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意思による楽観のための読書日記

進化しすぎた脳  池谷裕二 ***

 脳科学者が高校生に講義をする形式で書かれた大脳生理学の最新研究紹介。

人間の脳と動物の脳を比較するときによく使われるホムンクルス、これは大脳皮質の表面積の比率に従って体の各部位の機能を受け持つ範囲が大脳のどのくらいの割合を示すかを人体の絵で図式化したもの。人間でみると最大の部分は人差し指と舌、唇、その他の手指、目、耳、鼻足の指、脚、腕という順序になる。サルでは下あごが最大で、手足の指が並列で続き、それは哺乳類の猫やウサギも同様だが、ウサギになると手足の面積はサルよりずっと小さくなる。その動物にとって何が一番重要化ということを視覚的に示すので分かりやすい。人の人差し指がそんなに重要だとは感じていなかった。しかしこうした脳の地図は生まれながらに備わっているのではなくて、成長とともにダイナミックに変化してくる。だから、練習するとピアノがうまくなり、料理の味にもうるさくなるというわけ。人は運動神経でみると猿よりも劣るが、その分知能を発達させたのは人として生き残りのためには考えることが重要だったから。

 目の錯覚、という表現があるが、これは目が見ている世界というのは脳がそのように解釈しているという映像を表現する言葉。遠近、大小、早い遅いなどの判断を脳が下す際に、そのように解釈するほうが都合がいいから。今、人が見ている世界というのは、逆説的に聞こえるが、人の目があるから存在している、とも表現できる。可視光というのは人が見える範囲の光の周波数であるが、人には見えない紫外線、赤外線だって実は存在はしている。鳥や昆虫が見ている世界と人が見ている世界は異なるということ。

人が考えるのは言語があるから。言葉がなければ抽象的な概念は考えられない。事象を抽象化することで起きた事柄を一般化して法則や原則を見いだせるのは人間だけ。英語と日本語にも違いはある。そこに概念の違いも生まれる。簡単な例でいえば先ほどのホムンクルスで出てきた足と脚、手と腕、日本では足と脚をあまり区別しない。英語には背中はあるが腰はないので、腰痛はbackpain、つまり背中痛となり、日本人の考える腰が痛いとは少し違う。しかし表情は万国共通で、これは言葉よりも前から存在し、どの国でも次の6つ。喜び、悲しみ、怒り、驚き、不安、嫌悪。これは言葉以前からある感覚なので民族の違いによる変異がないという。

人の記憶があいまいな理由、それは記憶があいまいであると、共通する事象を抽象化、一般化して記憶に置き換える。正確無比な記憶のほうが良いように思えるが、あいまいな記憶であれば一般化されているので応用が利くが、正確無比ではそのままでしか活用できないので不利。つまり、犬、それは尻尾があって四本足の口のとがった動物、ワンワンと吠える、となるがこれが正確無比な記憶であればトイプードルはチワワとは異なるので同じ犬ではないと判断されてしまい、犬がいた、とは記憶できないということになる。つまり、見る、という時点で解釈が加わり、脳に格納される時点でさらに一般化されて蓄積されていくので、記憶が応用が利く、そして生き残りのために有利な情報処理として人は生き残ってきたというわけである。

なぜ、人は納豆やドリアンを食べるのか、臭いもので懲りると二度とにおいの強いものには手を出さないのではなく、チャレンジしてみる、これが人の進歩につながってきた。つまり応用を利かしながらも新たなものに好奇心も抱く、これが人類の強みであった。脳の発達はこうして行われてきたが、まだまだ発達する余地を持つ人の脳の能力は潜在的にはさらに大きな力を発揮できる。DNAの9割以上が休眠状態にあるように、脳のポテンシャルも9割以上がまだまだ生かし切れていないという。「進化しすぎた」というよりも他の動物よりはるかに活用されるに至った人の脳、まだまだ活用の余地はあるということである。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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