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意思による楽観のための読書日記

「東北の独眼竜」伊達政宗 榎本秋 ***

伊達政宗は1567年に゙輝宗と義姫の長子として生まれ、12歳で初陣、17歳でその器量を認められ輝宗から当主の座、家督を譲られた。当時の東北地方には蘆名氏、佐竹氏、大崎氏という強敵が揃っていたが、お互いが入り婿、嫁取りを繰り返し、微妙なバランスを維持していた。しかし政宗は1589年には蘆名氏を滅ぼし蘆名領だった会津に入る。1590年には秀吉による小田原攻めが始まり、出陣の命令に遅刻。しかし政宗のブレインであった片倉景綱のアドバイスと家康による取り成しで事なきを得た。しかし旧蘆名氏領は取り上げられる。その後の会津での一揆を陰から扇動したのではないかと疑われたときには、数種類を使い分けていた花押に込めた秘策(本物なら針で穴を開けている)ことを秀吉に訴え、再び命拾い。朝鮮への出兵時、京の街への出陣式では、派手な装いの揃い衣装で京の街人から「伊達者」の称号を得る。

秀吉の死後には、長女の五郎八姫を家康の6男松平忠輝に嫁がせ、徳川家とも縁を絆ぐことに成功。関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、東北で直江兼続勢と戦う。その後大阪冬の陣を経て、長男秀宗が宇和島藩10万石の藩主、次男忠宗を跡取りとし、徳川秀忠の養女振姫と結婚する。家光が将軍となってからも政宗は信頼を得続け、1636年69歳まで活躍する。

徳川家にとっては外様ではあったが、戦国大名として島津氏とともに戦国時代から江戸時代末までお家は続いたことになる。しかし幕末には新政府軍と戦う側となり、領地は没収。伊達家の家名は残されたが当時の藩主伊達慶邦の子で数え年3歳の亀三郎を最後の藩主とし、後見人をつけることで領地は28万石に減らされ、多くの家臣団は解体された。北海道の伊達市は仙台藩から送られた開拓民が移住した場所で、蝦夷地警備を命じられた仙台藩の管理地だったから。

政宗は生まれてくるのが10年早ければ天下も狙えたとよく言われるが、どうだったか。チャンスは北条攻めや関ケ原の戦いにおける東北連合軍の成功の可否などにあったが、そこは秀吉や家康に見透かされていたとも言える。支倉常長の遣欧使節団派遣では、スペイン軍による軍艦支援を期待していたという見方もあるが、当人がキリスト教洗礼を受けずには難しかっただろうと思われる。ここぞというときに見せる大向こうを唸らせるような派手な演出は信長と共通する部分がある。領地が東海地方であれば天下取りのチャンスを見つけられた可能性もある。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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