妻子を捨てて心中する。治兵衛は、妻のおさんへの未練も断ち切れず、遊女の小春との心中も踏ん切りがつかない。舞台がはねたあと、喫茶店でストーリーについて父と話す。自分の実体験とどうしても比較してしまうが、情けない男とできすぎた妻、佐和子はまったく共感できない。それでも、日常生活から離れ、一人の観客になって文楽を見ることに関心を持ち始めた。

ニューヨーク州の弁護士資格も持ち、これからはアメリカで仕事をする予定があるという義彦は、梨々花をNYCの中学校に留学させたらどうかと提案してきた。佐和子としては梨々花を連れて行かれてしまう気がして気が進まない。離婚後働き始めた契約社員としての収入ではとっても留学などはさせてやれない。心は揺れるが、梨々花にはまだ話していない。梨々花は聞き分けがいい子で、母の悲しみや頑張りまでも察してくれるいじらしいところがある。勉強も好きだと言うので、佐和子の大学時代の同級生の野坂に梨々花の家庭教師を頼んでいた。野坂と梨々花は、母には言えないことも話し合っている様子だ。野坂は大学の講師で薄給だというが、義彦と違って素直で心優しい男だ。野坂とやり直してみることを妄想する佐和子だが、子持ちで父の面倒も見なければならない佐和子の現実は厳しい。

父と行く二回目の文楽は『日高川入相花王』、歌舞伎や能楽の娘道成寺でも演じられる演目で、嫉妬に狂う清姫が蛇になって恋しい人を追いかけるというもの。そんなにまでして好きな人を追いかける清姫のことを好きにはなれない佐和子。父は佐和子の心を察していた。頑固で口数が多い方ではないと思っていた父が、佐和子のことを慮ってくれていることが、佐和子にも徐々に理解できるようになる。

佐和子が勤める会社での立場は契約社員、誰にでもできる仕事である。しかし、佐和子が他の契約社員による情報漏えいの事実を知ってしまい、それを部長に報告したことで一人の契約社員が退職した。佐和子は職場に居づらくなる。柿生の父のお世話をしながら今の職場には通えない、と思った佐和子は転職を考え始める。

3回目の文楽約束の日に父は現れず、代わりに野坂と観劇することになる。急に検父からチケットを託された梨々花が、思いついて野坂に頼んだのだと。佐和子は野坂からの好意を感じるが、口には出さない。それは野坂も同じだが、野坂は梨々花のことをよく面倒見てくれていて、梨々花も野坂を信頼しているようだ。演目は『伽羅先代萩』、幼い若殿の鶴喜代と乳母の政岡、乳母の子の千松、若殿の命を狙う八汐が登場する。八汐が仕込んだ毒入りまんじゅうを、若殿のお命をお守りするんだよ、と教え込まれた千松が身代わりになって食べて悶絶、政岡は我が子を褒めるというもの。なんて酷い母親なんだ、と佐和子は憤り、野坂も共感してくれる。父が来られなかった理由は検査入院、病気は長く患っている糖尿病からくる網膜剥離だった。手術の結果は、右目は失明、左目は視力が残ったので日常生活はできるらしい。しかし入院生活で衰えた下肢のリハビリのため、父の生活には車椅子と杖が必要になってしまう。

長引く父のリハビリで、今度は一人で観劇することになる佐和子が見たのは『新版歌祭文』、好いた相手に、良い家のお嬢さんである許嫁がいることを知り、髪を下ろして出家するおみつという田舎娘の話。未練を断ち切って頭を丸めたおみつの潔さに、佐和子は梨々花の留学の覚悟を決める。梨々花にはこれから説明すればいい。実家で待つ父にそのことを告げると、とんでもないと反対された。どうせお涙頂戴の人形劇と思っていたが、まんまと近松半二の術中にハマってしまったと、おみつを見習って良いのかと心惑う。

ある日、実家に行くと机の上に老人ホームの申込書控えが乗っている。佐和子にも告げず老人ホームでの生活を送ることにした父。驚いた佐和子だったが、なんと母の三回忌の前から申込んであったという。あのあと、梨々花に留学のことを伝えると、「勝手に決めてくれるな」と、なんとそれ以来口を利いてくれなくなった。「不幸は一度にまとめてやってくる」、母の教えの通りだと思う。

八方塞がりだと思う時、佐和子は野坂から文楽『仮名手本忠臣蔵』に誘われた。惚れた男、勘平に討ち入りをさせてやるために、50両で自分を身売りしたおかる。勘平は切腹、もう勘平の女房になれないおかる。おかるのように生きられたら、と思う佐和子。野坂に惹かれる佐和子だが、収入も少ないだろうし、などと現実的なことまで算盤をはじいている自分が情けないし、決定的なことは警戒して言えない。観劇のあとの喫茶店で、野坂から梨々花がクラスで虐められていること、今はそれに打ち勝とうとしていること、それに留学への気持ちことを聞く。野坂が梨々花との伝言板になってくれている。そういえば、父も野坂くんはいいやつだ、なんて言っていた。

季節が変わり、佐和子は職場を変わった。梨々花は短期の留学をしてみると言ってくれた。野坂は梨々花の希望する飼い猫の世話のためと、しばしば家に来るようになっている。野坂との距離は徐々に近づいていた。車椅子の父も、介護タクシーを使ってなら文楽にいけるというので、梨々花と3人で文楽を見に行く。演目は『近頃河原の達引』猿回しの子猿が可愛い。文楽が初めての梨々花も大喜びだ。浄瑠璃が唸り、三味線が泣く文楽を見ていると自分の人生が客観視できる気がする。多少困ったことがこれから起きても、前を向いて歩ける気がしてきた。本書内容は以上。

現実離れした江戸時代の文楽ストーリーは悲恋と心中、不条理ばかりなのに、心が惹かれ見たあとは落ち着くし、また見たいと思う。それがお芝居というものか、西洋のオペラの筋書きも似たような話が多い。ポイントは浄瑠璃で語られるストーリーであり、人形と人形遣い顔。人形の顔は見ただけで、善人と悪人が分かるようになっていて、人形遣いの手で生きているように微妙な感情を表情と仕草だけで表現する。観る側は誰でもが登場人物を自分の頭の中で自分自身の人生として写像を映す。そのプロセスが苦しかったり、楽しかったりしてリピーターになるのだろう。頑固な父のおともで通い始めた文楽に、人生の一歩を前に向いて進むよう押される37歳のシングルマザーも、読者にとっては文楽人形である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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