典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

気になる9・10世紀

2014年12月24日 | <歴史>

 今日の活字読み、読書は休みにしようかしらん?と思っている午前9時過ぎです。

 現在の活字読みの軸は、ロシア史で、もうすぐ「ロマノフ朝」(1613~)・・・。つまり、日本の江戸時代に辿りつくところだけれど、ちょっと立ち止まり! 9世紀~10世紀のユーラシア大陸西部の地域に目を転じて、一昨日から「ビザンツ史」の本を数冊、読み漁りました。まあ、ほぼ再読なんで、頭の中を整理する程度かな?

 つまり・・・。

 では、ウラジーミルは、なぜ、ほかの宗教ではなく、キリスト教をしかも、ビザンツから受容したのだろうか。これについては、当時の国際的状況のなかでビザンツが占めていた地位、ビザンツ国内の状況、皇帝と教会の関係などを考慮しなければならないであろう。そして、キリスト教の受容が後発の国家形成期にるキエフ・ルーシにとってもつ政治的意義にも留意しなければならない。明らかに、キリスト教受容は、国家的基盤整備の一環と位置づけることができるであろう。(世界各国史『ロシア史』45ページ)

 じゃあ、これら問いに答えるには、当時のビザンツ帝国を確認しなきゃなりません。この『ロシア史』では、987年・・・。

 九八七年、小アジアで起こった軍司令官パルダス・フォーカスの反乱を鎮圧するため、ビザンツ皇帝バシレイオス二世(在位963~1025)がおこなった援軍要請にたいして、ウラジーミルは皇帝の妹アンナを妻にほしいという条件を出したが、これにたいして皇帝は、キエフ・ルーシが洗礼を受けることを条件に、これを認めた。(同上 44ページ)

 ところが、約束を履行しなかったため、ウラジミールはケルソネスを攻撃しました。そして、仕方なく、バシレイオス二世は約束を実行せざる得なくなり、結果、989年(990)にウラジーミルは、洗礼をうけるんだわネ。

 では、バシレイオス二世って何者か?在位年数が、けっこう長いっ!バルダス・フォーカスの反乱とは何か。どうして起こったのか?

  もちろん、こういうのは、ネット検索がいちばんです。しかし、それでは、詰まらない! インスタントのスープと、自分でゼロから煮込んだコンソメとの差ですかね。しかし、手作りにこだわる必要はなくて、適当にミックスするもよし・・・。ちょっと、頭の中の整理をしまぁすっ

 バシレイオス2世ブルガロクトノスは、まずは、マケドニア朝の皇帝です。(Q.マケドニア朝って何?) 生年は、958年だから、藤原北家九条師輔が政治の実権をもっていた時代で、「天慶・承平の乱」の後、地方分権の時代に日本は入っていく。 近所では、神聖ローマ帝国では、ザクセン家のオットー1世が、962年に「皇帝位」を得て、聖なる十字の御旗のかざして、スラブやマジャール人の支配地に勢力を伸ばしているが、ローマ教皇との力関係はまだ互角かな?「フランス」は、ノルマン人を撃退したバリ伯ユーグ・カペ―がカロリング王家の血統を引き継いでいなにもかかわらず、ローマ教皇から王冠を貰うことによって、「国王」となる。

 一言でまとめれば、いわゆるヨーロッパ地域は、ノルマンやスラブ系民族が動いていて、バラバラで不安定な「地方の時代」ということ? しかし、それが農民やまた商人にとって、困る状況ではない・・・。

 イスラム世界は、割愛して、ビザンツに戻ると・・・。いやいや!

 フランク王国のカールが皇帝になったのは、800年だけれどもこれは半ば成り行きとでもいいましょかいね。貴族出身ではなくて、しかも素行のよくない「教皇レオ3世」が、「苛められてるねん。助けて!」カールに泣きつきにいった埋め合わせ。カールも聖なる十字の御旗(権威)を掲げて、ザクセン、バイエルンとキリスト教化が進んでいない地域、部族に「聖戦」をかけていったというのが「フランク王国」でしょ?カール、シャルマーニューが死んだのは、814年です。

 

 しかし、ローマ教皇、フランクとビザンツとの関係で面白いことがあります。まずは、730年にビザンツ「皇帝レオ3世」が、730年に出した偶像禁止令です。翌731年、ローマ教皇は、「そんな禁止したら、うちは持たん!」と、ビザンツに破門を宣言・・・。まあ、皇帝が偶像崇拝を禁止したって、長年続いたものを、ビザンツ内でも、「ハイ、そうですか」と皆が従うわけでもなく、揉めに揉めます。  

 これはビザンツ皇帝がシリア北部の出身の「イサウリア朝」の話で、最後の女帝エイレーネとフランク皇帝カールとの間に縁談話も出たとか。息子の目玉をくりぬいたおかん(母)は、多神教のギリシア出身ということもあって、偶像崇拝してもええやんか派・・・。

 ところが、802年エイレーネは、贔屓にしていた財務大臣のニケフォロスに見放され、追い出されてしまうのだわ。皇帝になったニケフォロス1世もブルガリアとのいくさで戦死・・・。しばらく、ごっちゃら、ごっちゃらします。

 そして、小アジア、つまり今のトルコのカッパドキア出身の軍人がクーデターを起こし、「アモリア朝」という血統で「皇帝位」が継承される・・・。しかし、最後の皇帝ミハエル3世は、「お気に入り」によって、廃位され、殺されます。「お気に入り」だった男は、バシレイオス1世として、「マケドニア朝」初代となるっこれが867年

 でも、「マケドニア朝」といっても、ギリシアのあのマケドニア出身ではなく、アルメニ人の人たちです。

 では、なぜ、バルカン半島のマケドニアに本拠地を置いたのか?

 こうなると、山川各国史『バルカン史』が要りますね。

 ブルガリアのキリスト教受容は、864年とされています。ボリス1世(在位852~889年)。ほんとは、東フランク王国の方に付きたかったらしいけれど、863年のビザンツの軍事侵攻の結果、いわゆるギリシア正教の方で改宗したとのことね。

 しかし、いつの時代でもお隣さんとの付き合いは、難しいっ 交易は盛んでも、またそれを巡って、揉める・・・。

 バシレイオス2世のあだ名「ブルガロクトノス」は、「ブルガリア人殺し」の意味です。そして、1018年に300年以上続いた「ブルガリア王国」は、彼によって、滅ぼされてしまいます。これは、藤原道長の時代・・・。

 源平の合戦が始まった頃に、ブルガリアは独立運動を起こし、1187年、第二次ブルガリア帝国が再興されると記されています。(『バルカン史』86ページ)

 いわゆる「第3次十字軍」は、1190年で、かの「第4次十字軍」は、1204年・・・。

 以上、本日のお勉強はおわりです。 しかし、ここにイスラム圏は当然として、シチリア、クレタ、イタリアという地域が噛まないと「世界史」にはならへんのです。

 しかし、手元に本が不足しています。買ったはずの一冊が見つからない・・・。ネット情報に掲げられている本をもっていないなどなど。pm5:31

 

 

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