意思による楽観のための読書日記

世界史の中から考える 高坂正堯 ***

筆者の死後出版された二冊目の著書。2011年4月に創設された東日本大震災復興構想会議議長を務める五百旗頭真が「歴史の中で世界と日本の問題を自在に論ずるスタイルは高坂氏の持ち味によく適合している」と解説で書いている。2011年の今、1990年代に書かれたこれらの評論を読んでみて、あのときはどう考えていたのだろうと考える。「成功にはときとして挫折以上の苦い味がある。成功は長期的には失敗の種子を内包している」、「いわば成り上がり者の成功とナショナリズムほど恐ろしいものはない」、など、本当にそう思う。

歴史の経験則。「バブルは三流国が二流国に、二流国がやがて一流国に手が届こうとする際に生ずる。17世紀のオランダ、18世紀のイギリス、1929年ころのアメリカ、そして1980年代の日本がそうである」と。1873年に崩壊したドイツのバブルは1870年の普仏戦争の勝利と1871年のドイツ統一とともに始まった。19世紀はイギリス、フランス、オーストリア、ロシア、プロシアが五大国、一番弱かったのがプロシアだった。そのプロシアがオーストリアとフランスを破ったのだから人々は有頂天になった。世界で日本的経営が賞賛され日本製品が世界を席巻したとき、「もはやアメリカから学ぶことはない」などと考えなかったか。その後ドイツは世界大戦を引き起こす。歴史は似ていても同じことはおらないのであるが、歴史に学ぶべきところは多いはずである。

明治維新の1868年という時代は世界で政治上の大変化が続いていた。1865年にはアメリカで南北戦争が終わりアメリカが統一された。1866年にはイタリアも教皇領をのこして統一され、普仏戦争後1871年には南部ドイツが統一、戦争に負けたオーストリアもオーストリア・ハンガリー二重帝国へと政治体制を変更、近代化を終えていたイギリス、フランスを含めて多くの欧米列国が近代国家へと歩みを進めていた時期であった。明治維新成功の大きな理由がこうした時代背景にあったと筆者は指摘する。当時の日本人は日本の体制を変えて西欧から新技術を取り入れなかれば植民地化されてしまうと危機感を持った。これは幕府側も、尊皇攘夷派も公武合体派も同じ思いであった。どんな体制でもそれに関わる人々がその体制の正当性と能力に自信を持っている限り崩壊などしない。

1928年政友会の田中義一内閣は居留民保護を名目に済南に出兵、軍事衝突を引き起こした。関東軍は張作霖爆殺事件を引き起こし田中内閣は断固たる態度を示せずに総辞職に追い込まれた。その後、民政党の浜口雄幸内閣がロンドン軍縮条約を締結して批准を求めると「統帥権干犯」であるとして憲政の神様とされた犬養毅は浜口を攻撃したのである。憲政の神様が政党内閣制の根幹を破壊する自殺行為をしたと言える。米英なにするものぞ、というナショナリズムに迎合してしまったのであろうか。「二大政党の政策の違いを外交政策でも強調しすぎたことが日本の政策を非常識の方向に歪めていった。それは原則を持たなかったから」というのが筆者の指摘。現在の状況とそっくりではないか。

米内光政は人間としても魅力的であり、政治家としても立派だった。しかし米内は2度の失敗をしたという。一度目は上海出兵、二番目は国民政府を相手にせずという近衛内閣の決定に同調してしまったこと。上海では上海租界にいた陸戦隊はその10倍の戦力を有する中国軍と戦っていたので、彼らを見殺しにすることは海軍の長としてできなかった。二番目の失敗、その時の大本営連絡会議で粘り強く中国政府と交渉すべきと主張した陸軍参謀次長と海軍軍令部次長。交渉打ち切りを主張したのが杉山陸軍大臣、それに同調したのが近衛首相、広田外相、末次内相、そして米内海相だった。「交渉継続では陸軍内を説得できないだろう」という考えだった、というが、政治家はこうした一瞬の判断を後世からは評価されることになる。当時の指導者の勇気と責任感、現実主義的認識力の欠如は今だから言えることであろうか。
世界史の中から考える (新潮選書)

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