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意思による楽観のための読書日記

1968年 中川右介 ***

今から53年前の1968年は、私が13-14歳、中学二年生だった年である。少年マガジンと少年サンデーを毎週読み、毎日18時から21時までテレビを見ていた。テレビは一家に一台しかないので、チャンネル選びは家族間で競争的だった。漫画では巨人の星とあしたのジョーに夢中になり、その後は忍者武芸帳、カムイ伝へと少しは大人になっていく。漫画を買うお金はないので、友達同士で借りて回し読みをしていた。テレビではグループサウンズに友人みんなが浮かれる中、アメリカのフォークソング、PPM、ブラザーズ・フォーに夢中になっていた。お年玉でもらうお小遣いは当時2000円もしたLPレコードに使った。本書はそんな年、1968年に絞り、4つの切り口から振り返る。1.グループサウンズとザ・タイガース 2.少年マガジンと少年サンデー 3.プロ野球の江夏と巨人の星飛雄馬 4.黒部の太陽を作り上げた三船敏郎と石原裕次郎。

学校に行くと話題になるのは昨日のテレビの話と少年マガジンの次週号に向けての話題だった。映画では親に連れて行ってもらう時代、ゴジラと若大将、チキ・チキ・バン・バンや2001年宇宙の旅もこの時代だった。レコード大賞にブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が選ばれ、伊東ゆかりの「小指の想い出」やいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」もこの時代、吹奏楽部で流行した歌謡曲を演奏するのが嬉しかった。タイガースの沢田研二は長髪なので不良扱いされていたが、女子には人気があった。1967年12月の紅白歌合戦の司会は宮田輝とコメットさんに出演していた九重佑三子。本書によれば初出場組には山本リンダ、扇ひろ子、黛ジュン、佐良直美、布施明、美樹克彦、菅原洋一、荒木一郎である。

その後爆発的に人気が出るドリフターズとコント55号は人気沸騰直前、「全員集合!」は69年10月から、コント55号は結成が66年、「コント55号の世界は笑う」が始まるのが68年7月。私がこの時代にテレビで見ていた記憶があるのは、ウルトラQ、おばけのQ太郎、ザ・モンキーズ、てなもんや三度笠、バックナンバー333、おらあ三太だ、ディズニー、プロレス中継。読んでいた漫画では、巨人の星、天才バカボン、ゲゲゲの鬼太郎、無用ノ介、バットマンX 、そしてあしたのジョーあたり。

ザ・タイガースで覚えているのは京都府立鴨沂高校から聞こえてきた練習の音で、当時高校に通っていた叔母から長髪で不良の沢田研二のことを聞いていた。本書によれば、岸部、瞳、森本は別の高校だったとかで、鴨沂高校での練習は短期間だったのかもしれない。大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に「ファニーズ」として出演、来ていた内田裕也にスカウトされ、渡辺プロダクションに入り、すぎやまこういちから、大阪から来たんやろ、という理由で「ザ・タイガース」と名付けられたという。

ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」がラジオで火がついたのもこの年。当時ラジオを聞き始めたばかりの中学生にとっては、面白い曲、ということで人気が出た。1968年のレコード大賞はレコード売上では18位の黛ジュンの「天使の誘惑」、一番売れたのは千昌夫の「星影のワルツ」続いてが「帰って来たヨッパライ」「恋の季節」「小樽のひとよ」「恋のしずく」「花の首飾り/銀河のロマンス」だったが、紅白歌合戦にザ・タイガースは長髪が不良とされ出演していない。

1958年創刊の少年マガジンと少年サンデーは10年目、読者層は小中学生だったが、この頃から出版社はその上の高校生大学生を意識し始め、劇画にシフトしていくビッグコミックが創刊された年だった。漫画はテレビとの同時両立時代で、巨人の星、ハリスの旋風、おそ松くん、さいぼーぐ009、おばけのQ太郎、ワタリ、ゲゲゲの鬼太郎、丸出だめ夫などが続いていた。

星飛雄馬は親思いの孝行息子で、人一倍努力して巨人軍に入団。球質の軽さを補うため、その後も血の滲むような努力で大リーグボールを生み出す。一方の矢吹丈は、登場するのは下町のドヤ街で、こちらも世の中の嫌われ者丹下段平と組んで、良い子ぶった登場をする力石徹とライバルになっていく。星飛雄馬のライバルには努力家の左門豊作とお金持ちの息子の花形満が居て、不良の主人公ジョーのライバルは努力家の力石徹である。ちゃんとバランスが取られているのだ。

映画の世界では、1968年は斜陽産業への転落の年。最大のヒット作は「黒部の太陽」で、東映、日活、東宝、松竹、大映という5社で協定が結ばれた各社専属監督・俳優・スタッフで系列の配給会社も相互不可侵という「五社協定」に一石を投じる作品だった。仕掛けたのは当時の2大スター、三船敏郎と石原裕次郎。政治家を目指していた石原慎太郎や映画の舞台になる電力会社なども巻き込んだ既存勢力と2大スターの戦いとなった。1968年時点でも
黒澤明や木下恵介、三船敏郎、勝新太郎、石原裕次郎は専属契約を解約して自分のプロダクションを設立し始めていたが、映画会社の力もまだまだ強く、協定破りの俳優は干されることもあった。各種の妨害工作に一度は「黒部の太陽」を諦めかけた裕次郎だったが慎太郎の助けもあり撮影、上映、配給にこぎつけ、2月からの上映で年内だけで売上7億9600万円、この年の最大ヒット作品となる。

後日談。ザ・タイガースは71年解散、しかし89年には再結成メンバーで出場を果たす。フォーク・クルセダーズの加藤和彦は2009年自殺、星飛雄馬は69年に恋人日高美奈と出会うが美奈は急死、大リーグボール第二号の「消える魔球」を生み出すがそれも花形満に打たれる。その後の大リーグボール第3号は振られたバットを避けるという球種、しかし飛雄馬の左腕はボロボロに。しかしその後は右腕で投げるという「新巨人の星」が76-79年まで続く。あしたのジョーは73年、ホセ・メンドーサとの戦いで破れ、リング上の椅子に座り目を閉じる。その73年、マガジンのライバルである少年ジャンプが100万部を突破しマガジンを抜く。その後も躍進したジャンプは94年末に653万部を達成する。ビッグコミックは月二回発刊、手塚治虫、石ノ森章太郎、水木しげるは亡くなり白土三平も居なくなるが、オリジナル、スピリッツ、スペリオールという兄弟誌も順調に継続している。映画は衰退し、日活は形を変えながら存続、大映はKADOKAWAの部門となり、東宝、松竹、東映が存続している。本書内容は以上。

矢吹丈の登場と成長物語は鮮烈だった。それまでのテレビや学校でも良い子の成長物語ばかりを教わっていた子どもたちに、ジョーと力石は強烈に支持された。今では大先生のような扱いの欽ちゃんだって、デビューの頃はキワモノ扱いで、志村けんは「荒井注の方が良かったやん」というほど面白くもない新人だった。ヤングオーオーで司会を務める桂三枝と笑福亭仁鶴、それに4人まとめてデビューした八方、小染、文珍、きん枝、出場者にお土産に渡されていた当時未発売の「カップヌードル」にも興味津々だった。裏番組で「てなもんや」をやっていたから、妹とのチャンネル争いは熾烈だった。当時の記憶は「三丁目の夕日」のようにのんびりした雰囲気ではなく、もっと激しく刺激的な「上昇気流」があったような気がしている。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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