仙台と山形を結ぶ線より北側は長く蝦夷の地であった。中央であった京都や幕末期に向けて東北に対する優越感を持ち続けた。戊辰戦争はこうした東北観を固定する働きがあった。天皇には向かうのは未開の地の民、という認識で西南諸国を中心とする官軍は奥羽越列藩同盟に立ち向かった。つまりそれまでの東北=エゾ=未開地、という図式に朝敵という意識が加わり、敗者の汚名を着せられたのである。その後の新聞などでの記述がその気分を物語っている。1876年東京日日新聞「青森は諸州船舶の多く出入りするところなれば、もとより淫乱の風あれども、近来に至っては風俗ますます醜悪に流れること甚だし」、「秋田県は昔より淫奔の甚だし処、堕胎の習慣が未だに残り、人民は概して頑愚」郵便報知新聞「山形は男子の頭髪まちまちにして結髪坊主頭多く断髪は10人に一人なり」東京日日新聞「若松県では市中の家はもとより甚だ粗にして汚穢し、辻便所はようやくやみたり」総じて、東北各地の生活には野蛮、未開、不潔、怠惰、淫乱、固陋などのレッテルが貼られ嫌悪と嘲笑のまなざしが向けられたのである。逆に東北地方を開発することがこれからの日本発展には重要である、との意見も述べられた。
1882年頃の下北半島の民衆をデッサンした津田永佐久の遊浴日記ではアイヌの衣装をまとった農婦と日本風の衣装を身にまとう山仕事をする者が描かれ、アイヌの生活様式が日常であったことが分かる。
1888年には新潟で東北15週委員会が開催され、陸奥、陸中、陸前、岩代、磐城、羽後、羽前、佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭、信濃から人を集めている。東北と裏日本の各地方が団結しよう、というよびかけであったが交通の不便さが団結を妨げ、一体感は打ち出せなかったという。東北6県、日本海と太平洋、北越と東北それぞれを結ぶ交通は甚だ不便であり、そこに一体感を持つという感覚が持てなかったのである。
日清・日露戦争の勝利から東北地方にはさらに発展の要請があった。対ロシア政策の強化である。世界との貿易を東北を拠点にして進めたい、という希望が出てきたのだ。
弘前生まれの陸羯南は次のように言っている。「東北の侮られ無神経と言われ一山百文といわれたる、また久とせざるか、むしろ西南をおそるるも、西南に恐れられざる、これをスコットランドに比する、実に著しき懸隔あり。スコットは英人を以って組み易しとす、而して英人の之を憚ること甚だし、スコットは自らスコットたるを名誉とし、敢えて英人と呼ばるるを欲せず」東北人よスコットたれ、という叫びである。
東北―つくられた異境 (中公新書)
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