日本における死生観は病魔への対応、怨霊、死にかた、死への姿勢、お墓、葬儀などに影響する。日本歴史において、こうした死生観が歴史を決める、変えることもあった。
1.首 戦闘の結果、敵将の命を奪ったことの証明として一番確かなものは首。武士にとっての一番の辱めは生首を晒されること。だから敵将の首を自身の主君の前に持ち帰り、主君は首を確認して部下の殊勲を称える。しかし人間の首を切り取り持ち帰ることは容易ではなく、多くの武士にとって一度の戦いで持ち帰ることができたのは一つ。一生に一度でも兜首を持ち帰れば、武士としての面目は立ったと言われた。平安時代以降戦国時代までの成人男子は、烏帽子を被り、寝るときにも取らなかった、つまり烏帽子がない状態の頭を見られるのは恥辱とされたのも、首をさらされることを嫌った理由。烏帽子がない状態で自画像を描かせた最初の戦国武将は信長で、出家すれば構わないとされたため、「坊主めくり」という遊びも可能となった。武田信玄がいたのではないか、という疑問には、よく見ると頭の後ろに小さな髷が見える。
2.切腹 日本で最初に切腹をした武士、明確ではないものの源平合戦の義経の部下だった佐藤忠信。鎌倉時代になるともう少し一般化して、宝治合戦で北条氏に敗れた三浦一族の何人かは、自ら顔を削ったうえで切腹した。切腹が武士の花道としての死に方だという形が完成したと思われるのが赤穂浪士で、その話が有名になり名誉ある死に方とされ一般化した。
3.不浄と病魔 日本では死を穢れと認識していたため、死体を日常生活からできるだけ遠ざけた。これが伝染病の蔓延をある程度は防げた理由となるが、それでも天然痘、麻疹、梅毒、コレラでは苦しめられた。
4.怨霊 怨霊で有名なのは早良親王、桓武天皇の弟で長岡京への遷都に反対し、藤原種継が暗殺されたときに疑いをかけられ淡路島に流罪となり自殺、怨霊となる。次に現れたのは左遷された菅原道真。伊勢物語や源氏物語でも怨霊は度々登場する。そして平将門、崇徳院と続く。悲惨な死に方をした天皇への諡に「徳」が付くのは怨霊を恐れたためとされる。安徳、順徳。仁徳は怨霊思想以前なので該当しない。
5.葬送 都市では死体処理は街外れで行われた。京では鳥辺野、蓮台野、化野、鎌倉では七切通し。天皇や公卿などを除いて、日本で葬儀が行われるようになるのは江戸時代以降。しかし仏教浸透以降は遺骨だけはしっかりと処理しようと遺骨を大切にするのは、火葬が一般化したから。
6.臨終 信長臨終の様子を伝えたのは逃がされた取り巻き女性であり、それを聞いて太田牛一が書きとめた「信長公記」による。細川ガラシャの場合、クリスチャンである彼女は自殺ができないため、細川家重臣の小笠原松斎に刺殺してもらって臨終を迎えた。これは侍女として仕えていた霜が、ガラシャ夫人の孫である細川光尚から依頼されて書き留めた「霜女覚書」があるから確かなこととされる。
首切り、切腹、怨霊など日本独特な死への姿勢はこうした歴史により変化しながら続いている。本書内容は以上。