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意思による楽観のための読書日記

坂本龍馬と北海道 原口泉 ***

NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」の時代考証を担当したことで知られる筆者は、南九州や琉球の近世、近代史の専門家。明治維新が成る直前に殺害された坂本龍馬は、海外との交易に関心が強かったことが知られるが、海外との窓口として開港された箱館、そして開拓の可能性にビジネスチャンスを見出されていた北海道に行くことを計画していたという。2009年には函館十字街に「北海道坂本龍馬記念館」が開設された。お菓子で有名な六花亭の包装紙は、坂本龍馬の姉の千鶴の子孫である画家の坂本直行が描いたことでも有名。

記念館には坂本家ゆかりの品々が100点以上展示されており、姉の乙女宛の龍馬自筆の手紙には北辰一刀流千葉定吉の娘、佐那との相思相愛関係を示す文面がある。薩長同盟成立の期待の中で、姪に宛てた手紙もある。その中には命を狙われていることをうかがわせる内容もあり、龍馬の消息を知ることができる一級の歴史史料である。幕末の北海道はロシアとの軋轢を背景とした微妙な位置にある広大な場所であった。幕末の様々な動きの中で、有為な若者の無駄な死にざまを見た龍馬は、彼らに将来の日本を発展させてくれる可能性がある北海道開拓に役立てたいという思いがあった。妻のお龍との薩摩での新婚旅行中、アイヌや北海道の史料を調べていた龍馬、そして龍馬の思いを助けるためお龍もアイヌ語を学んでいたという。

龍馬が書いた手紙は多く残されているが、姉の乙女宛の一つに、「西は長崎より、東は松前から蝦夷まで」と書かれたものがある。日本を今一度洗濯しようと思う、に続いて、自分の思い付きに大藩越前藩も同意しているという内容。また、慶応3年2月の河田左久馬あての手紙には「此度は既に北行の船も借り受け申し候」と書いた。神戸海軍塾に在籍当時から浪士を北海道に移してその開発と北辺防衛を計画、その計画実現のために書かれたものとされる。「3月中旬より4月朔日には出帆したし申し候」とあり、新政府の閣僚には関心はなく、新たな開港地である箱館でのビジネス展開に準備を進めていた証拠でもある。

慶応3年3月の印藤のぶる宛の手紙には「私は蝦夷に渡ろうと思ったその時から、新しい国を拓くことは長年の宿願であった。一生の思いなので一人でもやり遂げたい」と記している。龍馬が殺されたのは慶応3年11月15日、その4日前にも林謙三宛に「蝦夷の一条は別してかねて存込みのこと」と記し、林から蝦夷のことを海軍充実の必要性として同意していた手紙への返答だと考えられているという。妻のお龍の回顧録に「北海道ですがずっと前から海援隊で開拓するといっており、私も行くつもりで北海道の言葉を一々手紙へ書きつけて毎日稽古しておりました」と書いている。

こうした龍馬の北海道への思いを受け継いだのが、岩崎弥太郎、そして榎本武揚だった。海運業を起こした弥太郎、そして蝦夷共和国を夢見たのが武揚だった。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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