見出し画像

意思による楽観のための読書日記

オランダ商館長が見た江戸の災害 フレデリック・クレインス著 磯野道史解説 ****

江戸時代、初期には平戸に、のちに出島にオランダ人の日本における活動拠点があった。そこには日蘭ビジネスをつかさどる商館があり貿易管理を行う機能を果たしていた。商館長は貿易記録や財務記録とともに勤務と江戸参府に関する日記をつけることがオランダ本国から義務付けられていたため、報告書の目的で、当時の日本の社会や文化に対するオランダ人ビジネスマンとしての感想や情報が記述された。記録は1633年から幕末までのものが残されオランダのハーグ国立文書館に保管されている。本書では膨大なその記録の中から、日本における災害記録を、オランダ商館長の行動と対応、思考に焦点をあててまとめた一冊。筆者はベルギー生まれの日欧交流史を専門とする国際日本文化研究センター准教授。

オランダ商館長の任期は基本的には一年、就任時には江戸の将軍に挨拶に向かうため九州から船で大坂に向かい、そこから陸路で東海道を使った。オランダとしては日本の金銀銅を輸入することで利益を得ており、将軍から貿易許可を得続けることが最重要課題であったため、挨拶は欠かせなかった。江戸には一月ほど滞在することになるが、将軍お目見えのために長期間待たされることもある。1656年11月に就任した商館長がワーヘナル、江戸で明暦の大火に遭遇した。江戸は火事の多い町、江戸年間に大火と呼ばれる火災は江戸49回、京都9回、大坂6回、金沢3回おきている。人口は1750年ころの江戸が122万、京都37万、大坂41万、金沢13万であるが、裏長屋が多い、独身男性が多い、その日暮らしの貧しい住民が多かった、などが大火が多かった理由として考えられる。

オランダ人一行が江戸に到着すると、日本橋室町にあった長崎屋という定宿には多くの面会希望者が訪れた。水戸藩主の家臣、尾張藩主の家臣、淀藩主の家臣、紀伊藩主の家臣、長崎奉行の息子など多くの身分のある客が訪問、ワーヘナルはワイン、アーモンド、バター、チーズなどでもてなすので、これら珍しい食べ物飲み物などを経験することが大きな目的となっている。一方、商館長としては幕府の要人たちへの贈り物を持参し、返礼品を受け取ることが慣例化していた。

明暦の大火が発生したときには大目付井上政重の上屋敷を訪問中だった。政重との談笑中に火災に気づいた政重は大目付としての業務のため中座、商館長一行も急いで宿に向かった。火元からは4kmほども離れていたが、強風に商館長は危機感を抱く。宿では書類や衣類とともに贈り物や食料、銀製品などを防火用蔵に運び入れた。長崎屋に居残ることに危険を感じた商館長たちは避難を始めるが、すでに道は車長持ちで荷物を運ぶ避難民であふれていた。江戸の街で火災被害が拡大する理由は道の狭さ、密集した木造家屋、それに車長持による避難、消化ポンプの未熟さだという。一行は長崎奉行の屋敷を目指すが、人がいっぱいで門前払いされてしまう。そこで近くの平戸藩主松浦鎮信を頼ることとする。ところが藩主は深読み、ここで商館長を避難させると、大目付や断った長崎奉行の立場を悪くする、幕府からオランダとの関係を勘繰られてしまう。そこでやはり「ここも危険」と断ってしまう。

その後、大目付、長崎奉行、平戸藩屋敷いずれも灰燼に帰しているので、正しい判断だったともいえる。ここで江戸時代の日本人の自由度についてオランダ人たちの考察がある。法律順守、上司の命令への服従が大前提であるが、その個人の決定については法律で守られていてかなりの自由が利いている。ただその自由に範囲は身分により差があり、最も制約があるのは武士階級で、町民には多くの自由があると考えていた。

オランダ人一行は隅田川のそばの小屋で過ごし、九死に一生を得ている。大目付訪問用の生地の薄い礼服を着用していたため3月2日の夜は寒い、一睡も眠れない一夜を過ごしたという。結局、現金を入れていた書箪笥は助かったが、それ以外はすべて灰になった。これが明暦の大火の一日目である。この大火では江戸の中心部はほとんど焼け落ちた。商館長が避難していた隅田川沿いは江戸城西の丸とともに奇跡的に火をまぬかれた地域だった。食料品が高騰、長崎屋や江戸城、将軍の蔵も灰燼に帰し、夜中に響く子供の声でうなされた。商館長たちは長崎屋復興のために援助を行ったが、幕府もすぐさま粥の施行などの救済施策を実行している。

1657年に新館長に就任したブヘリヨンはオランダで改良された消火ポンプを持ってきた。明暦の大火の後の江戸の町の復興は手早く行われたが、多くの家は急ごしらえの建物だった。将軍家綱への謁見は行われ、政重が取り寄せた新式ポンプが、吉宗のころには採用されていたと思われるが、その後オランダで発明された革製ホースを採用した新式ポンプは採用された形跡がない。理由は不明だが、それ以降の新式消火ポンプは活用されることはなかった。

その後の商館長も元禄地震や唐人屋敷の火災、宝永元年能代地震、肥前長崎地震、京都天明大火、島原大変肥後迷惑と呼ばれた普賢岳の火砕流、雲仙岳噴火、富士山噴火などを経験している。火災や地震などの災害が多い国に暮らす日本人たちがたくましく災害に対応し、素早く復興するさまに驚きを示していることが読み取れるという。本書内容は以上。

地震を経験したことがない外国人は日本で強い地震を経験すると、驚愕するという。その後の津波も同様の驚きだと思う。一方、ハーグの国立文書館にこうした記録がすべて残っていることにも驚く。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事