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意思による楽観のための読書日記

女たちの本能寺 楠戸義昭 ***

本能寺の変により運命が変わってしまったのは、信長と光秀、秀吉。それにもまして、彼らを取り巻く女性たちの運命をも激変させた。

信長の妻だった濃姫、父は斎藤道三であり当時の典型的な政略結婚だった。明智一族の小見の方が母であり、光秀と濃姫となる帰蝶はいとこ同士。濃姫は本能寺の変の時にはもうこの世にいなかった可能性が高く、信長による美濃制圧と岐阜城入城以降、生存していたという一次資料はない。濃姫と信長の間には緊張感がいつも漂っていた。

信長は23人の子を成しているが、多くの側室がいた。なかでも御台とよばれ一番寵愛を受けて正室扱いをされていたとも言われるのが、生駒家の吉乃(きつの)。吉乃は幼名奇妙という信忠、茶筅と呼ばれた次男信雄も産むが、その後、長女五徳を産んで体を壊す。この吉乃のために建てたのが小牧山城に作られた御台御殿だが、吉乃は29歳で亡くなる。信長が女性として一番愛したのは吉乃だった。

そして光秀の妹のお妻木は信長に最も信頼され政治的外交を担当させ重用された女性だった。お妻木が資料で現れる天正五年以降、光秀は織田家家老へのスピード昇進を果たす。しかし、そのお妻木が天正9年に亡くなったことが、光秀を遠ざける原因ではないかという推測も存在する。長宗我部元親との連携を模索することが光秀に与えられたミッションだったはずだが、お妻木の死亡直後より、信長はその方針を無視し、光秀の交渉人としての立場が危うくなる。公衆の面前での面罵などの事件もお妻木の死後のこと。本能寺の変で襲撃してきたのが光秀と分かると信長は「是非に及ばず」と言ったとされるが、「光秀よ、お前も天下人になりたかったのか」という思いが渦巻いたのかもしれない。ひょっとしたら、信長は紅蓮の焼き討ちの炎の中にお妻木の幻影を見たのだろうか。

お鍋の方は、近江の高畠新二郎の娘である。最初の結婚は、本家の小倉右近の大夫賢治に嫁ぎ、滅ぼされたところを信長に助けられた後に、信長に嫁いだ。本能寺の変の時に、信長の妻として菩提を弔ったのはこのお鍋の方。信高、信吉、お振の母であるお鍋は、秀吉が挙行した豪壮な信長の葬儀において、信長、信忠の野辺位牌を受け取っているからである。スケートの織田信成さんは、この子孫だとのこと。

光秀の正室は煕子、本能寺の変の6年前にはなくなっているとする墓も坂本の西教寺にはあるが、「明智軍記」には本能寺の変直後に坂本城で見事な最後を遂げたとする。実際には不明。その息子は3人、娘は4人いたとも言われるが、いずれも本能寺の変で亡くなり、細川忠興夫人のガラシャのみが生き残る。

信長の妹お市の方は、浅井長政が滅ぼされたあとも信長に引き取られていたが、本能寺の変で、三男信孝を支持。25歳も年上の柴田勝家と自分の意思で再婚、秀吉による包囲戦まで行動を共にする。しかし最後は3人の娘を秀吉に引き渡し、自らは勝家と天守閣で炎に包まれて死を選ぶ。お市は生きて秀吉の相手をさせられるなら死んだほうが良い、と心に決めていた。お市は浅井氏領地を奪った秀吉が心底嫌いだった。しかし皮肉にも、生き延びた長女茶々は秀吉に嫁ぎ、三女お江は、家康の子秀忠の正室となり後の家光となる竹千代を生む。さらにお江の子、千姫は秀吉の子秀頼に嫁ぎ、和子は後水尾天皇に嫁いで後の明正天皇となる興子を生む。

明智光秀の妹と斎藤伊豆守との間に生まれた斎藤利三も本能寺の変で亡くなったが、その娘お福は数奇な運命をたどる。関ヶ原の戦いで戦功を上げた稲葉一成に嫁ぎ、その後、竹千代の乳母となる。家康に血筋の良さを見込まれたことによる。お福は竹千代を秀頼の次の将軍とすべく、伊勢参りと称して自ら通行手形を得た上で、駿府にいた家康に直訴。長男である竹千代を世継ぎとすることを願い出る。家康はその後、長子相続の原則を徳川将軍家のルールとすることになる。お福は、家光の乳母として大奥女中の総取締役となり、春日局となって大いなる権力を振るうことになる。本書内容は以上。

本書に紹介された7人の女性たち。歴史には大いに翻弄されたが、父親に決められた嫁ぎ先に行って子供を生む、だけではない女性たちの生き様が垣間見られる一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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