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意思による楽観のための読書日記

東北のしきたり 鈴木士郎、岡島慎二 ***

日本列島に縄文人が住み着き始めたのは約1万5千年も前のことで、弥生人が稲作とともに渡来し始めたのは4000年ほど前から、数百年かけて九州、中国地方から東へ北へと広がっていった。大和政権が成立したあとも、九州南部には隼人族、東北には蝦夷族が勢力を保ち、8世紀までは独立を維持してきた。東北の蝦夷族が侵攻を受けるのは、鎌倉幕府成立後のことで、それまでの長期間、独自の文化圏を維持してきたため、東北にはユニークな風習が今でも残ると言われる。

蝦夷族の末裔は戦う相手であった関東武士団と合従連衡、婚姻を重ね、有名だったのは平安時代には安倍氏、清原氏、奥州藤原氏。こうした家名は大和豪族のものだが、特に関東武士団との間の抗争の後に和睦して婚姻関係を結び、名目上大和朝廷の貴族や豪族の一員となり生き残ったもの。安倍氏は飛鳥時代の阿倍比羅夫、清原氏は元慶の乱の清原令望、奥州藤原氏は平将門の乱を戦った藤原秀郷にルーツを持つ。前九年の役、後三年の役の頃には蝦夷族は関東武士団との混合勢力となっていた。後三年の役では安倍氏に代わり清原氏が最大勢力となるが、最終的には奥州藤原氏が勝利、蝦夷系の最大勢力としてそれ以降100年ほども独立国家として成立し続けた。しかし鎌倉幕府成立後の奥州合戦では鎌倉武士たちが東北各地の領地を恩賞として得るため活躍、奥州藤原氏は滅亡した。

東北地方に古い蝦夷的文化が残りつつ、大和朝廷的な要素を持つ関東地域の文化が入り交じるのはこの頃からの「日本化」の結果である。この時代に勢力を伸ばしたのは、津軽の安藤氏(安東)で安倍氏の後裔を名乗る。会津には蘆名氏、相馬氏、岩手から青森には南部氏が勢力を持つ。伊達氏は南北朝時代に北畠顕家戦力の主力となる。南北朝以降は北畠氏は津軽の浪岡に、斯波氏は大崎の大崎氏と最上氏に分かれた。戦国時代になると安藤氏は秋田地方を治める秋田氏に、南部氏に反乱を起こした大浦氏は津軽氏と称して独立。以降は津軽と南部は犬猿の仲となる。秀吉による国替えで越後から会津に転封してきたのが上杉氏。伊達氏は仙台に転封させられる。

江戸時代には徳川幕府による国替え政策により佐竹氏が常陸から秋田に、秋田氏は常陸国に、上杉氏は米沢へと転封され、もとの領地に残ったのは津軽と南部だけになった。会津は東北と江戸を結ぶ交通の要衝であり好位置にあったため、度々転封対象となり領主が入れ替わる。蒲生氏郷、加藤嘉明、保科正之と続き、幕末には戊辰戦争の悲劇を迎える。このような歴史を踏まえて東北をいくつかの文化圏に分けるとすると、もともとの東北の匂いが残る津軽、南部、仙台、関東武士が入り込んだ秋田、東海の徳川系が入った庄内、越後文化を持ち込んだ置賜、会津、そして関東武士と蝦夷系の入り交じる福島中通り、浜通りの9つのエリアになる。

そのそれぞれの地方には独特の年中行事やしきたりが今も見られる。お正月の各種の雑煮、ナメタガレイは仙台、お盆ではお盆玉をあげたり、仏壇の前に下げ菓子をつるしたり、お墓の前で弁当を広げる法界折り、東北三大祭りの仙台七夕、ねぶた、竿燈と花笠、福島わらじまつり、相馬野馬追などがある。結婚・結納の儀式もさることながら、結婚には本家分家一族による取り決めが強く残る。嫁選びは丈夫な働き手である「太い脚」が決め手。結婚式は派手で豪華。土葬のしきたりが残る葬式や死亡時の死亡広告を重要視するしきたりにも特徴がある。近所付き合い、会合、飲み会では無尽の習慣が残る、食生活では「いただきます」と合掌しないのが多数、旧藩校の県立校に入学するのが最初の関門、教育、習い事などユニークな考え方が数多い。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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